■ライ・クア・バード 11■
別に、礼なんて何も要らなかったのだ。雷蔵と一緒にいられればそれだけで幸福だ。
……一緒にDVDを見たい、なんてただの口実だった。ひとりでホラーが見られない、というのも。言ってから、少しベタすぎたかなと思ったけれど、善良な雷蔵はあっさりと乗っかってくれた。やさしい雷蔵。おれは彼の、そういうところが好きだ。本当に、好きだ。
雷蔵と一緒に映画を見るのは楽しかった。たとえ映画の内容がハズレでも、テレビを見つめる雷蔵の横顔を窺う度に胸が高鳴った。食い入るように画面に集中する顔、涙を必死で堪える顔、声をあげて笑う顔、眠そうに目をこする顔。新しい表情を発見する毎に、彼に対する気持ちは大きくなり、おれは恋心を募らせていった。
映画を見るのは甘いひとときだったが、必ずしもふたりきりでという訳にはいかなかった。ことあるごとに八左ヱ門がついて来るのである。
……しかし、竹谷八左ヱ門もよく分からない男だった。彼の好きそうでない映画を借りるとき、奴はぎゃんぎゃんと文句を言う。「そんなんつまんねえって」「もっとテンション上がるのが良いって」「ジャッキーの借りようぜ、ジャッキー」「あっ、ワンピースでも良いや」等々。あまりにやかましいので、じゃあ来なければ良いだろう、と言うと、
「そんな寂しいこと言うなよ」
と泣きそうな顔をするのである。
それで、「折角見るんだから、今日は最後まで起きとく」と意気込むも、結局開始二十分と保たずに寝てしまうのだ。
雷蔵とふたりですごす甘やかな夏の思い出に、八左ヱ門の寝息やいびきもしっかりと刻み込まれてしまうのは甚だ不本意であるが、こいつはこいつで雷蔵とは違った意味で見ていて飽きないので、まあ良い。
で、あの日だ。七月の終わり、「友だちの家はどこ?」を借りた、あの日である。
「うわっ、あっ、あああっ!」
ふてぶてしくソファを占領して眠りこけていた八左ヱ門が、突然、断末魔じみた絶叫と共に飛び起きた。余りにもぐっすり眠っているので、ペンで額に「肉」とでも書いてやろうかと思っていたときだった。
彼は怯え半分、衝撃半分、みたいな顔をしていた。不破家の居間は冷房が効いていたが、八左ヱ門の額には汗が浮かんでいた。しかし、その身体は小さく震えている。一体どんな夢を見れば、そんな様相になるのだと思った。
だが、悪夢なんて誰だって見るものだ。天真爛漫で向こう見ずな竹谷八左ヱ門だって、嫌な夢にうなされることだってあるだろう。そう思って、おれは余り気にしていなかった。
それから、おれたちの日常は少し変化した。
DVDを見るのに、八左ヱ門が来なくなったのである。とは言っても彼が不在なのは映画の日のみで、それ以外はいつも通りだった。彼からプール行こうぜと誘ってきたり、おれが雷蔵と一緒に本屋へ行くのについて来たり、ごくまれに宿題をしたり。だが、映画を見る、となると彼は帰ってしまうのだ。
「……今日も八左ヱ門、来なかったね」
雷蔵は溜め息混じりに、リモコンの停止ボタンを押した。今日のチョイスは「燃えよドラゴン」。いかにも八左ヱ門の飛びつきそうな作品である。しかし彼は来なかった。
「そうだねえ」
おれは頷き、プレーヤーからDVDを回収してケースに収めた。おれとしては、ふたりでいられる時間が増えて嬉しいと思っていたので、雷蔵の寂しげな態度が少し不服だった。
「何か、心配だなあ……」
雷蔵はテーブルの上にリモコンを置き、窓の外を見た。つられて、おれもそちらに視線を向ける。外はとても良い天気だ。窓を閉め切っていても、けたたましい蝉の声が聞こえてくる。
「そう?」
雷蔵の反応がすこし大袈裟な気がして、おれは首を傾げた。例えば、あの日から八左ヱ門が一度もおれたちの前に現れないとか、そういうことだったら分かる。それならばおれだって流石に、何かあったのかと心配するだろう。しかし、実際はそうではないのだ。彼が来ないのは雷蔵の家で映画を見る日だけで、それ以外はごく普通に顔を合わせる機会があるのである。そこまで、雷蔵が気を揉むことなのだろうか。
