■ライ・クア・バード 18■


 ぼくは迷っていた。目の前にはパックジュースの自動販売機がある。残暑厳しい日の、休み時間のことだった。

 オレンジジュースにするか、コーヒー牛乳にするか。このきわどい二択の狭間で心が揺れ動いているのである。どうしよう。どちらにしよう。……そういえばさっき、八左ヱ門がコーヒー牛乳を飲んでいた。だったらぼくはオレンジジュースにしようか……いやでも、ぼくもコーヒー牛乳が飲みたくなってきた……ような気がする。

 こんな調子で、なかなか決まらない。ああ、本当にどうしよう。

 ふと、背後に人の気配を感じた。誰かが立っている。順番を待っているのだ。ぼくは一気に焦る。やばい。早く決めてしまわないと。いや、いっそ、後ろの人に順番を譲るべきか。そうだ、それが良い。

 ぼくは返金レバーに手をかけた。そのときである。後ろから白い手が伸びてきて、「新製品」の札がついた豆乳いちごのボタンを押した。ことん、という音と共に商品が取り出し口に落ちる。

 ぼくは唖然として、ランプの消えたボタンと取り出し口を交互に見た。

 あれっ、今、後ろの人が勝手に押した? もしかして、ぼくがあまりに遅いから、怒ってしまったのだろうか。相手が先輩だったらどうしよう。とにかく、謝らないと……!

 ぼくは恐る恐る、後ろを振り返った。そこには、色白の男子生徒が立っていた。顔に影が落ちるくらい睫毛が長く、背筋がぴんと伸びている。クラスは違うけれど、廊下で何度かすれ違った覚えがあるので同学年だ。ぼくは、相手が上級生でないことに安堵した。学校生活において、先輩に絡まれること程怖いことはない。

「あ……ご、ごめん。待たせて」

「ううん」

 彼は首を横に振った。それから身を屈めて、豆乳いちごを取り出す。

「迷ったら、豆乳にすれば良いよ」

 そう言って彼は、ぼくの胸元に豆乳いちごのパックを押しつけてきた。ひやりとした感触に、飛び上がりそうになった。そして、ゆっくり理解する。あ、これ、ぼくのなのか。

「はあ……」

 生返事をして、豆乳いちごを受け取った。パステルピンクの、かわいらしいパッケージだ。「とってもヘルシー!」とかなんとか書いてある。いかにも女子が好みそうである。正直、これは選択肢に入っていなかった。

  彼はぼくが迷っていることを感じ取って、代わりにこれを選んでくれたということなのだろうか。でも、何で豆乳? というか、普通勝手にボタンを押したりするか?

 混乱するぼくをよそに、彼は無言で自動販売機に百円玉を投じ、豆乳いちごのボタンを押した。ことん。

「……きみも、迷ったから豆乳?」

 尋ねてみたら、彼は豆乳いちごを手にして真面目な顔をこちらへ向けた。

「ううん、おれはオールウェイズ豆乳」

「……好きなんだ、豆乳」

「うん、昔からずっと」

「昔から」

 なんとなく、ぼくは彼の言葉を復唱した。そうしたら、彼は何故か正面からしっかりと目を合わせてきた。大きな目に圧倒されてしまう。何だかとても眩しい。ええと、こんなに見つめられて、どうしたら良いのだろう。

 程なくして彼はぼくから視線を外し、パックにストローを差した。そして、一口目をゆっくりと飲み込んでゆく。それまで無表情だった彼が、とろけるような甘い顔つきになった。物凄く、美味そうだった。豆乳いちごなんて今まで気にも留めていなかったけれど、そんなに美味いのだろうか。ぼくは思わず、ごくりと喉を鳴らした。

「おーい、久々知!」

 遠くから呼び声が聞こえてきた。豆乳の彼はストローから口を外す。

「あ、うん。今行く!」

 久々知と呼ばれた彼はそう返事をして、自動販売機から離れて行った。ぼくはなんとなく、その後ろ姿を見送る。久々知は背筋を伸ばした格好のまま、さっさと歩いてゆく。

 くくち。久々知。

 ……一組の久々知か!

