■ライ・クア・バード 13■


 甚だ遺憾である。

 何がって、雷蔵のことだ。今朝メールした通り、おれはブラウニーを作って雷蔵の家を訪れた。ブラウニーが何なのか分かっていなかった雷蔵の反応が可愛かったので、殊更楽しく調理した。チョコを溶かしていたときも材料を混ぜ合わせていたときもオーブンをあたためていたときも、ずっと雷蔵の喜ぶ顔を思い浮かべていた。

 正直、今回のは自信作である。 これならきっと、雷蔵は喜んでくれるはずだ。柔らかかつあたたかで、マイナスイオンを惜しげもなく周囲に振りまくあの笑顔と共に、ごちそうさまでした、と言ってくれるに違いない。

 ……そう期待して、ブラウニーを抱えて不破家に急いだのである。それなのに。

「…………」

 おれの目の前にいる雷蔵は、リビングのテーブルに肘をついてぼんやりしていた。皿のブラウニーは、ほとんど減っていない。

 おれは彼からそっと視線をはずし、奥歯を噛んだ。今日の雷蔵は、ずっとこんな調子である。何か考えごとでもしているようで、ため息ばかりをつきながら機械的におれの作った菓子を口へ運んでいく。

 そんなの、ちっとも嬉しくない。

 何か、あったのだろうか。なんとなく想像がつく。彼の今の、一番の悩みは八左ヱ門のことだ。あいつ絡みで、何かがあったに違いない。おれは、彼らの間に割り込むことが出来ない。だけど、せめて、せめて、おれと一緒にいるときくらいは、おれの作ったものを食べている間くらいは、おれのことを考えてくれたって良いじゃないか。

「雷蔵、美味しい?」

 悔しくなって、雷蔵の意識を無理矢理にでもこちらに向けるため声をかけた。雷蔵ははっとした表情で、目を瞬かせた。

「……っ、あっ、うん。すごく美味しいよ。有り難う、三郎」

 彼はそう言って、微笑んだ。しかしその笑顔は、おれの心を満たしてはくれなかった。

「……そう」

 おれは小さな声で言った。本当に、そう思っている? 味なんて分からないんじゃないのか? ……そんな考えが胸を侵してゆく。

「…………」

 雷蔵は、また黙ってしまう。そしておれはふたたび、彼の意識の外に追い出されてしまうのだ。

 ……帰ろうかな、と思った。雷蔵に恋をして、そんな気持ちになるのは初めてだ。いつもは、一分一秒でも長くそばにいたいと、そればかりを考えていた。だけどこんな風に、明らかに彼はおれのことを見ていないのに、ブラウニーだって味わっていないのに、ただ一緒にいるだけなんて虚しくて仕方が無い。

 おれは壁にかかった時計を確認した。此処に来て、まだ三十分も経っていない。だけど、もう、本当に帰ってしまおうか。そんな風に考えたときだった。

「……あのさ、三郎」

 雷蔵が、ぽつりと口を開いた。おれは、浮かせかけていた腰を戻し、「何だい、雷蔵」と返事をした。

「今日の午前中、本屋に行っててさ、それで、八左ヱ門と偶然会ったんだ」

「……そうなんだ」

「それで、最近何か悩みでもあるのか、って聞いてみたんだけど……何も無い、って言われてしまって……」

 雷蔵の声はどんどん小さくなり、最後の方はほとんどため息と同化してしまっていた。おれは真っ先に、ああやっぱり、八左ヱ門のことを考えていたんだ、と思った。同時に、少し気持ちが沈む。おれのことも、一ミリで良いから考えてくれたら良いのに。

 ……ああ、嫌だ。そんな小さなことを気にして歯噛みする己の狭量さにもまた、嫌気がさす。

「…………」

「明らかに、様子が変なんだ。何も無いことは無いよねえ?」

「……そうだねえ」

「でも、ぼくには言えないのだって」

「…………」

「……悩みがあるなら、話して欲しかったなあ……」

  雷蔵のせつなげな声が耳に吸い込まれてゆく。そして、気付いた。おれは無意識の内に、自分の顔に手を当てていたのだった。

 おれにだって、悩みはあるよ。

 不意にそれが口から飛び出しそうになって、慌てて飲み込んだ。危なかった。それを言って、どうするというんだ。自分の顔が分からなかった、今でもたまに分からない……なんてことを雷蔵に聞かせてどうする。ますます混乱させるだけだ。

 おれは、別に、誰かに聞いて欲しいわけでは無いのだ。誰に言ったって共感してくれるはずが無いし、解決しようもない。だからこのことは、自らの胸の内にのみ秘めておく。そう決めたはずだった。

