■ライ・クア・バード 20■


「見て見て、雷蔵。単語帳」

 三郎は、何故か誇らしげにポケットから単語帳を取り出した。学校帰り、いつものようにぼくの家に寄ったときのことだった。八左ヱ門も一緒だけれど、彼は今トイレに立っていて、リビングにいるのはぼくと三郎のふたりだけだ。

「うん? うん、単語帳だね」

 ぼくは三郎の手から単語帳を取って、ぱらぱらとめくった。三郎らしい几帳面な字で、きっちりと英単語が書き付けられている。 ごく普通の単語帳だった。特に変わった様子は無い。

「こっちに英語書いて、裏に日本語訳を書くんだよ」

 三郎は嬉しそうに説明してくれた。ぼくは思わず「知ってるよ」と笑ってしまう。そうしたら、三郎はきょとんとした顔になった。

「知ってるの?」

「知ってるよ。ほら、ぼくだって持ってる」

 ぼくはそう言って、傍らに投げ出してあった鞄の中から単語帳を出して、テーブルの上に置いた。三郎はその単語帳に手を伸ばす。

「あっ、本当だ。おれに黙っていつの間に」

「お前に黙って、って……というか、三郎、単語帳知らなかったの?」

「知らなかった」

「英語の勉強とか、今までどうしてたんだよ」

「勉強したことなかった」

 ……ふつう、そんなことを言うのを聞いたら「よく高校に入れたな」とか「なんて嫌味なやつだ」とか、そういった感想を抱きそうなものだけれど、三郎が言うと何となく、成程……と納得してしまう。

「でも、中学のときも同じクラスの人たちとか、これ、使ってただろう?」

「周りが何をやっていたかなんて、全然見てないよ」

 これも、ふつうならば「そんな馬鹿な」となるところだけれど、鉢屋三郎なので、成程……と頷いてしまうのだった。中学時代の三郎がどんなふうだったのかを、ほんの少しだけ垣間見た気分である。彼は今でもじゅうぶん変わっているけれど、中学のときはもっと凄かったんじゃないだろうか。出会いが高校で良かったと安堵すると同時に、そのときの三郎も少し見てみてかった……なんてことも考えた。

 そして、今まで存在すら知らなかったらしい単語帳に手を出すくらい、彼は今回のテストに熱意を傾けているのだということがよく分かった。少し声をかけたくらいで、まさかここまでやる気になるとは予想外だったので、ぼくは正直ほんの少し戸惑っていた。だけど、勉強するのは決して悪いことではないのだから、これで良かったのだ……ということにする。

「何だ、雷蔵も持ってるなら、同じのにすれば良かった……」

 三郎は不服そうに呟きながら、自分の単語帳を引き寄せた。それと同時に、トイレから出た八左ヱ門がリビングに入って来た。 彼はテーブルの上の単語帳を見つけ、「わっ」と声をあげた。

「何、もしかしてテスト勉強?」

 少し嫌そうに言って、八左ヱ門は床に腰を下ろす。そしてテーブルに肘をついて、口元を歪めた。

「まだ一週間あるのに、もうやんの? 三日前からが勝負どきだろ」

 八左ヱ門は苦笑して、手をひらひらさせた。彼の場合、三日前どころか前日からの一夜漬けがスタンダードだ。

「八左ヱ門はいっつもギリギリだもんねえ」

 ぼくはそう言いながら、鞄の中から世界史の教科書とノートを引っ張り出した。別に、今日は一緒に試験勉強をしよう……なんて話をしていたわけではないのだけれど、三郎につられて、何となくノートを開く。三郎を焚き付けておいて、ぼく自身の成績が悪かったら格好悪いし……という気持ちもあった。

