■ライ・クア・バード 07■


 授業が終わってすぐ、鞄を持って雷蔵の席までゆこうとしたら、彼の方からこちらに来てくれた。雷蔵がおれのところに。おれはそんな小さなことにも幸福を感じるのだった。

「雨、止んだね」

 雷蔵は窓の外を指さした。そちらを見る。

「ほんとだ、止んだね」

 分厚い雲がほんの少し割れて、隙間から空の青さが覗いている。晴れ間を見るなんて、何日ぶりだろう。  

「……ねえ三郎、体調良くなったのなら、今日ぼくの家に来ない?」

  雷蔵の口から放たれた言葉は、真っ直ぐにおれの心を貫いた。

「えっ良いの!?」

  勢いをつけて、雷蔵の方を振り返る。八左ヱ門と三人で学校帰りに寄り道をしたり、休日にやっぱり三人で遊びに出掛けたことはあるけれど、家に招待してもらうのは初めてのことだ。おれの心臓は、にわかに活発に活動を始めた。

「うん。それで、読みたい本を選びなよ。ぼくが選ぶと、毎回迷ってしまうから」

「それアリなの!?」

「アリだよー」

  雷蔵はそう言ってから、「何でそんなにびっくりしてるの」と付け加えて笑った。彼には分からないのだ。雷蔵に近付けることが、どれだけおれの心を震わせるかを。

「あ、何、帰り雷蔵ん家行くの?そんじゃおれも行く」

  雷蔵の家にゆけるという感動を噛み締めていると、後からやって来た八左ヱ門が、軽い口調で乗ってきた。

「…………」

  おれは黙って八左ヱ門を見た。視線に、空気読めこの野郎、という気持ちをめいっぱい込める。そうしたら彼は、きょとんとした顔で「何?」と言った。通じなかった。なんて鈍い奴だろう。

「……いや何でも」

  おれは憮然として言い放った。まったく八左ヱ門は気が利かない。……でも、まあ良いか。今は、雷蔵の家に行けるだけで十分だ。その幸福に感謝することにしよう。そうだ、焦るな鉢屋三郎。一歩一歩進んでゆけば良いのだ。










 雷蔵の家までは、学校から歩いて十五分くらいだった。庭付きの一戸建て。ご家族どなたかの趣味なのか、庭の一角には花壇があり、ちらほらと花が咲いていた。よく見ると、花々を囲うブロックの一部が崩れている。そのすぐ側に、青い自転車が停められていた。恐らく、花壇を破壊した犯人は雷蔵なのだろう……なんて推理をしながら、うきうきと家の中に入った。

「お邪魔しまーす!」

  八左ヱ門が真っ先に玄関へと入り、靴をぽーんと脱ぎ捨てた。

「ぼくらはとりあえず本棚の部屋に行くけど、八左ヱ門はどうする?」

 家にあがり、雷蔵は八左ヱ門を振り返ってそう言った。八左ヱ門は「あーそっか」と返してから少し考え、「じゃあおれ、ゲームでもしてて良い?」と続けた。

「良いよー」

 雷蔵の返事を聞いてすぐ、八左ヱ門は二階へと続く階段をのぼって行った。もしかして奴は、雷蔵の部屋に行ったのだろうか。おれは気が気でなかった。思わず階上を覗こうとしたら、雷蔵に手を引かれた。

「じゃあ、三郎はこっち」

「あ、うん」

  八左ヱ門の動向は気になったが、仕方が無い。おれは彼のあとについて、廊下をてくてくと歩いた。

「八左ヱ門って結構寂しがり屋だから、ああ言ったらこっち来るかなって思ったけど、来なかったなあ」

 雷蔵は小さく笑って、そんなことを言った。こういうとき、おれは少し微妙な気分になる。笑っている雷蔵は好きだけれど、八左ヱ門との親しさを見せつけられるのは面白くない。だからおれは返事をしなかった。雷蔵は、おれのそんな心境にはまったく気付かず、「ここだよ」と言って扉を開けた。

 不破家の「本棚の部屋」は凄かった。本当に本棚しかない。壁三面がスライド式の大きな本棚で埋め尽くされていて、そのいずれもに、ほぼ隙間無く本が詰まっている。小説だけでなく、様々な本が揃っていた。

  面白いことに、料理の本や園芸の本、女性作家の小説なんかはきっちり綺麗に分類されているのに対し、ビジネス書や新書、男性作家の小説はぐっちゃぐちゃで、まったくの無秩序であった。つい最近雷蔵に借りた、舞城王太郎の「煙か土か食い物」が、三国志の二巻と三巻の間に突っ込んであったりする。

「……きみは、お父さん似なんだねえ」

 呟くと、「えっ、何で知ってるの?」と驚き声が返って来た。おれは含み笑いを漏らす。いつか、もっともっと彼と親しくなることが出来たら、この混沌とした空間にメスを入れさせてもらおう。それで、徹底的に整理整頓してやるのだ。

「どれでも、好きな本を持って行って良いよ」

 雷蔵はそう言って、本棚の中から適当な本をついと抜き出して開いた。そして床に胡座をかき、その本を読み始める。

 おれは本棚と向かいあった。好きな本を持って行って良い……とは言っても、このカオスからどうやって選ぼうか悩んでしまう。何か、雷蔵との話の種になるようなものが読みたいな……。

 そのとき、唐突に気付いた。今、自分と雷蔵はふたりきりであると。

 そうだ。しまった。ふたりきりだ。おれは一気に狼狽してしまった。胸が震えて、指先が熱くなる。横目で、雷蔵の姿を窺い見る。彼は真面目な顔で、手にした文庫本に視線を落としていた。集中している。おれはその表情に見惚れた。そうなると本を選ぶどころではない。引き締められた口元や、雷蔵がページをめくるときの指の動きから目が離せない。

 雷蔵の読書を妨げないように、そっと彼に近付いた。彼の正面で膝をつく。意識のすべてを本に持って行かれている雷蔵は、おれの存在に気がつかない。真剣な面持ちで、活字に目を走らせている。

 もっと彼に近付きたい、と思った。もっと近くで彼を見たい。それに、何処まで接近すれば雷蔵がおれの存在に気が付くか、そこにも興味があった。少しずつ雷蔵に顔を寄せる。その距離は約二十センチ。びっくりするくらい、彼はこちらに気付かない。もっと距離を詰める。十センチ。胸がどきどきしすぎて苦しい。このままいけば、額が触れ合ってしまいそうだ。

 そのとき、雷蔵がふと目線を持ち上げた。そしておれの顔を認めると、 「っ、うわあ!」と悲鳴をあげて、身体を思い切りのけぞらせた。手にしていた本が、床に落ちる。

「び、びっくりしたあ! 何やってんの三郎!」

  彼は左胸に手を当てた。その頬が、ほんのり赤に染まっている。あわてふためくその様が、いとおしくて仕方が無い。おれは、そんな胸の昂ぶりを隠すために、声をあげて笑った。

「だって、あまりにもきみが気付かないから」

「だからってそんな……ああもう、びっくりした!」

 雷蔵は、ぱたぱたと手で顔を扇いだ。おれは「ごめんごめん」と謝りながら、もう少しで彼に触れることが出来たのにな……と少し残念に思った。