■遠くの月 01■
久々知は目を丸くした。学年合同で行われるペア対抗オリエンテーリングの、組分けをしていたときのことだ。い組の集合場所に、何故かろ組の鉢屋三郎がいる。それも、極めて不機嫌そうな顔で、だ。
久々知は彼の相棒の姿を探してみたが、近くにはいないようだった。ペア競技となれば必ず雷蔵と組む三郎が、何故ひとりでこんな所にいるのだろう。
「三郎」
「よう」
声をかけると、気のない返事が返ってきた。
「どうして三郎がここにいるんだ。雷蔵は?」
「どうもこうも」
三郎は腕を組み、吐き捨てるように言った。そして、早口で一息にこう続ける。
「い組は昨日の石火矢実習で怪我人が出て人数が足りないから、い組に回れと言われた」
「ああ、なるほど」
久々知は合点した。三郎が不機嫌な理由も。雷蔵と組むことが出来なかったから、拗ねているわけか。久々知は口元に、ほんの少し笑みを浮かべた。
「それじゃあ、三郎。おれと組もう」
右手を差し出すと、三郎はしばし久々知の手のひらを見つめ、おざなりに握り返した。その瞬間周囲にいた、い組の生徒たちの間に何処となく安堵の空気が流れた。忍びの腕は間違いなく学年一であるが、変人ぶりも学年一である鉢屋三郎を久々知が引き取ってくれて良かった……そんな空気だ。
「三郎がこっちに来たんなら、雷蔵はどうしてるんだ」
「ハチと組んでたよ。楽しそうに」
雷蔵と同じ顔をしてはいるが、その表情には険があり、ちっとも雷蔵には似ていない。久々知は三郎のその言葉を聞き、成程それも不機嫌の理由かと大いに納得した。
自分は雷蔵と組めなくてこんなにも気落ちしているのに、きみはあっさりハチと組むのか。……といったところだろう。全く、鉢屋三郎は面倒くさい男だ。しかし彼の忍術の腕だけは確かだ。この機会に、色々と技術を盗ませてもらおう。久々知はそう考えた。
しかし開始から半刻もしない内に、久々知はこいつと組んだのは間違いだったかもしれない、と思い始めていた。三郎からは、明らかにやる気が感じられなかった。事前に配られた地図と暗号表も、一瞥もくれずに懐にしまい込む。
「おいおい、少しは真面目にやれよ」
あぜ道で立ち止まり、久々知は三郎を軽く睨んだ。
「だって雷蔵がいないんだぜ?」
何を言ってるんだ、という顔で三郎は肩をすくめた。そして、道端に生えていた白い花を手折る。
「おれは兵助についてくから、適当にやってくれ」
三郎は口笛を吹きながら、花びらを一枚ずつ千切ってゆく。久々知はため息をついた。いつもは雷蔵と共に一番に駆けてゆくのに、この差は一体何事だろう。相棒が変わっただけで、ここまで士気が下がる忍びというのもどうなんだ。
「暗号も全部、おれひとりで解けって?」
「久々知くんは優秀だから、それくらい朝飯前だろう」
花びらを全てむしり終えて、三郎は残った茎と葉を放り投げた。
「……おまえが言うと、何だか嫌味に聞こえるな」
聞こえるように言ってやったが、三郎はしたり顔で口笛を吹くばかりだ。久々知は諦めて、暗号表を広げた。見るからにややこしい暗号文が目に入り、久々知は顔をしかめた。何処の組も、相棒と力を合わせてこの暗号に取り組むのだろうなと思うと、何だか虚しくなってくる。
「兵助はさあ」
久々知が暗号文に取り組み始めてすぐ、手頃な岩に腰を下ろした三郎が声をかけてきた。久々知は暗号から目を離さず、「何だよ」と短く返事をする。
「卵料理では何が一番好き?」
「……暗号解読中に、つまらないことで声をかけるなよ」
久々知は顔を上げた。そして思わず「うわ!」と声をあげた。岩に座っていた三郎の顔が、雷蔵のものではなく女装した山田先生のものになっていた。久々知の驚きようを見て、三郎は満足げに笑う。
「三郎、お前なあ……」
頭痛を覚えて、久々知は頭に手をやった。伝子さんの顔をした三郎は、艶めかしく身体を揺らしながら頬に手を当てた。久々知の背中に悪寒が走る。そういう無駄に細かい部分まで、再現するのは止めて欲しい。
「それ、そんなに難しい?」
三郎は、暗号表を指さした。興味を持ったのだろうか。
「解くか?」
すかさず訊いてみたら、三郎は「いや、いい」と言って素っ気なく首を横に振った。何だよそれ、と言いたくなった。久々知は再び、暗号表と向き合った。横やりが入ったせいで、何処まで考えたか分からなくなってしまった。
「……さっさと終わらせた方が、早く雷蔵に会えるのに」
ため息混じりに呟くと、三郎はぴくりと身体を反応させた。素早く久々知に背を向け、再びこちらを向いたときにはもう雷蔵の顔になっている。
「なるほど、それもそうか。兵助、お前頭いいな」
三郎はそう言って、久々知の手から暗号表と地図をひったくった。一見、意味不明の文字の羅列に素早く目を走らせ、ひとつ頷く。
「よし、分かった」
「分かった、って……」
久々知は信じられない思いで呟いた。解いた? この暗号を、あんな短時間で?
「行くぞ、兵助。おれたちが一着だ」
三郎は不敵に笑い、ひらりと身を翻して走り出した。
「お、おい!」
久々知は慌てて、三郎の後を追って走った。どうやら鉢屋三郎は、やる気になったらしい。良かった。それは頼もしい、が……。
「火がつく動機が、不純すぎるだろ……」
久々知はこっそり独り言を吐いた。先行きが不安で仕方がなかった。
そんな彼の心中を知ってか知らずか、三郎は軽快に駆けてゆく。油断すればたちまち引き離されてしまいそうだ。久々知は必死になって、三郎の後ろ姿に食らいついて行った。
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