■ライ・クア・バード 08■


 びっくりしたびっくりした本当にびっくりした。

  あんなに近くに三郎の顔があるなんて思わなかった。あまりにも驚いたので変な声をあげてしまったし、本も放り投げてしまった。恥ずかしい。我ながら、動揺しすぎだ。

 落とした本を拾おうと手を伸ばしたら、三郎がまだこちらを見ていることに気が付いた。どきっとなる。ただ見ているというよりは、凝視、と言った方が良いくらいの視線の注ぎっぷりだ。ぼくが何をしたというのだろう。

「な、何だよ」

 若干身構えつつ、ぼくは言った。そうしたら、三郎はぼくの手元を指差して、 こう尋ねて来た。

「その本は、なんていうやつ?」

 ……三郎は、ぼくではなく、本を見ていたのだ。ぼくは自分がたまらなく恥ずかしくなった。なんという自意識過剰ぶりだろう。

「これは……伊坂幸太郎の『陽気なギャングが地球を回す』だよ。面白いよ。読む?」

 取り落とした拍子にめくれてしまった帯を直しながら、ぼくは答えた。三郎は笑顔で首を縦に振る。

「うん、読んでみる」

「じゃあ、どうぞ」

 三郎に、文庫本を差し出す。彼は片手でそれを受け取る。そしてまた、じっとぼくの方を見る。巫山戯ているふうではなく、至ってまじめな顔だ。ぼくは息を呑んだ。今度は自意識過剰でも勘違いでもない。三郎の視線は、真っ直ぐぼくを貫いていた。穴が空くほど見つめる、という表現はこういうときに使うのか、と思うくらいだった。

「…………」

 背中を、変な汗が流れてゆく。何だろう。この空気は、一体何なのだろう。ぼくは身体を動かすことも、顔をそむけることもかなわず、三郎と正面から向き合ったまま硬直した。三郎は何も言わない。ただ、ぼくを見ている。

「あ、あの、三……」

 この形容しがたい空気に耐えられなくなって、がちがちに固まった声で彼の名を呼ぼうとした瞬間、勢いよく部屋の扉が開いた。

「なあっ、まだ終わんねえのー? ひとりでゲームすんの飽きたよー!」

 八左ヱ門だった。三郎の視線が、ぼくから外れて八左ヱ門の方を向く。ぼくは、ほっと息を吐き出した。良かった。何だかよく分からないけれど、窮地を脱することが出来た。ナイス八左ヱ門。なんて頼もしい友人だろう。

 時計を見る。知らない間に、三十分以上経っていた。これじゃあ、八左ヱ門も痺れを切らすわけだ。

「ごめんごめん。待たせちゃったね。……三郎、本はそれだけで良い?」

「ん? うーん、そうだな……」

 三郎は、本棚に視線を走らせた。

「じゃあ、これも」

 そう言って彼は、本を一冊抜き取った。古処誠二の「UNKNOWN」。うん、良い選択だ。

 ぼくたちは三人揃って居間へ移動して、牛乳を飲んだり(冷蔵庫にそれしか飲み物が入っていなかった)菓子を食べたり、ゲームをしたり他愛の無いことを喋ったりした。そうやって和やかな時間を過ごしていたら、先程の、三郎の妙な視線のことはすっかり忘れてしまった。

「そういえば今日、おじさんとおばさんは?」

 窓の外が薄暗くなる頃、新聞のテレビ欄を見ていた八左ヱ門がふと言った。

「今日は帰って来ないよー」

 ぼくはそう言って、テーブルに広げた芋けんぴ(そんなものしか無かった)を囓った。

「そうなの?」

 洗った牛乳パックをハサミで綺麗に切り開いていた三郎が、顔を上げた。ぼくは芋けんぴをもう一本つまみ、頷いた。

「うん、出張。うちの親、おんなじ会社で働いてるから、ふたりで出張って結構あるんだ」

「おれ、今日泊まってこうかなあー」

  新聞紙をめくり、スポーツ欄を開いた八左ヱ門が軽い調子でそんなことを口にした。そうしたら、三郎が「は!? 何それそんなのアリなの!?」と声を引っ繰り返した。

「うん、アリだよ」

 三郎の大袈裟な反応に、ぼくは軽く笑いを漏らした。三郎は何故か、呆然とした表情をして「そうなの?」ともう一度尋ねた。ぼくは、八左ヱ門に目を向ける。

「八左ヱ門、よく泊まってくもんね」

「なー」

 八左ヱ門が笑顔でぼくの言葉に応じた瞬間、横手から三郎の手がにゅっと伸びてきて、八左ヱ門の頭をごちんと拳で打った。結構な良い音が響いた。  

「いって! 何で殴った今」

 八左ヱ門は抗議の声をあげる。確かに、今のは別に殴るところではなかった。何でだろう、と思って三郎を見ると、彼は物凄く不満そうな顔をして「……いや、何となく」と低く呟いた。八左ヱ門は、殴られた頭頂部をさすった。

