■ライ・クア・バード 09■
生まれて初めて料理をした。
材料を切るのも調味料を合わせるのも、煮込む間じっと待っているのも、なかなか楽しかった。雷蔵のためだと思えば殊更だ。出来たばかりの肉じゃがを抱え、雷蔵の家まで向かうときも心が弾んでいた。そしてそれを雷蔵に手渡した瞬間が、一番幸福だった。
しかしその素晴らしい心地は、帰り道には不安に変わっていた。雷蔵の口に合うだろうか。一応、念入りに味見をしたけれど、不味かったらどうしよう。それに、そもそも肉じゃがが嫌いだったらどうしよう。もしそうだったら、目も当てられない。ああ、どうしよう。どうしよう。
家に帰ってからも不安は晴れず、延々とそんなことばかりを考えていた。メールで感想が送られてこないだろうか、と何度も何度も携帯を開く。しかし、雷蔵からの連絡はひとつも無かった。それでますます不安になる。無反応ほど、恐ろしいものはない。
いっそ、こちらからメールで聞いてみようか……。そう思ったけれど、出来なかった。それで返事が返ってこなかったら、今以上にダメージを受けるであろうことが容易に想像出来たからだ。
悶々としつつ、おれは眠れぬ夜を過ごした。ああ、雷蔵はちゃんとおれの料理を食べてくれただろうか! そして、少しでも美味いと思ってくれただろうか!
翌日は、眩しいばかりの晴天だった。久し振りに乾いた路面を踏みしめて登校する。学校までの道のりも、頭を占めるのは雷蔵のことばかりだった。
教室に着き、戸を開ける。視線が勝手に雷蔵を探した。そして見付ける。彼も今着いたところらしく、机の上に鞄がのっていた。
「おはよう、三郎」
雷蔵は軽く手を挙げた。やわらかな声。雷蔵が笑っている。おれの首筋は、ほうっと熱を持ち始めた。自分の席に向かうより先に、彼の元に歩みよる。
「お、おはよう、雷蔵」
どぎまぎしながら挨拶をする。雷蔵はいつも通りに微笑んでいる。その笑顔を見たら、我慢が出来なくなって、おれは訊いた。訊いてしまった。
「あの……昨日の、食べた?」
すると、すぐに返事が返ってきた。
「うん、食べた食べた! すっごい美味しかった!」
「ほ……本当っ?」
「三郎、うちの母さんよりずっと上手だよ。あんまり美味しくて、一気に食べちゃった。あ、これ、タッパー」
雷蔵は鞄の中から、綺麗に洗ってあるタッパーを取り出し、こちらに差し出した。おれがそれを受け取ると、彼は両手を合わせてこう言った。
「ご馳走様でした」
その瞬間、全身が燃え上がった。冗談でもなんでもなく、本当に、火がついたようになったのだ。ご馳走様でした。雷蔵の口から放たれたその言葉が、おれに着火したのである。嬉しい。心が満たされる。幸福に胸が躍る。どうにかなってしまいそうだ。
そしておれは理解する。
これは、恋だ。
「……お粗末さまでした。……あのさ、雷蔵さえ良ければ……また、作っても良いかな?」
空のタッパーを力一杯握り締め、おれは言った。雷蔵は目をぱちぱちさせる。
「良いの?」
「うん、何か、料理楽しい」
おれは深く頷いた。雷蔵の為に飯を作る。雷蔵が食べてくれる。ご馳走様でした、と言ってくれる。最高だ。何度でもやりたい。
「わ、楽しみだなあ」
雷蔵は小さく手を叩いた。そんな他愛の無い仕草にも、いとしさがこみ上げる。やばい。抱きしめたくて仕方が無い。
「じゃあ、雷蔵、次は何が食べたい?」
「ええっ? えーと……そうだなあ……ええーと……」
たちまち難しい顔になり、雷蔵は悩み始めた。その様子に、思わず笑い声が口をついた。
そのとき、誰かの近付いてくる気配がした。そちらに目を向ける。八左ヱ門だった。しかし、何やら様子がおかしい。いつも、おれたちの姿を見付けたら大声で挨拶をしてくるのに、今日はやけに静かだ。心ここにあらずといった調子で、机や椅子にガンガン腰と足をぶつけながら、こちらに歩いて来る。
「……八左ヱ門?」
雷蔵も彼の異変に気付いたようで、怪訝そうに声をかけた。しかし、八左ヱ門は全く反応しない。そしてそのまま、おれたちの前を黙って通り過ぎようとする。
「八左ヱ門!」
声を少し大きくして、雷蔵は八左ヱ門の腕を掴んで彼の歩みを止めた。八左ヱ門が、はっとした様子で顔を持ち上げる。
「え、あ、何……あ、雷蔵か」
彼は、何度も瞬きをした。熟睡していたところを起こされた、みたいな表情だった。
「何を寝ぼけてるんだ、お前は」
おれは、八左ヱ門の額を軽く叩いた。普段だったら、何すんだてめー、とかなんとか言ってやり返してくるのに、今日は違った。彼は「三郎……」と呟き、まるで見てはいけないものを見てしまったかのような、気まずそうな面持ちになった。おれは少し、気味が悪くなった。あの天真爛漫な竹谷八左ヱ門に、何があったのだろう。
「ああー……」
八左ヱ門は頭を抱え、溜め息をついた。やっちまった、みたいな、そんなニュアンスの呟きだった。
「どうかしたの?」
雷蔵が、心配そうに八左ヱ門の顔を覗き込んだ。おれはその、自分以外の人間に向けられた雷蔵の優しさに、微妙な気分になる。
「いやあ……何でもない……」
力無く、八左ヱ門は吐き出した。全く説得力がなかった。しかしおれも雷蔵も、重ねて問い質すことはしなかった。何となく、出来なかったのである。
「ああー……そっかあ……うわあ……ああー……」
ぶつぶつ言いながら、八左ヱ門はおれたちの前から離れて行った。また、椅子や机に腰と足をガンガンぶつけながら。
次 戻
|