■ライ・クア・バード 14■


 三郎が「大丈夫」と言ってくれたおかげで、だいぶ気が楽になった。完全にわだかまりが消えたわけではないけれど、三郎が言っていたとおり、八左ヱ門だって本当に困ったときは話してくれるはずだ。そう信じて、今はあまりそのことを考えないようにしよう。

 ぼくはそう結論づけて、母が作ってくれたカレーをあたためて食べた。辛い。美味しい。そういえば、三郎のカレーは食べたことがない。いつか作ってくれるだろうか。彼なら、スパイスを揃えて本格的なカレーを作ってくれそうだ。

「……そうだ。ブラウニー」

 ふと思い出した。今日、三郎が作ってきてくれたブラウニー。しかしぼくは、あまりその味を覚えていない。八左ヱ門のことでぐるぐる悩みすぎて、ぼんやりした状態で何気なく食べてしまったのだ。

 ぼくはとても苦い気持ちになった。三郎のことだ、物凄く手間暇かけて作ってくれたに違いない。それなのにろくにお礼や感想も言わず、自分のことばかり喋ってしまった。三郎はそんなぼくにも嫌な顔一つせず、むしろ笑って励ましてくれた。

  ぼくの心の中で、反省と後悔が大きく膨らんでゆく。ああ、ぼくはなんて駄目な奴なのだろう。いくら三郎が良い奴だからって、その優しさに甘えてばかりではいけない。

「…………」
 
 スプーンを皿の縁に置いて、テーブルの端に視線を移す。両親のために、と取っておいた(ぼくの父と母も、三郎の料理のファンなのだ)ブラウニーの残りがそこにある。ぼくは手を伸ばし、ラップでくるまれたそれを一つ、手に取った。

 ラップをはがし、大きな口を開けて勢いよくかじる。昼間は全く分からなかったけれど、気持ちに余裕のある今なら分かる。しっとりでザクザクで、甘いのとナッツの香ばしさ。

「……美味しい」

 美味しい。今日も三郎のお菓子は美味しかった。そうか、ブラウニーってこんなのなんだ、と思った。どれも、あと数時間早く抱いておくべきだった感想である。

  ぼくはブラウニーを食べ、それからカレーも食べ、リビングに置きっぱなしになっていた携帯電話を手に取った。三郎に電話をしよう。今日のお礼を、改めて彼に伝えよう。そう思ったのである。

 三郎の携帯に電話をかける。……しかし、彼は出なかった。留守番電話センターに接続される。録音すべきか少し迷ったけれど、一旦電話を切った。取り込み中なのかもしれない。直接伝えたかったけれど、仕方が無い。メールだけでも送っておこう。

『今日は話聞いてくれてありがとう。だいぶ楽になったよ。それとブラウニーすごくおいしかった。ほんとにありがとう!』

 そんな文面で送信した。そのまましばらく待っていたけれど、返事は返って来ない。いつもなら、どんなときでも五分以内に返って来るので、ぼくは少し不思議になった。あれ、どうしたんだろう。

「……風呂にでも入ってるのかな」

 ぼくはぱたんと携帯を閉じた。いつも三郎の返信が異様に早いので、どうしたんだろう、なんて思ってしまったけれど、時計を見たらまだ三十分も経っていない。これくらいなら普通だ。今までも三郎の返信速度が、少しおかしかったのだ。

 携帯をリビングのソファに放り出して、ぼくも風呂に入ることにした。汗を流してリビングに戻り、タオルで頭をごしごしやりながら携帯を確認したけれど、やっぱり三郎からの返信は来ていなかった。

「あれー?」

 ぼくは首を傾げる。念のため、センターに問い合わせてみた。しかし、メール着信ゼロ件。

「……まあ、その内返ってくるよね」

 あまり深くは考えず、ぼくはふたたび携帯をソファに置き、冷蔵庫から麦茶のボトルを取り出してがぶがぶ飲んだ。夏場は、飲んでも飲んでも喉が渇く。

 存分に麦茶を飲んで潤ったら、なんだか眠くなってきた。時刻を確認したら、午後九時を回ったところだった。まだ寝るには早い時間だけれど、何度も欠伸が口を突く。ぼくはソファに寝転んだ。髪の毛が生乾きだということを思い出したけれど、まあ良いや。ぼくは目を閉じた。たちまち、眠気がやって来た。プール授業の後のような心地よい倦怠感に包まれつつ、ぼくは眠りに落ちた。









 ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。ぼくは飛び起きる。壁に掛かった時計に視線を向ける。午後十一時すぎ。二時間も眠ってしまった。そこにもう一度、ピンポーン。父さんと母さんが帰ってきたのだろう。ぼくはソファを降りた。

