■ライ・クア・バード 15■


 暑い暑い暑いとわめき立てていたら、きみは笑顔で「それじゃあぼくが扇いであげよう」と、手にしていた団扇をわたしに向けた。日に焼けたきみの腕が緩やかに動き、わたしに風を送ってくれる。わたしは目を細め涼しさを堪能する。しかし、風はすぐに止まってしまった。

「もうおしまい?」

 問うと、

「おしまい。ぼくだって暑いもの」

 なんてつれない返事だ。わたしは「ひどいなあ!」と大げさな声を上げて、きみの腰に抱きつく。そうしたら君は暑そうに身を捩るけれど、顔はけっして嫌がっていないのだ。

 嗚呼、暑い。きみのからだも熱い。しかし不快ではなく、その熱が心地良い。きみだからだ。きみだけが、特別なのだ。

「ねえ雷蔵、明日は川に泳ぎにゆこうよ」

 わたしはきみの脇腹辺りに顔を埋め、提案する。頭上から、きみの笑い声が降ってきた。

「三郎が、ふたり分の外出届を取ってきてくれるなら、良いよ」

 そう言って、きみはわたしの頭を撫でた。わたしはとても幸せになって目を閉じた。瞼がとろけてきみの手の感触が遠くなる。その内にきみの気配も消えて、わたしはひとり、やわらかな波に漂う。

 ……ああそうだ、これは夢だ。おれはゆっくりとそう理解する。雷蔵の夢が見られるなんて、ついている。しかも物凄く良い雰囲気で、不思議とリアルな夢だ。まるで、実在のワンシーンを切り抜いたみたいな。 目覚めても、この夢のことは決して忘れまい。

 そんなことを考えながら、ふわふわと浮上してゆく意識に身を任せた。





 ……しかしおれはその決意に反して、目覚めた瞬間、夢のことなど全て忘れることとなる。






 何がどうなったのか、おれは雷蔵を背後から抱きすくめる格好で、何処ともしれない畳の上に横たわっていた。

 目が覚めて、状況を理解すると同時に首筋からぶわりと冷や汗があふれ出した。

 ……何で?

 さっぱりわけが分からなかった。そもそも、昨日のことがよく思い出せない。確か……雷蔵の為にとブラウニーを作ったのだ。それを持って雷蔵の家に行き、そして目が覚めたら雷蔵を抱きしめていた。

 いや。いやいや。おかしい。色々なことをすっ飛ばしている。

 雷蔵を抱きしめている。そう、おれは今、雷蔵を抱きしめているのだった。改めて意識した瞬間、全身がごうっと熱くなった。

 薄くて堅い雷蔵の背中が、おれの胸にぴったりとくっついている。背骨の感触がはっきりと伝わってくる。このシチュエーションは一体何だ。

 おれは雷蔵に触れる手に力を込めることも、彼から離れることも出来ずに固まった。雷蔵が近い。 というか密着している。彼の体温がはっきりと感じられる。目の前には雷蔵の首筋がある。

 心臓が変な風にうねりだした。やばい。駄目だ。どうしよう。

「…………」

 最初に確認した通り、床は畳。和室だ。はっきりとした時刻は分からないが、辺りが明るいので日中のようだ。蝉がうるさい。抹香の香りが、ほのかに漂ってくる。

 多分ここは、不破家の和室だ。中に入ったことは無かったが、前を通ったことだけはある。

 で、どうしておれは雷蔵の家の和室にいるのだ。しかも、こんな体勢で。再び思考がそこに行き着き、また冷たい汗が流れてきた。

 考えたくはないが、もしかしたらおれは、とんでもないことをやらかしてしまったのではないだろうか。雷蔵が好きだ、自分だけのものにしたい、と思い詰めるが余り、取り返しのつかないことを……。

 ……もしそうだとしたら、死んで詫びるしか無いのでは……。

「う、ぅ……」

 腕の中で、雷蔵が身じろぎをする。おれは反射的に、彼から手を離した。それから慌てて身体を起こすと、震えながら正座をした。

「……ああ、三郎、起きた……?」

 雷蔵が、目をこすりながらこちらを向いた。寝起きの、少しぼんやりとしたその表情に胸がときめく。かわいい。……いや、駄目だ。惚れ直している場合ではない。

「も……申し訳ございませんでした……っ」

  おれは畳に手を付き、深々と頭を下げた。

「えっ、おいおい」

 戸惑った雷蔵の声と、彼が起き上がる気配がする。おれは頭を垂れたまま、かぼそく続ける。

「あの……おれ……おれ、昨日のこと、全然覚えてないんだけど……」

「覚えてないの?」

「す……すいません」

「いや、そんな謝らなくても……。というか、いい加減顔を上げなよ」

 雷蔵は笑って、おれの肩をぽんぽんと叩く。雷蔵が、おれに触れた。それだけで、胸が締め付けられるようだった。

「な……何か、無体を働いたのではないかと……」

「無体って」

 雷蔵は笑っている。怒っているのではない。笑っているのだ。おれはそれを受け、恐る恐る顔を持ち上げた。

「おれ、何かしたんじゃないの……?」

 違うのだろうか。おれの最悪な想像は、間違いだったのだろうか。嫌がる雷蔵を無理矢理押さえつけて……とか、そういうことはなかったのだろうか。だとしたらどれだけ嬉しいだろう。