 それなのに今、おれは言いそうになった。雷蔵に心配してもらっている八左ヱ門が羨ましくて、妬ましくて……そして、おれのことを蔑ろにする雷蔵のことが憎らしくて、衝動的に言ってしまいそうになったのである。無意識の内に、雷蔵の気を引こうとした。なんという矮小さだろう。おれは一気に、自分のことが恥ずかしくなった。

 恋というものを知って、まだ幾月も経っていない。それゆえ、生まれて初めて芽生えたこの嫉妬心を、どう処理して良いか分からなかった。ひたすら胸が重い。辛い。全身が泥につかったようになって、ここからどうやって這い上がれば良いのか皆目見当もつかない。

「あ……ごめん。最近、こんな話ばっかりだね」

 ぱっと、雷蔵の声の調子が変わった。明るい口調だった。しかし、彼が無理をしていることは容易に見て取れた。そんな彼を見るのは悲しい。

 おれは一体、どうしたいのだろう。

「……きっと」

 ぽつりと、小さな声が漏れた。それが自分のものだと気付くまでに、少し時間がかかった。考えるよりも先に、口が動いていたのだった。

「うん?」

 雷蔵はやわらかく微笑みながら、首を傾げる。

「きっといつか、話してくれるよ。今まで、そうだったんだろう。急に変わったりしないさ」

 するすると、そんな言葉が口から出てきた。自分でも驚くくらい、誠意が込められたふうに聞こえる声音だった。おれは何を言っているのだろう、と思った。何も考えていないのに、口だけが動く。これはおれの本心だろうか。本当にそうなのか。ただただ雷蔵を安心させて、彼の評価を上げたいために上っ面でしゃべっているようにしか見えない。

「そ……そうかなあ」

 雷蔵は下を向き、顎に手を当てた。

「八左ヱ門は、そんな複雑な人間じゃないもの」

 自分でも戸惑う程に、舌が滑らかに動いた。今のおれは、物凄く人の良さそうな顔で笑っているはずだ。訳が分からない。

 これが、おれのしたかったことなのだろうか。

 違う。おれの本心は別にある。八左ヱ門の話ばかりしないで。おれのことを見て。おれを見て。おれを、おれのことを。胸を埋めるのはそればかりだ。しかしそれを彼に告げることは出来ない。だからってこんな、良い友人を演じたりして、何になるのだろう。既におれの心には、空しさがじりじりと染み始めているというのに。

「……ぼくが何かしたかな、とも思った、のだけど」

 言いにくそうに、雷蔵は口をもぞもぞさせた。ああ、可愛い雷蔵。きみの仕草や言動のひとつひとつが、おれの心をつかんで離さない。きみが好きだ。きみに嫌われたくない。相談相手、というポジションでも何でも良いから、きみからの関心が欲しい。おれを見て。おれを見て。ああ。止まらない。

「それは、心当たりがあるのかい」

「いや……何も、無い」

「じゃあ、心配したって仕方無いよ。大丈夫だって。本当に大事なことならきっと話してくれるから」

「そう、かな」

「そうだよ。大丈夫、大丈夫」

 おれが何度も「大丈夫」を繰り返してわらうと、雷蔵も安心したように微笑んだ。

「……そうだね。うん、有り難う、三郎」

 白い歯がこぼれる。まぶしい笑顔。おれを幸せにしれくれる笑顔だ。

  しかし、いつもならば絶え間なくこみ上げてくる幸福が、今日は端から順に虚無感へと塗りつぶされてゆくのだった。










 荒々しく、自宅の扉を開けた。蹴飛ばすみたいにして靴を脱ぎ捨て、ブラウニーを入れていた箱と鍵と携帯を床に投げつけ、大股で洗面所に足を向けた。

 電気をつけ、すう、と息を吸い込んで鏡と向かい合う。

 そこにはおれが、鉢屋三郎の姿が映っていた。

  しかし鏡の中の鉢屋三郎がどんな顔をしているのか、おれには分からなかった。

  目も鼻も口も眉も輪郭も、全てがぼやけて明確な形が伺えない。すこしでも気を抜くと、そこに顔があることすら見えなくなってしまいそうだった。

 おれは鏡から目をそらした。これ以上、見ていられなかった。心臓がすさまじいスピードで脈打っている。心なしか、息も苦しくなってきた。

  ははは、と色のない笑いが喉からこぼれた。そして、おれは呟く。

「……ほうら、やっぱり」