■ライ・クア・バード 12■
空腹のあまり目が覚めた。カーテンを開けて外を見たら、今日も良い天気だった。蝉たちも絶好調である。
ぼくは欠伸をしながら、枕元に放り出していた携帯電話を手に取った。新着メール一件。確認したら三郎からのおはようメールだった。三郎はこういうところがやけに几帳面だ。面倒くさがりのぼくにはとても真似出来ない。ぼくはもう一度欠伸をして、『おはよう。今日は来る?』と返事を打って送信した。
胃が、ぐうと鳴る。ああ、腹が減った。ぼくは携帯を持って一階に降り、顔を洗った。時計を見たら、午前九時半ごろだった。両親は、とうに仕事へ出掛けている。
ダイニングに入り、トースターに食パンを二枚突っ込んだところでメール着信音が鳴った。きっと、三郎だ。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、携帯を確認する。やっぱり三郎からだった。
『おやつの時間ごろに行く』
その文面を見て、ぼくは思わず笑顔になった。これは、何かお菓子を作って来てくれるフラグだ。今日は何だろう。この間は、チーズケーキだった。焼いてあるやつでなく、冷やして固めるチーズケーキ。さっぱり爽やかで、ものすごく美味しかった。三郎はどんどん料理が上手になってゆくけれど、このまま料理人にでもなるのだろうか。その辺りを、今度訊いてみよう。
そんなことを考えていたら、パンが焼けた。ぼくは三郎に『了解。楽しみにしてる』と返信して、トーストを食べることにした。うちの母が最近はまっている、、オーガニックなんとかのマーマレードをこってり塗って、勢いよくかじりつく。美味い。だけど正直、ぼくにはスーパーで売っているマーマレードと何が違うのか分からない。三郎なら、分かるだろうか。これもまた、今度訊いてみよう。
ぼくは未開封だった牛乳パックを開けた。そこで、コップを出していないことに気が付いた。もう一度立つのが億劫だ。良いや、このまま飲んでしまおう。そう思ってパックに直接口をつけようとしたら、またメールが来た。今度も三郎だった。
『ブラウニーとミルクレープ、どっちが良い?』
「え……えええー……」
ぼくは携帯の液晶に向かって声をあげた。だって、ぼくに選ばせるなんて無茶振りにも程がある。そもそもぼくはお菓子には詳しくない。ミルクレープは辛うじて知っていたけれど、ブラウニーが何なのか全く分からなかった。なのでぼくはまず、『ブラウニーって何?』と三郎に送信した。そうしたら、一分もしない内に返事が来た。
『チョコ菓子で、ケーキとクッキーの中間みたいな』
理解出来たような、出来ないような。ぼくは朝食のことも忘れ、しばし悩んだ。三郎が作ってくれるものは何でも美味いので、どちらを選んでも確実に当たりだ。だからこそ、難しい。ああ、どうしよう。迷う。迷う。
……何となく、脳裏に三郎の顔が浮かんだ。彼は、ぼくが悩んでいる間、いつもにこにこしてこちらを見ているのだ。 この場に三郎がいたら、「そんな悩まなくても、今日選ばなかった方はまた今度作ってあげるよ」とか言いそうだ。言いそう……というか、絶対に言う。物凄くリアルに想像することが出来る。
「ええと……それじゃあ、食べたことない方で……」
ぼくは独り言を漏らしつつ、『じゃあ、ブラウニーで!』と送った。気がつけば、十五分くらい時間が経っていた。そのせいで、トーストはすっかり冷めてしまっている。ぼくは冷えたトーストをもそもそと食べた。
朝食を済ませ、使った皿を流し台に置いて時計を見やる。もうすぐ、午前十時になるところだった。三郎が来るまで、だいぶ時間がある。さて、それまで何をしよう。
「……本屋でも行こう」