 思い出した。物凄く成績が良いのだとか何とか、そんな話を聞いたことがある。変わった苗字だったから、意識の中に残っていた。そうか、あれが久々知か。豆乳好きの久々知。ちょっと不思議な感じだったけれど、面白い奴だった。

 ぼくも教室に向けて歩き出す。歩きながら、豆乳いちごを飲んでみることにした。久々知が至福の表情を浮かべていた豆乳いちご。一体、どれ程美味いのだろう。わくわくしながら、桃色のジュースを飲んだ。

「…………」

 改めて、パッケージを眺めてみた。丸っこいいちごの絵が目に入った。とってもヘルシー! ローカロリー!

「……これなら、普通のいちごミルクのが美味しいかなあ……」

 首をかしげて、もう一口飲んだ。うん、いまいち。だけどまあ、飲めないことは無い。脳裏に、久々知の顔が浮かんだ。彼はよっぽど、豆乳が好きなのだろう。好物であんな顔が出来るなんて、何だか良いなあ。

 ぼくは教室の戸を開けた。ぼくの席の傍らに、三郎が立っているのが見える。少し笑って、ぼくはそちらに近づいた。

「雷蔵が珍しいのを飲んでる」

 三郎も微笑んで、ぼくの手元を指さした。

「うん、何かさっき自販機のところで……」

 そこまで言って、ふと考えた。成績の良い久々知。あまり真面目に試験を受けないけれど、本当は頭が良い三郎。ぼくは豆乳いちごを吸い込んだ。クラスメートたちの笑い声が飛び交う。何処かで誰かの携帯が鳴った。ぼくは口を開く。

「……三郎さあ、次の中間は本気でやりなよ」

「えっ、雷蔵どうしたの、いきなり」

 三郎は目をぱちぱちさせた。ぼくも、自分がどうして突然そんなことを言おうと思ったのかよく分からない。だけど、三郎だって周りからもっと評価されて良い筈なのに、本人は全くやる気が無いなんて勿体無い。前々から考えていたことだった。久々知と出会って、その思いが急に大きくなって口から飛び出してしまったのかもしれない。

 少し間を空けてから、三郎は恥ずかしそうに言った。

「……本気でやって、もし良い点数が取れたら、雷蔵は褒めてくれる?」

「褒めるの? ぼくが?」

「そう、きみが」

「三郎すごいね、えらいね、って?」

「そう! そんな感じ!」

 物凄くて適当に言ったのに、三郎は全力で食いついてきた。ぼくは、四分の一ほど残っていた豆乳いちごを一気に飲み干す。三郎の思考や発言は、相変わらず予測が出来ない。

「はあ、うん、良いけども……」

「……っ、じゃあ、頑張るよ!」

 三郎は拳を握りしめて声を大きくした。いつになく、やる気に満ちた顔だった。ぼくは、一応こう言ってみた。

「……ぼくだけじゃなく、頑張ったらきっとみんな褒めてくれるよ」

 言ってから、小さな子どもを相手にしているみたいな口調になってしまったことを、心底後悔した。しまった、失敗した。彼を馬鹿にする気持ちはひとかけらも無かったのだけれど、三郎があんまりにも無垢なことを言うから、つい。

 しかし三郎はそんなことは全く気にしていないようだった。それどころか、彼は笑って思いもよらないことを口にした。

「雷蔵に褒めてもらうのが、一番嬉しいもの」

 その言葉と三郎の笑顔は、ぼくの胸のど真ん中に深々と食い込んだ。耳の後ろを、強い風がごうっと吹き抜けた気がした。あれっ何だろう。妙に嬉しいような照れくさいような、不思議な感じがする。あれっ、どうしたんだろう。指先が熱くなってきた。

 ぼくは自分の手を見下ろした。手が赤い。ぼくの手のひらはこんな色をしていたっけ?

 あれっ。

 あれっ?