 おれはどきどきしながら、彼の言葉を待った。そうしたら雷蔵は、おれの愛するひとは、こんなことを言った。

「いやあ、まあ、大変だったよ。三郎、しがみついて離れないんだもん」

「え?」

「何かこう、おかあさんに抱っこをねだる子どもみたいな感じで」

「えっ?」

「しかもそのまま寝ちゃうし」

「は……は?」

「そのまま玄関で寝るわけにもいかないから、ここまで引きずって来て、夏だしまあいっかーと思って、布団も出さずにそのまま寝ちゃった」

「しがみついたって、おれが?」

 思わず、自分の顔を指さす。雷蔵も、おれの顔を指した。そして笑顔。おれの一番好きな笑顔だ。

「そうそう、お前が」

「…………」

 おれはまた、黙って頭を下げていた。

 子どもみたいに、雷蔵にしがみついた? しかも、そのまま寝てしまった?

 意味が分からない。何だそれは。どれだけ好意的に考えてもただの奇行ではないか。おれは脳内で、自分自身を殴りつけた。百発くらい。それでも足りない。鉢屋三郎なんてくたばってしまえば良いんだ。

「だから三郎、土下座は良いって」

「いや、だって……い、意味が分からんし……」

「確かに、よく分かんなかったけど。でもちょっと、面白かったよ」

 むしろ何故、雷蔵はこうも笑っていられるのだろう。野郎にしがみつかれる(しかも夜通し)なんて、迷惑以外の何物でも無いだろうに。それでも怒らない。それは、それは、期待をしても良いのだろうか。

  ……知らない内に醜態をさらし、死にたいくらい恥ずかしいというのに、この期に及んでそんなことを考える自分の目出度さに呆れる。しかしどうやら、嫌われてはいないようだ。それだけでも、泣きたいくらいほっとした。

「というかさ、三郎……」

 雷蔵の声から笑いが引っ込み、おれは再度顔を上げた。安堵が一転して不安に変わる。何だろう。何を言われるのだろう。

「お前、何か……」

 雷蔵はそこで一旦言葉を切った。それから少しの沈黙を挟み、結局、口を閉じてしまう。

 何故だか分からないが、このときおれは、彼の言おうとしたことを全て理解した。

(三郎、お前、何か悩みでもあるのか)

(……だけどそれはきっと、ぼくには言えないよね)

  水でも飲むみたいに、するすると体内に雷蔵の考えが体内に入ってきた。彼の気遣いも、悲しみも、全部。

 それを受け取った瞬間、おれはたまらない気持ちになった。

 おれは昨日のことをまるで覚えていないけれど、彼はおれを心配してくれているのだ。おれの悩み。おれの身の内に巣食う黒々とした不安。

 言わなければ、と思った。彼は幼い頃からの友人から悩みを打ち明けてもらえなくて、心を痛めているのである。ここでおれまで黙っていたら、雷蔵は更に深く傷つくだろう。おれは雷蔵が好きだ。彼の悲しむ顔は見たくない。言わなければ。言わなければ。

 ……しかしおれは、自分の思いに僅かな違和感を覚えていた。

 言わなければ。彼のために。

 雷蔵のために?

 ……少し考えて、分かった。唐突に気付いてしまった。それは違う。雷蔵のために言わなければならないのではない。おれが、おれ自身が雷蔵に聞いて欲しいのである。

 言っても無駄だと、困らせるだけだから言う必要など無いと思っていた。それは雷蔵に対してもそうだと思い込んでいた。

 しかし、そうではないのだ。そんなわけはない。誰に言えなくとも、雷蔵には、おれに自分の顔を教えてくれた雷蔵にだけは、ずっと聞いて欲しかった。理解して欲しかった。受け止めて欲しかったのである。だからこそ、今こそ胸の内を打ち明けよう、という気持ちが衝動的に高まったのだ。

「雷蔵……っ」

 気付けばおれは彼の名を呼んでいた。理解したら、止まらなくなった。これを言ったら雷蔵がどう思うだろう、なんて考えない。ただ聞いて欲しい。余すことなく、全部。

 雷蔵と目が合う。彼は「何だい」と言って軽く首を傾げた。そんな仕草が、声が、全てが好きだ。

「雷蔵、おれ……っ、自分の顔が、分からないんだ」