「ご両親が揃っていらっしゃらないことが多いって……その間、食事とかどうしてるの」

 三郎は、やけに真剣な顔をして尋ねてきた。ぼくは少し考えてから、答える。

「えーと、大体コンビニとか、牛丼とか……」

「感心しないなあ」

 たちまち顔をしかめる三郎に、ぼくは曖昧な笑みを返した。

「分かってるんだけど、なかなかねえ」

 ぼくは料理がまったく出来ないので、母親が何か作って置いて行ってくれるときは良いが、そうでないときはどうしてもコンビニやファーストフードに頼ってしまう。よくないことだと自分でもよく分かっているので、そこを叱られると、辛い。

「……うん、分かった」

 何かに納得したような面持ちで、三郎は深々と頷いた。一体、何が分かったというのだろう。

「何が?」

 ぼくの問いに答えることなく、三郎は荷物を持ってやおらに立ち上がった。そして、テレビのリモコンを手に取ろうとしていた八左ヱ門の腕を、ぐいと掴む。

「帰るぞ、八左ヱ門」

 突然そんなことを言われて、八左ヱ門の目がまんまるになる。

「は? 何で?」

 ぼくも、八左ヱ門と同じ気持ちだった。え、何で? 何でもう帰っちゃうの? しかも、八左ヱ門も一緒に。まるで意味が分からない。

「お邪魔しました、雷蔵」

 三郎は八左ヱ門を無理矢理立たせ、ぼくに向かって軽く頭を下げた。状況がまったく飲み込めず、ぼくはぽかんとするばかりだった。

「……え、ほんとに帰るの?」

「うん、それじゃあね」

「え、いや、三郎……! 何でだよ!」

 八左ヱ門は三郎の拘束から逃れようとするが、三郎は彼を引っ張って、居間から出て行く。ぼくは、玄関まで見送りをするべきかどうか迷った。だって、どうして彼らが帰ってしまうのか分からなかったのだ。おろおろしている内に、バタン、と玄関の扉が閉まる音がした。ふたりは、本当に帰ってしまったのだ。

「え……ええー……?」

 ぼくはしばらくの間、呆然として、さっきまで三郎と八左ヱ門が座っていたソファを見つめていた。

 まったくもって腑に落ちないけれど、仕方が無い。ぼくは、食べかけの芋けんぴと皆が使ったコップの後片付け……は後回しにして、本でも読むことにした。

  今日は両親がいないから、ゆっくりして行ってもらおうと思ったのに。三郎はどうして急に、帰るなんて言い出したのだろう。コンビニや牛丼ばっか食ってる、という発言に怒ったのだろうか。そんな馬鹿な。そんなことで帰ってしまう奴なんて、聞いたことがない。……だけど三郎は変わっているから、有り得るかも? いやいや、もしそうだとしても、八左ヱ門まで連れてゆくことはないじゃないか。その辺はどうなんだ。どういうことなんだ。

 ……なんてことを考えながらページをめくっている内に時間はどんどん過ぎてゆき、気が付けば19時を回っていた。

「……ああ、夕飯、どうしよっかなあ……」

 ぼくは本を閉じる。腹が減った。コンビニ……と考えかけたけれど、三郎の顔が浮かんで思いとどまる。今日は、ちゃんとした食事を摂った方が良いだろうか。それじゃあ、自炊にチャレンジしてみるか。今ならまだ、スーパーも開いているし。何を作ろうか。

