■ライ・クア・バード  17■


 九月になり、新学期が始まった。雷蔵や八左ヱ門は物凄く憂鬱そうだったけれど、おれは雷蔵に会えれば何でも良いので、どうも思わなかった。

  おれと雷蔵の関係は、良くも悪くも変わらなかった。あんなことがあっても、おれたちは変わらず友人同士だった。気が触れているとしか思えない告白をしたにも関わらず、雷蔵はそれまでとまったく同じ態度で接していてくれる。おれは、彼に対する想いを更に大きくさせた。やっぱり雷蔵は、おれの好きになった人は凄い。おれの目に狂いは無かったのだと、誇らしい気持ちになった。

 で、悪い意味で関係が変わらないというのはすなわち、おれの恋が何も進展していない、ということである。これはひとえに、おれが不甲斐ないせいだろう。雷蔵の友人という立場に甘んじる気は、全くなかった。生まれて初めて欲しいものが出来たのだ。何が何でも手に入れたい。だから二学期は、二学期こそは、どうにか彼との距離を縮めてゆきたい。

  ……八左ヱ門は、おれの目には落ち着いているように見えた。相変わらずそそっかしくて五月蠅いが、何か屈託を抱えている様子はなく、毎日「腹減った」とか「授業だるい」とか、そんなようなことを喚いている。彼の悩み、もしくは心配事が解消されたのか、そうでないのかはよく分からないが、一日でも早く雷蔵が安心出来ればいいと思う。










 ある日の昼休みのことだ。おれは飲み物を買いに、購買部へと足を運んでいた。休み時間開始直後ではないので亡者のようにパンやおにぎりに群がる連中もおらず、空いていた。さっさと買い物を済ませて雷蔵の元に戻ろうと思っていたら、そこで信じられない出来事に遭遇したのである。

 アイスのケースの前で男子生徒がひとり、何やら焦った様子で財布をごそごそやっていた。 どうやら金が足りないらしい。おれは彼の横を通り過ぎた。そうしたら、そいつが物凄い素早さでこちらに顔を向けた。その勢いに、思わず足が止まる。

 その男は、目をまるくしておれを見ていた。……いや、目をまるくして……というよりは、もともと目がまん丸なようだった。目だけでなく、眉も鼻も口も全部丸い。なんというか、狸みたいだ。

「なあ……金貸してくれない……?」

 狸似の男は情けない声をあげた。おれは「は?」と眉をしかめる。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかった。同学年だろうか。上級生には見えない。何にせよ、相手は見ず知らずの男である。おれは短く答えた。

「嫌だ」

「そんな冷たいこと言うなよ……! おれは今、アイスを食わないと死んでしまうんだよ」

 彼は食い下がってくる。 おれはアイスケースの上に視線をやった。そこには、ガリガリ君のソーダ味が乗っかっている。税込価格は63円。100円でおつりが来る。

「……ガリガリ君すら買えないってどんだけだよ」

「すぐ返すから!」

 そいつは、顔の前で手を合わせた。そんなことされてもおれの心はまったく動かないし、すぐ返すという言葉が本当だとも思えなかった。

「何で縁もゆかりもないお前に、金を貸さないといけないんだ」

 おれは敢えて、はきはきとした口調で言ってやった。そうしたら、彼は何故かぽかんとした顔になった。その発言は予想外だった、みたいな表情だ。おれはますます訳が分からない。何故、そんな顔をされないといけないのだ。

「…………」

 狸似の男は黙って、ガリガリ君をケースの中に戻した。ようやく諦めたらしい。 金が足りないなら、買わない。当たり前のことだ。他人をあてにするのが間違っている。……これが雷蔵だったら喜んで貸す、というかむしろ奢るけれど。

  おれは狸似の男の側を通り過ぎようとした。そうしたら彼は何を思ったのか背後からおれの両肩を掴み、こちらの膝裏に自らの膝をぶつけてきた。いわゆるひとつの、膝カックン。

「うわっ!」

  おれはそれをもろに食らい、がくんと体勢を崩してしまった。油断した。そしてすぐ様、怒りが湧いてくる。何をしやがる、この野郎。おれは後ろを振り返った。相手も怒っているようだった。意味が分からない。お前が怒る権利など、何処にも無いだろうに。

「鉢屋のうんこ!!」

  驚く程幼稚な捨て台詞を吐いて、無礼者は購買部から出て行った。

「なん……っだ、あの野郎……!」

 あまりの腹立たしさに、拳を握り締める。追い掛けてぶん殴ってやろうかと思ったが、脳裏に雷蔵の顔が浮かんだのでやめた。善良な雷蔵。やさしい雷蔵。暴力沙汰なんて起こしたら、彼に怒られそうだ。

 だから我慢。我慢だ。しかし腹が立つ。おれはさっさとパックの烏龍茶を買って、ダッシュで教室まで戻った。

「雷蔵、雷蔵!」

 すぐさま、雷蔵の席まで駆けてゆく。雷蔵は読んでいた文庫本から顔を上げて、目を瞬かせた。

「どうしたの三郎、何かあった?」

「あったどころじゃないよ。雷蔵さ、うちの学校に、なんか狸みたいな顔した奴いるの知らない?」

「狸?」

 雷蔵は首を傾げる。胸がぎゅっとなった。可愛い。心の底から抱きしめたい。

「購買でいきなり金貸してとか言われて、拒んだら膝カックンされたんだよ!」

「何だ、それ」

「まったく、たちが悪い! 雷蔵も気をつけるんだよ!」

「話だけ聞いたら、面白そうだけどなあ」

 雷蔵は気楽に笑っている。おれはぶんぶんと首を横に振った。

「面白くないって! しかもあの野郎、去り際に物凄く低俗な暴言を……ん?」

 途中でおかしなことに気が付き、おれは言葉を切った。雷蔵が、不思議そうにこちらを見る。そして頭の中で、あの狸に言われたことを反芻する。やっぱりおかしい。

「どうかした?」

「いや……あいつ、何でおれの名前を知ってたんだろう」

 あいつは確かに、おれのことを「鉢屋」と言った。おれは面倒だからいつも名札をつけない。そして間違いなく、あの男とは初対面だ。なのに何故、おれの名前を呼ぶことが出来たのだろう。

 おれの疑問に、雷蔵はあっさりとこう答えた。

「三郎が有名だからじゃない?」

「有名?」

「一年二組の鉢屋は相当変わってるって、上級生の間でも噂になってるらしいよ」

「あ、そうなんだ」

「興味なさそうだなあ」

 おれの気の抜けた返事を聞いて、雷蔵は声をあげて笑った。彼の言うとおり、周囲の評価はどうでも良かった。大事なのは、雷蔵にどう思われるかだ。それだけがおれの動力源だ。

「とにかく、狸に会ったら気をつけて」

「うんうん、分かった分かった。化かされないように注意する」

 雷蔵はにこにこ笑っている。やっぱり可愛い。彼のことが好きだ、と再確認する。

 雷蔵に惚れ直しつつも、やっぱりおれは先程のことが胸に引っかかっていた。あの狸似の男は、まるで旧知の間柄みたいな気安さで接してきた。もしかしたら本当に、何処かで会ったことがあるのだろうか。

「…………」

 おれは少し真面目に記憶を探ってみたが、思い当たらなかった。狸似の男と知り合った覚えはない。狸を助けたこともないので、人に化けて恩返し……ということもなさそうだ。そもそも恩返しならば、金をせびってこようとしないだろうけれど。

 考えても無駄だ。このことは忘れよう。そう思うが、しばらくの間はあの丸い目が頭をちらついて離れなかった。