「だって、映画の日だけ来ないんだよ」
「単に、悲鳴をあげたことが恥ずかしかっただけじゃないの? 映画を見るとなったらまた寝てしまうだろうから、同じことを繰り返したら嫌だなあ……って、普通に考えることだと思うけどなあ」
「うーん……」
雷蔵は納得がゆかないようだった。しかしおれには、それ以外の理由が思い浮かばない。
「だって、あのとき何だか様子が変だったし……」
「ああ……まあ」
おれは微妙な返事をした。八左ヱ門と出会ってからまだそんなに時間が経っていないので、おれにはその辺りのことはよく分からない。変だったと言われればそういう気がするが、いつもと大して変わらなかったような気もする。
「いつになくシリアスだった」
そう言う雷蔵こそ、いつになくシリアスな表情をしていた。常であればその真剣な面持ちにときめくところだが、今回は胸騒ぎが勝った。
嫌だ。これは嫌な展開だ。おれだけ置いてゆかれる気がしてならない。だって、雷蔵と八左ヱ門は小学生からの付き合いだが、おれはそうではないのだ。そこには、どうしたって埋められない溝が存在する。
「よっぽど嫌な夢だったのかなあ……」
雷蔵は手元に置いてあった麦茶のコップを掴んで一気に飲み干した。ごくごくと動く喉に目をやりつつ、おれはどうにかして話題を逸らせないだろうかと考えた。そんな自分もまた嫌だ。
「もしかして、何か悩みでもあるのかな」
透明なコップを握ったまま雷蔵は呟いた。おれは何とも言えない。八左ヱ門が悩んでいるかどうかなんて、まるで分からないからだ。特に喉は渇いていなかったが、おれもコップに手を伸ばしてひとくちだけ麦茶を飲んだ。冷たい茶が喉を通ってゆく。
「すごく深い心配ごとだったら、どうしよう」
雷蔵は、どうしても八左ヱ門のことが気になる風だった。おれは彼に気付かれないように、こっそりと溜め息をつく。
「……おれにはよく分からなかったけれど、きみの目からはそんな風に見えたの?」
結局話の流れを変えられず、おれは尋ねた。雷蔵がこちらを見る。心許ない表情だ。今、彼の頭の中は八左ヱ門でいっぱいなのだと思うと悔しかった。どうして、おれはもっと早く雷蔵と出会うことが出来なかったのだろう。
おれの質問に、雷蔵はこう答えた。
「……うん。八左ヱ門があんな顔するの、初めて見た。びっくりした……。どうしたんだろう……」
おれも、きみがそんな顔をするのを初めて見た。……とは、言わなかった。代わりに、「心配?」と軽い口調で言った。雷蔵は重たげに首を縦に振る。
「うん……何かあったのか、本人に訊いてみても良いものかどうか……」
「そんなことで悩まなくても」
「だって本当に、こんなこと今までになかったんだよ」
「……そう、なんだ」
「いつもは、何かあったらすぐ八左ヱ門から話してくれてたんだ。小三のときこっそり犬を拾ったときも、中一で好きな女の子が出来たときも」
「…………」
「何も言わないってことは、ぼくが訊いちゃいけないことなのかなあ……」
雷蔵はそう言ったきり、口を閉じて黙り込んでしまった。蝉の声以外は何も聞こえなくなった。雷蔵は難しい顔をして何かを考えている。声をかけられる雰囲気ではなかった。
少しして、ふと雷蔵の顔が持ち上がった。それから、彼は慌てて「あ、ごめん。暗くなっちゃって」と明るい声で言った。
「いや……」
「何か、本、持って帰る?」
雷蔵はやわらかく微笑む。さっき話はもうおしまい、と言われたようだった。結局おれは雷蔵の心を理解することも、彼の屈託を取り除くことも出来なかった。
ああ、何だろう、この気持ちは。
「……うん。じゃあ、三国志の続き読みたい」
おれは口の端を持ち上げて笑顔をつくった。多分、きちんと笑えていたと思う。
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