 ええと……。

 ええと…………。

 全く思い浮かばない。ぼくはぐるぐると思い悩んだ。そうしている内にも腹は減る。献立は浮かんでこない。腹が減った。

「……コンビニ行こう」

 結局そう決めて、ぼくは立ち上がった。鞄の中を掻き回して財布を捜していると、呼び鈴が鳴った。ぼくは玄関に走った。扉を開ける。あっ、と思わず声が出た。

「……三郎?」

 来訪者は、先程帰ったはずの鉢屋三郎だった。彼はにこにこと微笑んでいた。

「こんばんは、雷蔵」

「どうしたの? 忘れ物?」

「雷蔵、もう晩飯食った?」

 ぼくの質問に答えず、三郎はまったく別なことを言った。

「……いや、まだだけど」

「良かった。それじゃあ、これ」

  安堵したように顔を綻ばせて、三郎はタッパーを差し出してきた。何故タッパー? と思ってそちらに視線を落とすと、三郎はこのように続けた。

「肉じゃが作ったんだ。良かったら食べて」

 まさかの、肉じゃが。ぼくは口を開けた。ここで、肉じゃがの登場。その変化球は予想していなかった。

「えっ……何……えっ、三郎が作ったの?」

 ぼくは、タッパーと三郎と交互に見た。まだ、肉じゃがと鉢屋三郎、という組み合わせを上手く呑み込むことが出来ない。

「うん」

 こちらの戸惑いをよそに、三郎は照れくさそうに笑う。ぼくは混乱しつつも、両手でタッパーを受け取った。あたたかい。その熱を感じていると、少しずつ現状が呑み込めてきた。

 彼は、両親が不在がちで食生活の乱れているぼくの為に、わざわざおかずを作って持って来てくれたのだ。

 それを理解するのに、随分時間がかかってしまった。だってまさか、そんなことをしてくれるとは思っていなかった。

「……三郎、料理なんて出来たんだ」

「ううん、生まれて初めて料理したよ」

「初めて?」

「うん。帰りに本屋寄って、料理の本立ち読みして来た」

「え、それで作ったの?」

「そうそう、レシピ覚えて。……口に合うと良いんだけど」

 三郎はこともなげに言うけれど、それって結構凄いことなんじゃないだろうか。ぼくは呆気に取られていた。鉢屋三郎は、何処まで底知れぬ男なのだろう。

「これ……良いの? もらっちゃって」

「勿論。……じゃあ、おれは帰るね」

「あ……三郎」

 ぼくは三郎を呼び止めた。立ち去ろうとしていた彼は、不思議そうに振り返った。

「なあに、雷蔵」

「これ……あの、有難う」

「どういたしまして」

「ええと……お茶でも飲んでく?」

 わざわざ持って来てくれたのに、このまま帰してしまうのも何だと思い、ぼくは言った。三郎は「えっ」と言って軽く目を見開き、少し考える素振りを見せてから微笑んだ。

「今日はやめとく。じゃあ、また明日ね」

 三郎はそう言って、今度はぼくは引き止める間も与えずに小走りで行ってしまった。

「…………」

 ぼくはしばらく、玄関口で立ち尽くしていた。そして、タッパーを見やる。

「肉じゃが……」

 独り言が口から漏れる。とりあえず、家の中に入った。しっかりと鍵を閉める。そしてダイニングに入って、タッパを開けた。

「肉じゃがだ」

 肉じゃがだった。当たり前だ。いや、しかし、初めて料理をしたとは思えないくらい、きちんとした肉じゃがだった。煮崩れしていないし、人参と絹さやの彩りも綺麗だ。ひとことで言うと、とてもうまそう。

 腹が鳴った。本当は電子レンジで温め直すつもりだったけれど、そのまま食べることにした。じゃがいもをひとつ、口の中に放り込む。噛む。噛む。味わう。

「美味しい!」

  思わず、歓声が飛び出した。三郎の肉じゃがは、やさしくて素朴で、とても美味しかったのだ。

「すごい、美味しい、美味しい」

 ぼくは次々、三郎の肉じゃがを口に運んでいった。まんべんなく味がしみていて、ああ、美味しい。美味しい。美味しい! コンビニに行かなくて良かった。こんな美味しいものが食べられるなんて!

 ……と、幸せな気分に浸っていたら、突然視界がぶわりと歪んだ。

「……あれ?」

 何事かと思って、目元に手を当てる。そして愕然とした。何と、ぼくは泣いていたのだ。

  ……いや、確かに三郎の肉じゃがは美味しいけれども。感動したけれども。そんな、泣くようなことでは……。

「……っ……」

 手から力が抜け、箸が卓上に落ちた。胸が震え、涙がどんどん溢れてくる。訳が分からない。身体が、内側から締め付けられているみたいだった。三郎の肉じゃがは素晴らしく美味しくて幸福なはずなのに、息が出来なくなりそうなくらい、切ない。

 ぼくは箸を再び取って、肉じゃがを食べた。美味しい。そう感じると同時にまた、涙がこぼれた。次から次へと。止まらない。雫が落ちる。どんどん落ちてゆく。

 そうやってぼくは泣きながら、三郎の手料理を食べた。