「鍵を開けて入ってきてくれたら良いのに……」

 なんてぼやき、目をこすりつつ玄関に向かう。まあ、だけど、起こしてくれて良かった。そうでなければ多分ぼくは、あのまま朝まで寝てしまっていたことだろう。

「おかえり……って、あれ」

 ぼくは扉を開けたところで、目を丸くした。そこにいたのは両親ではなく、夕方に別れたはずの鉢屋三郎だったのだ。

「どうしたんだ三郎、こんな時間に。あ、何か忘れ物?」

 声をかけたが、三郎はうつむいて突っ立っているだけだった。ぼくは口元に浮かべていた笑みを引っ込めた。三郎の様子がおかしい。

「三郎……どうしたんだよ」

 三郎は、やはり何も言わない。ぼくは片手で扉を支えた格好で、少し悩んだ。何があったかは分からないけれど、とりあえず、中に入ってもらった方が良いだろうか。

 そうしたら、視界の端で三郎が動いた。ぼくは顔をそちらに向ける。

  三郎は足を踏み出し、体当たりをするみたいにしてぼくに抱きついてきた。

「……っ、なっ、え……!?」

 突然のことに、一瞬、息が止まった。三郎の両手が背中に回され、ぎゅう、と痛いほど抱きしめられる。訳が分からず、ぼくは後ずさった。三郎は離れようとしない。それどころか、込められる力がどんどん強くなってゆく。

「ちょ……っ、さぶ、三郎……っ?」

 体重をかけられ、ぼくの体はじりじりと後ろに下がってゆく。ぼくたちは密着したまま玄関の中に入った。三郎の肩の向こうで、がちゃん、と戸が閉まるのが見えた。

 ぼくの頭の中は大混乱だった。何だこれは。三郎は一体、どうしてしまったんだ。

 冗談でやっているという雰囲気ではなかった。それが、ますますぼくを戸惑わせた。

「う、わ……っ!」

 そのうちにぼくはバランスを崩し、玄関マットに尻餅をついてしまった。ちょうど、上がりかまちに腰をかける格好になる。三郎はまだ、ぼくにしがみついたままだ。

「三郎、本当にどうし……」

 ぼくの言葉が終わらない内に、彼は両手でぼくの両肩をつかんだ。え、っと思っている間に、ぼくの体は勢いよく倒され、背を床に押しつけられる。そこに三郎がのしかかってきて、ぼくの喉からヒッと変な音が出た。

 えっこの体勢は流石にやばいんじゃ、というか、え、えっ? えぇっ?

 衝撃に手足がすくんで動かない。加えて、めいっぱい抵抗すべきなのか、話し合いを試みるべきなのか、このふたつの選択肢が頭をぐるぐる回っていて口も凍り付いた。

「……雷蔵……っ」

 頭上から、かすれた声が降ってきた。それは確かに三郎の声だったけれど、まったく聞いたことのない響きだった。心臓が変な風にうねる。息が苦しくなってきた。

「な、な、何……っ」

 ぼくはどうにか返事をして、おそるおそる三郎の顔を見上げた。余裕のない、ひどく思い詰めた表情の三郎に、背中が冷たくなった。つい数時間前、彼は笑っていなかったっけ。にこにこしながら、大丈夫、と言ってくれたはずだ。

「……っ!」

 三郎の手のひらがぼくの頬を撫で、ぼくは息を呑んだ。身体が震え出す。三郎は両手でぼくの顔をまさぐるように触れてきた。その奇異な行動に、ぼくは声をあげることも出来なかった。冷たい指が顎をなぞり、鼻筋をかすってゆく。

「……ぅ、……っ」

 頬やまぶたを、無遠慮になで回される。顔中を彼の指が這い、背筋がぞくぞくした。怖い。怖い。何で。なんで。

「……雷蔵」

 ひくい呟きとともに、三郎の親指がぼくの唇に触れた。友人の突然の変貌に、心臓が跳ね回る。あまりの恐ろしさに、泣いてしまいそうだった。

 そんなとき、三郎は思いもよらないことを口にした。

「……雷蔵は、おれの顔が分かる?」

「え……?」

 思わず聞き返した。彼の声はきちんと聞こえていたけれど、その意味が上手いこと頭の中に入ってこなかったのだ。

「きみは……おれの顔が分かる、かい」

 三郎の声音は、いつのまにか酷く不安げなものになっていた。よく見れば、ぼくの唇に触れる彼の指が小刻みに震えていた。しかし質問の意図が分からない。顔が分かる? 見えるか、ということだろうか。そりゃあ、これだけ至近距離で相対していれば、見えるに決まっている。

