■遠くの月 02■
「お前っ、わざわざ、罠のある方を、選んでないか!」
荒い呼吸の合間に久々知は叫んだ。その瞬間にも頭上から矢が降って来て、久々知は身体を捻ってどうにかそれをかわした。前方を走る三郎について行くため、必死で体勢を立て直す。三郎は、こちらを全く振り返らない。ついて来られなければそのまま置いて行くぞと言っているようであった。
三郎の邁進するけもの道は、間断なく罠が仕掛けられた過酷な道筋だった。久々知はそれらを避けるのに必死だった。しかし三郎は罠など全く意に介することなく、何でもないことのように真っ直ぐに道無き道を駆けてゆく。
久々知は、ぎりと奥歯を噛んだ。鉢屋三郎が図抜けて優秀な男だということは知っていた。しかし、ここまで自分との差が目に見えるとは思わなかった。常に彼の側にいるあの柔和な相棒は、いつもこれについて行っているのだろうか。こんな、無茶苦茶な所行に。
「だって兵助、こっちが近道なんだ」
三郎は、笑い声混じりに言った。呼吸も声も、全くぶれがない。久々知は彼の背中に怒鳴り返す。
「だとしても、もうちょっと、マシな道を選べ、よ!」
対して、呼吸の乱れをどうしても隠せない自分が、悔しくて仕方がなかった。額から汗が滑り落ちる。
走る。三郎の姿を捕捉する。罠を避ける。どれも気が抜けないので、体力、精神力共にどんどんすり減ってゆくのが自分でも分かる。木から垂れる蔓、周囲と色味の違う葉、全てが罠に見える。息が苦しい。心臓が爆発しそうだ。
「折角、先生方や先輩方が夜な夜な仕掛けてくれた罠だぞ。日の目を見ないと気の毒じゃないか」
まだまだ余裕のある声でそんなことを言う、三郎が心底憎らしい。
「お前な……っ」
「あっ兵助、そこ、足元に気を付けろよ」
三郎の言葉と同時に、久々知の足下で、がちり、と何かが嵌め込まれるような音がした。一瞬で全身の血の気が引いた。
「う、わあ!」
反射的に頭を引っ込めたら、そのぎりぎりのところを何かが横切って行った。素早く視線を横に向けると、どうやら石つぶてのようだった。足がもつれそうになるが、気力を振り絞って立て直す。
「さっすが、兵助。良い反応してるう」
ハチだったらきっと今のでアウトだ、と続け、初めて三郎がこちらを振り返った。笑っている。こちらを馬鹿にしているとか見下すとかそういう笑みではなく、純粋に楽しそうな顔をしていた。白い歯を見せて、子どものような笑顔だった。久々知は、一体こいつは何なんだ、と思った。
しばらくして、三郎が立ち止まった。彼の背中に衝突しそうになりながら、久々知も足を止めた。額の汗を拭う。どうにかついて来られたのは良いが、体力の消耗が尋常ではない。このままこいつに合わせていて、課題終了まで保つだろうかといささか心配になる。
「ほら、兵助。あそこに見えているのが第一地点だ。な、早かっただろう」
三郎は誇らしげに、木々に埋もれるようにして建っている掘っ立て小屋を手で示した。そして軽い足取りで、小屋に近付いてゆく。ふらつく脚を引きずって、久々知も彼の後に続いた。
「お前……、いつもこんな調子なのか」
「まさか」
素朴な疑問をぶつけると、三郎は薄く笑った。
「雷蔵と一緒のときは、遠回りでももっと安全な道を選ぶさ」
「何だよ、それ」
久々知は眉を寄せた。どうにも納得がいかない。おれなら危険にさらしても構わないというのかと怒るべきなのか、それだけ能力を見込まれているのだと喜ぶべきなのか。複雑だ。
そして、その気になればこんな危険な道でも平気で突破出来る男が、普段は相棒の技量に合わせて遠回りをしているということが気になった。勿論、二人組で行動するときは、相手と息を合わせることが何よりも大事だ。しかしこのような規格外の男にとって、それは良いことなのだろうか。彼の才能を、潰すことにはなりやしないだろうか。
……いや別に、いつも雷蔵と組むのが悪いってわけじゃないけど。
久々知は頭を掻いた。雷蔵は良い奴だ。それは久々知も知っている。だから一緒に居たいと思う三郎の気持ちも、理解出来る。理解は出来るけれど、なんとなく釈然としない。
久々知は首を振った。余計なことを考えるのはよそう。今は課題の真っ最中なのだ。
「どうした、兵助。もうへばったのか」
からかうような三郎の口調に、久々知はむっとして顔を上げた。
「馬鹿言うな」
「そうこなくちゃ」
三郎は笑って、朽ちかけた木戸を開けた。外観とは裏腹に、小屋の中はそれなりにさっぱりしていた。但し、大層かび臭い。
「おっ、随分と早かったじゃないか。おまえたちが一番だぞ」
小屋の奥から、朗らかな声がした。薄暗い中、土井先生が立っているのが見える。第一地点の担当であるらしい。 土井先生は、三郎に続いて小屋に入って来た久々知の顔を見て目を丸くした。
「何だ。三郎は、今日は雷蔵とじゃなく兵助と組んでいるのか」
その言葉に、久々知は少しひやりとした。雷蔵と組めなかったことを思い出して、また三郎の機嫌が悪くなるのでは、と思ったのだ。折角やる気になってくれたのだから、彼の士気を削ぐようなことは言わないで欲しい。しかしそれは、久々知の杞憂であった。
「はい、そうなんです」
そう言って三郎は、至極爽やかに微笑んでみせた。一瞬、雷蔵と見間違うくらいだった。
「鉢屋、久々知、第一地点通過……と」
土井先生は筆を取り、持っていた紙にさらさらと書き付けた。それから視線を上げ、三郎と久々知の顔を順に見やる。
「おまえたち、もしかしてあのけもの道を通って来たのか?」
土井先生の問いに、久々知は頷いた。すると年若い教師は、驚いたように口を開けた。
「よく、無事でいられたなあ。文次郎と仙蔵が、きっと悔しがるぞ」
どうやら、あの道の罠を仕掛けたのは、六年い組の先輩方らしい。道理でえげつなかった、と久々知は息を吐いた。しかし同時に、そんな道を無傷で突破出来た自分に驚いた。
……完全に、三郎に引っ張られたな。
久々知は、三郎の顔を横目で見た。その視線に気付いた三郎がこちらに顔を向け、にっと笑った。今度はちっとも雷蔵に似ていない、含みのありそうな笑みであった。
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