■ライ・クア・バード 21■
自信はあった。元々、頭は悪くない方だと思っていたし、それに加えてあれだけ真面目に勉強したのだ。良い結果が得られるに違いない、と確信していた。
「…………」
おれは椅子に腰掛け、ぐったりと項垂れていた。目の前の机には、返却されたテストの答案たちが伏せて置いてある。
放課後の教室は、やわらかな金色に染まっていた。開け放たれた窓からひやりとした風が流れ込み、くすんだ色のカーテンを揺らした。
……自信が、あったのだ。良い点数を取って、雷蔵に褒めて貰い、その勢いで告白する。そう決意を固めていた。だから正直、おれは告白する気満々だった。努力の結晶ともいえる答案を携え、堂々と、男らしく雷蔵に想いを伝えるのだと息巻いていたのだった。
「さ……三郎……?」
おれの向かいに座っている雷蔵が、恐る恐るといった調子で声をかけてきた。教室に残っているのは、おれと雷蔵のふたりだけだ。放課後の教室で雷蔵とふたりきり、なんて絶好のロケーションであるにも関わらず、おれの心は何処までも暗かった。今ならば、今日で世界が終わると言われても受け入れられそうだ。
「ええと、三郎……その、テストだけど……」
遠慮がちな雷蔵の言葉に胸が抉られる。結果が出たら雷蔵に報告する……という約束だったので全ての答案を用意してはいるが、おれはすぐさまこの場から逃げ出してしまいたかった。
「……駄目だった……」
おれは呟いた。それを告げるのは物凄く、辛いものがあった。胃が重い。油断したら泣いてしまうかもしれないので、眉間に渾身の力を込めて踏ん張る。
「そ、そんなに駄目だったの?」
「……うん……」
「確かに今回は古典とか数学とか、難しかったけど……」
「雷蔵に褒めて貰おうと思ってたのに……」
「い、いや、ほら、結果とかじゃなくて、三郎あれだけ頑張ってたんだし、その努力だけでもさ……」
雷蔵のやさしい言葉は、ますますおれの心を深く穿った。彼の気遣いが余計に痛い。おれは顔を上げられないまま、ぼそぼそと呟く。
「良い点を取って、大事な話をするつもりだったんだ……」
「大事な話?」
雷蔵の声が少し大きくなった。大事な話。そう、大事な、大事な話である。こんな良い機会は無いと思っていた。しかしそれも、駄目になってしまった。おれは自嘲気味に微笑む。
「……良いんだ。駄目だったもの」
「……ええと、テスト、見ても良い?」
「うん」
頷いた。本当はあまり見られたくなかったが、もういいや……と、半ば自暴自棄になっていた。雷蔵は緊張した面持ちで、一番端に置かれていたテスト用紙に手をかけた。ひとつ息を吐き出してから答案を表に向ける。直後、彼は「えっ」とひっくり返った声をあげた。
「え……いや、はっ?」
雷蔵は何度も首を傾げ、まじまじとそれを見つめた。そしてそっと、机の上に戻す。現国の答案である。あかあかと書かれた点数は、100。
「三郎お前、何でこれで落ち込……」
「それは! それは出来たやつだから!」
「じゃあこれは……。いや、お前、これも」
雷蔵は今度は、世界史の答案を表にした。そこに書いてある数字も、100だった。おれは唇を尖らせる。
「それも出来たやつ」
「……あ、何か展開が読めてきた」
雷蔵は目を細めた。それから咳払いをして、妙にかしこまった口調でこう言った。
「それじゃあ、鉢屋くん。出来なかったやつは、どれかな?」
「……これ」
おれは渋々、別の答案の下に隠していたテスト用紙を引っ張り出した。生物のテストである。
「これだね。開けるよー」
「…………」
「98点」
雷蔵は非情にも、その点数を読み上げた。あまりのいたたまれなさに、おれは両手で顔を覆った。
「死にたい……」
「いやいや、お前ね、これ、ぼく以外の人にやったら怒られるよ?」
「何で?」
おれは頭を上げた。雷蔵が、呆れを含んだ笑みを浮かべている。彼はおれの目を見て、ゆっくりと言った。
「嫌味だと思われちゃうよ」
「意味が分からない」
「だって、ほとんど全部満点じゃないか」
「勉強したもの」
「勉強したって、そうそう取れる点数じゃないんだって。……なんて顔してるんだよ」
一体おれがどんな顔をしていたのかは分からないけれど、雷蔵は笑っておれの肩を軽く叩いた。その触れ合いに、おれの胸は高鳴り、頬が熱くなった。
良い点……すなわち全教科満点を取らなければ雷蔵は褒めてくれないのだと勝手に思い込んでいたが、この風向きはどうだろう。何だか、予想していたのと違う。おれは、心がふわふわと浮き上がるのを感じていた。良いんだろうか。こんな結果でも、良かったのだろうか。
雷蔵は微笑んでいる。可愛い。おれは、ますます彼のことが好きになる。
「いやでも、凄いね。三郎は絶対に、やれば出来るとは思ってたけど、ここまで凄いんだ……うわあ、やっぱり、他のも全部100点だ。すっごい……」
「……あの、雷蔵。今もしかして、おれのこと褒めてる?」
「そうだよー。……でも、褒めてるなんて言ったら、ちょっと偉そうかな。ぼくは満点なんて取れないもん。どっちかって言ったら、尊敬?」
「え、尊敬も良いけど、今回は褒められたい」
おれは慌てて言った。尊敬も、確かに良い響きだ。甘美と言っても良い。しかし今回は、雷蔵に褒められることが第一の目的だったのだ。彼に認められたい。
それが何よりの褒美だ。
「そういうもの?」
何も分かっていない雷蔵は、気楽に笑っている。おれは、しっかりと頷く。
「うん、雷蔵に褒められようと思って、頑張ったんだし」
「変なの」
雷蔵はくすぐったそうな面持ちになって、すいと手を持ち上げた。そのまま彼はおれの頭に手をのせて、やさしく撫でてくれた。
「三郎、よく頑張ったねえ。えらいえらい」
その柔らかな声は、瞬く間におれの全身に回った。胸が揺さぶられる。脳が蕩けそうだ。あまりの嬉しさに、目眩がした。視界が回る。駄目だ。おれは奥歯を噛み、必死で意識を立て直した。
「雷蔵……っ!」
おれは勢いよく、雷蔵の手を握りしめた。考える前に、そうしていた。彼の手が小さく震えるのを感じた瞬間、あっおれは何てことをしているんだ、と思ったけれども止まらなかった。雷蔵の手は温かい。いとしい。心臓が跳ねる。頭がくらくらした。
「え、は、はいっ?」
雷蔵は驚いたように目をまるくした。その表情が可愛い。可愛い。ああ、好きだ。好きだ、雷蔵。それを今、きみに伝えよう。当初の予定通り、男らしく、堂々と。きみへの愛を告げるときが来たのだ。
「…………」
おれは、深く息を吸い込んだ。窓から差し込む金色の光に照らされた雷蔵が、こちらを見詰めている。その目がいつもよりもきらきらしているように見えて、おれは今まで何万回とシミュレートしてきた告白の文句を全部忘れ去ってしまった。うすく開いた雷蔵のくちびるは柔らかそうで、そこから覗く歯は白くて、ああ、ああ、ああ!
「き、きみが……っ、すっ……好き、です……っ」
ぶわぶわと芯のない掠れた声で、ところどころつっかえながらそう言った。男らしさなど微塵も感じられない告白だった。
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