「わ、分かるけど……」

 半ば呆然としつつ、答える。こういう状況でなければ、一体お前は何を言っているんだ、 とかなんとか言って笑っていたと思う。しかし、今の三郎は明らかに普通でない。笑う気なんて、つゆほども起きなかった。

「じゃあ、じゃあ……おれの目ってどこにある?」

  三郎は泣きそうな顔でこちらを見下ろしている。ぼくは今もって全く意味が分からなかったけれど、おそるおそる手を伸ばして彼の目元に触れた。

「何処って……ここにあるじゃないか」

「それじゃあ……鼻は?」

「……鼻は、ここだよ」

「口は?」

「こ……ここ、だよ」

 ぼくは、指を三郎の薄い唇に持って行った。そこに触れる瞬間、何故か妙にどきどきした。

「…………」

 三郎は沈黙する。しぜん、ぼくも無言になる。……しかし、黙られても、困る。気まずい。それに、両親が帰って来たらどうしよう。流石にこれは、見られては困る構図だ。話が終わったのなら、ぼくの上から退いてはくれないだろうか。落ち着かないし、恥ずかしくて仕方が無い。

 そんなことを考えた直後、三郎の頭が揺らめいた。そして、こちらに向かってどんどん顔が近づいてくる。ぼくは「えっ」と声をひっくり返した。

「うわっわっ、わっ、ちょ、ちょっと待って待て待てそれはちょっと三郎!」

 どうにかして三郎の下から這い出そうともがく。そうしたら、ごんっ、と重い音がして顎に鈍痛が走った。三郎の額と、ぼくの顎が衝突したのだった。

「いっ、た……!」

 思わず涙声が出た。それくらい痛かったのだ。まさか顎に頭突きを食らうとは思っていなかった。しかし、ぼくが恐れていた事態は起こらなかった。それに安堵しつつ、視線を下に向ける。三郎はぼくの首筋辺りに顔を伏せて、じっとしていた。

「さ……三郎……?」

 こわごわ、名前を呼んでみる。だけど反応は無かった。ぼくはもう一度、「おーい、さぶろー……」と言いつつ、彼の背中を手で軽く叩いた。やっぱり、返事は返ってこない。

 ぼくは耳をすませた。微かに、寝息のようなものが聞こえる。

「え、三郎、寝た?」

 問いかけたって、勿論彼は何も言わない。しかし確かに、彼は眠っている。ぼくにのしかかって、鉢屋三郎は眠っていた。

「…………」

 突然すぎる展開についてゆけなくて、ぼくはぼんやり天井を見上げた。そして煌々とかがやく電灯の光が目に突き刺さった瞬間、ぶわっと顔が熱くなった。

 何だったんだろう。何だったんだろう。何だったんだろう!

 ……顔が、どうとか言っていた。それは一体何だ。これまで三郎と、お互いの顔の話なんて一度もしたことがない。それに、目は何処にあるとか鼻は何処にあるとか、どういう意味があったのだろう。

 というか、今も尚三郎と密着しているこの体勢を、どうしたら良いのだろう。

 いい加減恥ずかしすぎるし暑いので、ぼくはとりあえず彼の身体の下から抜け出した。やっと、ぼくを押さえつけていた体重から解放されて、ほっとする。

 ……ええと、これからどうしよう。脱力した彼を担いで二階まで上がるのはきついものがあるから、リビングか……あ、それよりも一階の和室の方が良いのかな……起こすのは、なんとなく申し訳ないしなあ。

 そんな風に考えを巡らせていたら、三郎が何事かを呻いた。そちらを見やると、彼の手が、何かを探すように中空をさまよっている。

「……何、三郎。どうしたの」

 三郎の顔をのぞき込んでそう言うと、彼は身体を横にしたまま、ぼくの腰にぎゅっとしがみついた。

「な……っ」

 顔が、より一層熱くなった。脇腹の辺りがそわそわして、叫び出したい衝動に駆られる。三郎は、まるで小さな子のようにぼくに縋り付いている。こんなのおかしい。異常だ。しかしぼくは何故だか、彼の手をふりほどく気になれないのだった。羞恥も困惑も限界値に達していたし、正直勘弁してくれと思っていたけれど、どうしても、彼を拒絶することが出来なかった。

「何だ、これ……」

 ぼくは力なく吐き出した。三郎はぼくの腰に額をこすりつけて、静かに眠っている。

 本当に、何だ、これは。