ぼくにしては珍しく、すぐに決まった。ぼくは手早く着替えをして、財布と携帯、それに家の鍵だけを持って駅前の書店へ出掛けることにした。暇になったら本屋か図書館。基本である。
本屋をうろうろしていたら、漫画雑誌のコーナーで見覚えのある後ろ姿を見つけた。竹谷八左ヱ門である。
「…………」
ぼくは無言で彼に近づき、背後から軽く肩を叩いた。八左ヱ門の背中がびくりと反応し、彼は勢いよくこちらを振り返った。
「おはよー」
笑顔で声をかけると、彼は「っあー、びっくりしたあ!」と言って笑った。
「店員かと思って、ビクッてしちゃったじゃん。はっずかし……」
「ごめんごめん。何読んでるの?」
「これ? モーニング」
八左ヱ門は持っていた雑誌を掲げて見せた。 ぼくは首をかしげる。
「八左ヱ門、読んでたっけ?」
「ちょっと前、何となく立ち読みしたらジャイキリが面白くてさあ。でも途中からだから、微妙に分かんねえんだよな」
八左ヱ門は唇を尖らせた。どうやら彼は、監督が主人公のサッカー漫画にはまっているらしい。
ぼくはこっそり、彼の様子を伺った。いつも通りの八左ヱ門である。むしろ、調子が良さそうだ。妙なところは何処にも見当たらない。
ぼくは結局、八左ヱ門の前ではあの日のことを一度も話題に出していなかった。映画の日だけ来なくなった理由も、訊いていない。色々なことが気にはなっていたけれど、どうしても口に出すのは躊躇われたのだ。それに、こうやって八左ヱ門は元気にしているのだから、あまり心配しすぎるのも良くないかな……と、自分を納得させていた。
「……ジャイキリ、うちに一巻からあるけど読む?」
そう言ったら、八左ヱ門は「え、集めてんの?」と目を丸くした。ぼくは笑って頷く。
「とうさんがね。ぼくも読んでるけど、面白いよね」
「マジか。読みたい読みたい。親父さんグッジョブ」
「あははは」
「良いよなあ、親が漫画買ってくれると。うちの親父、美味しんぼとゴルゴしか読まないもん。まあ、兄貴の部屋にこっそり入って読むけど」
「はは、泥棒か忍者みたいだ」
ぼくが何気なく言うのと同時に、ばささ、という音がした。八左ヱ門が、モーニングを床に落としてしまったのだ。
「あーあ……、何やってんだよ、もう」
これ売り物なのに……と苦笑しつつ、ぼくは身をかがめてモーニングを拾い上げる。そしてそれを八左ヱ門に手渡そうとしたところで、固まってしまった。
八左ヱ門が、凄い顔をしてこちらを見ていたのだ。漫画っぽく言うと、「!!!!」みたいなそんな感じだった。目がめいっぱい見開かれていて怖い。ぼくは何か、おかしなことを言っただろうか。
「え……な、何、八左ヱ門どうしたんだよ。大丈夫?」
「い、いや、えっ、あの、えっ」
八左ヱ門は、おろおろと視線をさまよわせた。その反応は一体何だ。世間話をしていただけじゃないか。ぼくの頭はいっぺんに混乱した。
「え、何……何? 八左ヱ門、ほんとどうかした?」
「いや、あ、いや……うん」
「何だよ。全然分かんないよ」
「だっ……そ、んな、雷蔵こそ」
「ぼく? ぼくが何か……。あ、泥棒って表現良くなかった?」
「い、いやいやいや!」
八左ヱ門は、首をぶんぶんと横に振った。ぼくはひとつも飲み込めない。ますます戸惑いが募るばかりである。あまりに不可解なので更に問い詰めようとしたら、八左ヱ門は「や、ごめん! 聞き間違いだったわ!」と大きめの声で言って、ぼくの手からモーニングを取った。
「う……う、ん」
ぼくは呆然と、中途半端な相槌を打った。本当に、何だったのだ、今のは。
八左ヱ門はまた、モーニングを開いて読み始めた。その手が小刻みに震えているように見えるのは、ぼくの気のせいだろうか。
