■ライ・クア・バード 16■


 昨日ぼくにしがみついて離れなかった男が、今、目の前で正座をしている。さっきまでは土下座だった。そして彼は絞り出す。

  自分の顔が分からない、と。

  泣きそうな顔だった。その表情は知っている。昨夜ぼくに、おれの顔が分かるかと尋ねてきたときと同じだ。

 反射的に、そのときことを思い出した。あれはきつかった。何がって、三郎の体重が。ぼくと大して体格の変わらない三郎が、ぐったりと脱力した状態で腰元にくっついているのだ。どう考えても重い。そんな彼を引きずって和室まで来るのが、また大変だった。

  それと真夏にびったりと密着されるのは非常に暑かった。しかも相手は男である。むさ苦しいことこの上ない。だけど不快ではなかった。何故か。普通なら叩き起こしてでも引き離すのだろうけど、そういう気は起こらず、まあいいやと思って和室にて三郎と身を寄せ合って眠った。何故か平気だった。……何故か。

  いやそれよりも三郎の言葉だ。自分の顔が分からない。

「鏡を見ても、全然、自分の顔が分からなかったし、写真だって……。こ……こんなこと、いきなり言って雷蔵は引くかもしれないけど……」

  三郎は不安そうに言うけれど、ぼくは引くとか引かないとかでなく、まったく別なことを考えていた。……もっと言うと、とあるミステリ小説を思い出していたのだ。強烈な既視感だった。しかし流石に、それを口にしたりはしない。ぼくだって、少しくらいは空気を読めるのだ。

  ぼくは昨日の「あれ」を見ているので、とりあえず冗談だとは思わなかった。三郎は自分の顔が分からないから、ぼくに「おれ顔が分かる?」とか「おれの目は何処にある?」とか、そんなことを訊いてきたのだ。昨夜の彼の奇行の理由が分かったので、むしろ少しほっとしたくらいだった。成る程、「あれ」の背景にはそんな事情があったのか。

 しかし、不思議だ。自分の顔が分からない、だなんて。ぼくには、こんなにもはっきりと三郎の顔が見えているのに。顔の形や目の大きさは勿論、睫毛の長さやまぶたのくぼみ、唇の厚さや歯並びまでしっかりくっきりとこの目に映っている。

「らっ、らいぞ、うっ?」

 三郎が変な声でぼくを呼ぶ。そこで初めて気が付いた。ぼくは無意識の内に、彼の顔を両手で思い切り掴んでいたのだった。三郎が目を白黒させている。いつも飄々としていて本心の掴めない奴だと思っていたけれど、昨日からこっち、意外な程にくるくると表情が変わる。ぼくはとても新鮮な気持ちになった。……いや、そんな場合ではない。

「あ……ご、ごめん」

  ぼくは、さっと手を離した。同時に、自分の行動に驚いてもいた。三郎の顔に触れていた。知らない間にである。まったくの無自覚だった。ぼくは何をやっているのだろう。

「びっくりした……」

  三郎は両手で頬を揉んだ。ぼくは恥ずかしくなってそちらから目を離した。なんだか鼓動が早くなってきた。あれ、何だこれ。

「ええと、顔が分からないっていうのは、こう……鏡にうつらないとか?」

 恥ずかしさと気まずさを誤魔化す為に、ぼくは声を大きくした。三郎の目が意外そうに瞬く。

「いや、うつってはいるし、見えてもいるんだけど、どんな顔をしてるか分からないっていうか、ええと……なんて言えば良いかな……」

 三郎は答えを用意していなかったようで、しどろもどろになっていた。今まで秘密にしていたことを告白するのに必死で、それ以降のことは何も考えていなかった……という感じだ。こう言っては失礼かもしれないけれど、そんな彼の様子がとても微笑ましかった。三郎でも、そんな風になることがあるのか。三郎は何処までも真面目だと理解しているのだけれど、ほんのりと心が和む。

 気の緩んだぼくの口から、先ほど飲み込んだ言葉がこぼれ落ちてしまった。

「赤いメロン?」

 言った瞬間、あっしまった、と思った。だけどもう遅い。外に飛び出した声は消せないのだ。

 ぼくが以前読んだミステリ小説……島田荘司「異邦の騎士」の主人公は記憶喪失で、鏡を見たら自分の顔が赤いメロンに見えた……というくだりがあり、先ほど三郎に「鏡を見ても自分の顔が分からない」と言われたとき、咄嗟にそのことを思い出した。だけど、そんなことを言って良い状況ではないから、黙っていたのに!