「……なんか、二人揃って勉強してるのを見たら、おれもやらなきゃって気になるな」

 八左ヱ門が急に不安そうな声音になるので、ぼくは小さく笑い声をあげた。

「リーディングの試験範囲何処までだっけ?」

 八左ヱ門は、落ち着かない様子で三郎に話しかけた。三郎は単語帳から顔を上げずに、「そこからかよ」と答える。

「なあ三郎、その単語帳見せて」

「何だよ。今、おれが見てんだろ」

「良いじゃん、ちょっとだけちょっとだけ」

 八左ヱ門は三郎の単語帳に手を伸ばすが、三郎は身体をそらしてさっと避けた。それを追いかけて八左ヱ門は身を乗り出し、三郎に飛びつくみたいにして両手で単語帳を狙う。

 じゃれ合うふたりを見て、ぼくは笑顔になった。最近、八左ヱ門はとても調子が良さそうだった。もしかしたら、もう悩みは解決したのかな、と思うくらいに。結局何に悩んでいたのかは教えて貰えなかったけれども、いつもの明るい八左ヱ門が戻ってきたなら良かった。

「元気だなあ……」

 ぽつりとこぼすと、八左ヱ門がくるりとこちらを向いた。

「うん。やっぱ、現実は良いなと思って」

「は?」

 ぼくは首をかしげた。彼の言葉が頭に染み込んでくるよりも早く、八左ヱ門の右手がこちらに差し出された。ぼくは彼の手を見下ろした。『今、八左ヱ門は何と言った? 』という疑問に、『何で、手?』という疑問が上書きされる。

「握手しようぜ、雷蔵」

「へ? うん」

 まったく流れが掴めなかったが、勢いに押されてぼくは何となく八左ヱ門の右手を握った。彼の手はいつでもあたたかい。ぼくたちはがっしりと握手をした。

「イエー」

 八左ヱ門は何故か嬉しそうに声をあげ、繋がったぼくたちの手を揺すった。ぼくは更に首を傾ける。

「イエー?」

「こういうのが現実」

「うん?」

「やっぱこれが大事だよね」

「はあ……」

 さっぱり意味が分からなくてぽかんとしていたら、八左ヱ門の背後に三郎の姿が見えた。三郎は無表情で、ゆっくりと手を持ち上げた。あっと思うのと同時に、彼は八左ヱ門の後頭部を思い切り叩いていた。ばしん、という痛そうな音が響き渡る。

「いって! 今まともに入った! いって!」

 八左ヱ門はぼくから手を離して、頭を抱えた。三郎はわざとらしく大きな舌打ちをする。

「お前な、邪魔するなら帰れよ」

 三郎の顔にはほんの少し、本気の苛立ちが浮かんでいた。それを見て取った八左ヱ門は、後頭部をさすりながら「何だよ……。分かったよ、静かにしてれば良いんだろ」と言って引き下がった。

「八左ヱ門も勉強するの?」

 尋ねたら、八左ヱ門は首を横に振って「ジャンプ読む」と答えて、表紙の折れ曲がった分厚い漫画雑誌を鞄から出した。飽くまで勉強をする気はないらしい。彼はソファに寝転がり、ジャンプを読み始めた。

 それで、一気に部屋が静かになる。三郎は単語帳に視線を戻し、ぼくも世界史のノートを開く。ゆるゆると年号を目で追ってゆくけれど、何となく集中出来ない。

「…………」

 ぼくはそっと、正面に座っている三郎の表情を窺い見た。三郎は口元をぎゅっと引き締めて、真面目な面持ちで英単語と向き合っていた。こんなに真剣な顔つきの彼はほとんど見たことがないので、何だか新鮮な感じがした。ぼくが知っている鉢屋三郎は、大体笑っているか、つまらなさそうな顔をしているかのどちらかだ。集中しているときの三郎は、こういう風なんだ……と新たな発見に少し楽しくなる。

 ……こうしていたら、三郎も意外と凛々しく見えるかも。

 そんなことを考えて微笑んでいたら、三郎から「……雷蔵」と声がかかった。

「ん?」

「そんなにまじまじ見つめられたら、照れてしまうよ」

 三郎は単語帳を見つめたまま、笑い声混じりで言った。

「…………っ!」

 ぼくは何故だか、罪を暴かれたみたいな気持ちになって、慌てて世界史のノートに視線を戻した。恥ずかしい。物凄く、恥ずかしい。今日は涼しかったはずなのに、首の後ろ辺りがじんじん熱くなってくる。

 ぼくは必死になってノートをにらみつけた。だけど、内容はまったく頭に入って来なかった。





※ちょっと時間軸解説
今ちょうど「ノバディノウズ」と「フロウハロウ」の間くらいです。
「夢は夢だ!」と割り切ることができた八左ヱ門 。