ぼくの心には様々なものが引っかかりまくっていたが、八左ヱ門が黙ってしまったので、仕方なく棚から適当にジャンプSQを抜き取り、ぱらぱらと読んだ。しかし、駄目だった。ユンボルも青の祓魔師も、まるで頭に入って来ない。
ちらりと、八左ヱ門の方を見た。彼はまだジャイキリことGIANT KILLINGのページを開いていた。先ほどから、一ページだって進んでいない。
「…………」
ぼくは気まずくなって、ジャンプSQに意識を戻した。ギャグマンガ日和が、地獄のミサワが、頭の中を素通りしてゆく。……駄目だ。そっとしておくべきかとも考えたけれど、やっぱりこれは、駄目だ。
「……あのさ、八左ヱ門」
ぼくは小声で呼びかける。八左ヱ門の肩がびくりと持ち上がった。
「お、おお?」
彼は油を差していない機械みたいなぎこちない動作で、ぼくの方に顔を向けた。笑ってはいるが、口元が引きつっている。ぼくは、彼ほど思考が顔に出やすい人間を知らない。しかしそこが、彼の良いところでもあるのだ。
「……こんな所で言うのもなんだけどさ」
「ん、うん」
「何か最近……心配ごととか悩みごととか、あったりする?」
ぼくは結局訊いた。訊いてしまった。だって、この奇妙な空気に耐えられなかったのだ。言ってから、うわあこんなこと言って良かったのかなどうしようどうしよう……なんて焦りが凄い勢いでこみ上げてきたけれど、もう後には引けない。ぼくは、ここ数年でうんと背が伸びた友人を見つめた。
「えっ、ええっ、なっ、えっ」
八左ヱ門は、分かりやすくテンパっていた。今でははっきりと、手が震えているのが見て取れる。その様子を目にして、あっ訊かない方が良かったかな、と一瞬だけ思った。撤回しようかとも考えた。だけどやっぱり、どうしても彼の態度が気にかかる。心配で仕方が無い。なのでぼくは、黙って八左ヱ門の返答を待った。
「……いや、何も、無いよ?」
彼は答えた。ぼくの視線から逃げるみたいに顔を下に向けて、早口で。
これが、思いの外、がつんと来た。
何だかんだ、尋ねれば答えてくれると思っていたのだ。いつもみたいに、「聞いてくれよ雷蔵……」なんて言って、打ち明けてくれるに違いないと勝手な予想を立てていた。
だって、ぼくたちの付き合いは長い。小学校に入学してから、ずっと一緒に遊んできたのだ。引っ込み思案で優柔不断なぼくを、八左ヱ門はいつもぐいぐい引っ張ってくれた。高校入試のときだってそうだ。進路を決められずにいつまでも悩んでいたぼくに、「一緒の高校行こうぜ」と声をかけてくれたのは彼だった。
ぼくは八左ヱ門のことを心から信頼しているし、彼もそうだと思っていた。今までなら、彼は何でも話してくれた。「お前にだから言うんだぞ。他の奴らには絶対内緒だからな……」と言って、秘密基地の場所も、好きな女の子の名前も、全部隠さずに教えてくれたのだ。
それなのに八左ヱ門は今、「何も無い」と言った。いや、本当に何も無いならそれで良いのだ。だけどこれまでの彼の様子や言動を見ていたら、何も無い、なんてことはあり得ない。
「……そ、そう、なんだ」
衝撃のあまり、ぼくはそれくらいしか言えなかった。本当は、何も無いことは無いだろ、ひとりで悩むなよ……とか、そんな風に続けたかった。しかし出来なかった。それほど、ショックだった。
ぼくにも言えないことって、一体何なのだろう。いや、そもそも、ぼくになら話してくれるはず……というのが思い上がりだったのだろうか。実は八左ヱ門は、それほどぼくのことを信頼していなかっ……いやいや。いやいやいや。それは無い。そういうことでは無いはずだ。それは流石に辛すぎる。ええと、それじゃあもしかして、ぼくが何かしたのだろうか?
ぼくの胸の中は様々な思いが渦を巻いてめちゃくちゃになっていた。
あれ、やばい。やばいぞ。
これは本当に、予想を遙かに上回る勢いで、きつい。
次 戻
|