 やってしまった。ぼくは焦る。三郎は真剣に話をしているのに、あまりに不誠実だ。ああ、どうしよう。

「え?」

 三郎は首を傾げた。もしかしたら、よく聞こえなかったのかもしれない。ぼくはそれを期待して、「いっ……いや、ごめん! 何でもない!」と早口で言った。耳に入らなかったのならそれで良い。むしろ、そうであって欲しい。

「あ……異邦の騎士?」

 しかし無情にも、三郎はそう言った、聞こえていたらしい。しかも、元ネタまでしっかりと理解したようだ。そういえば、つい最近ぼくは彼に「異邦の騎士」を貸したのだった。最悪だ。

「……ほんとごめん、今のは忘れてくれ。茶化すつもりはなかったんだ……」

  ぼくはうつむいて手を振った。顔が熱い。ぼくも正座をしないといけないんではないだろうか、という気になって姿勢を正す。

「雷蔵らしい」

 三郎は軽く笑い声をあげた。気を悪くした様子では無かったので安堵した……が、あまりにも考え無しな自分の発言が今でも恥ずかしい。どうして、あんなことを言ったのだろう。

「ごめん、てば……」

 ぼくは小さな声で呟いた。そして、咳払いをひとつ。勢いよく顔を上げる。幸いなことに、三郎は怒っていない。反省会は後にして、今は切り替えよう。

「……ていうか、ずっと分かんないの?」

 ぼくが尋ねると、三郎も笑みを引っ込めて真顔で頷いた。

「うん、物心ついたときから、ずっと……。でも」

 彼は途中で言葉を切り、やおらにぼくの腕を掴んだ。あまりに突然だったので、ぼくは肩をびくりと持ち上げた。

「雷蔵に会ってから、見えるようになったんだ。鏡にうつった自分の顔が、ちゃんと認識出来るようになったんだよ」

「え、ぼく?」

 何で、と尋ねる前に三郎は言葉を続ける。

「そう、きみと。それまで鏡なんて大嫌いだったけど、初めて鏡を見るのが嬉しかったよ。……今はまた、分からなくなってしまったんだけど」

「……一度見えたなら、覚えてたりしない?」

 遠慮がちに尋ねてみたら、三郎は黙り込んだ。覚えていたりは、しないらしい。ぼくは「そっかあ……」と息を吐く。

「最初に会ったとき、おれ、髪の毛青かったの、覚えてる?」

 三郎がそう言った瞬間、ぼくの脳裏に春の景色に全く溶け込まない、人工的な青色が浮かんだ。入学当時の三郎を、忘れるはずがない。

「あ、うんうん、すごかったから覚えてる。八左ヱ門とふたりで、口開けて見ちゃってたもん」

「あのときも、全然自分の顔なんて分かってなかったんだけど……雷蔵と同じ髪型にしたら見えるようになって」

「そうなの?」

「うん」

「何で?」

 やっとこれを言えた。本当に、何で、だ。何の変哲もない……近所の床屋で三十分もかからずに仕上がるこの髪型に、何があるというのだろう。

「……さ、さあ……」

 三郎の返事は不明瞭だった。ぼくは視線を上に向けてもう少し考えてみたけれど、納得のゆく答えが降りてくる気配は無かった。その代わりに、ひとつ気付いたことがあった。

「あ、だからお前、ぼくの真似をしたがるんだ」

 指をさして指摘すると、三郎は黙って頷いた。ぼくは、「ああー成る程」と腕を組む。

「そっかあ。そうだったんだ。わあ、何か今日は、色々すっきりしたなあ」

 昨日の「あれ」の正体も分かったし、青かった三郎が急にぼくと同じ髪型にした理由も分かった。三郎の謎が五割くらいは解けたような気がして、ぼくはとても清々しい心持ちになっていた。

「…………」

 そんなぼくを神妙な顔で見つめる三郎に気付き、ぼくはどきりとして背筋をまっすぐにした。

「え、あ、ごめん。何か変なこと言ったかな」

「いや……もっと引くかと思ったから」

 低い声で、三郎はそんなことを言う。ぼくは笑って首を横に振った。

「え? いやいや、そんな」

 引くなら昨日の「あれ」の時点で引いてるよー、と言いかけて口をつぐむ。危ない危ない。三郎は何も覚えていないのだ。あの行動の原因も分かったことだし、「あれ」のことは黙っておこう。その方が良さそうだ。

「引いてない、引いてない」

 ぼくはそれだけを言った。事実だった。確かに少々……というかだいぶ常軌を逸した告白ではあったけれど、ぼくは彼の言葉を疑っていないし、軽蔑したり気持ちが悪いと思ったりもしなかった。

 だってあんな風に、ぼくから離れたら死んでしまう……みたいな必死さでしがみつかれたら、じゃあ一緒にいよう仕方が無いなあ……って思ってしまうじゃないか。

 三郎はぼくの言葉を聞いて、眉間にしわを寄せて泣きそうな顔で笑った。いつもよりもおさなく見える表情だった。

  ぼくは何故かそうしなければならない気になったので、手を伸ばして彼の頭を撫でた。そうしたら、三郎は少しびっくりしたみたいに目を丸くしたが、すぐに穏やかな面持ちになってぼくのされるがままになった。
 
 そんな彼を見たらなんとなく、胃の少し上あたり、心臓の下らへんがぐぐっと持ち上がった気がしたけれど、それが何なのかはよく分からなかった。