■開花の音 09■
「雷蔵、これ、三郎に渡しておいて」
ある日の休み時間、雷蔵は級友に紙の束を手渡された。学級委員に提出することになっていた宿題であった。そのとき側に三郎がいなかったので、雷蔵は「うん、良いよ」と快く引き受けた。そうすると他の級友たちも、ぼくのも、おれのも、と言って自分たちの宿題を雷蔵のところに持って来た。たちまち、雷蔵の腕の中は皆の宿題でいっぱいになった。これじゃあ、三郎にでなくぼくに提出しているみたいだ、と思った。しかしそのときは、深くは考えなかった。
別の日、違う級友に、「雷蔵、学園長先生が呼んでるって、三郎に伝えて」と言われた。このときも三郎と一緒でなかったので、雷蔵は「うん、分かった」と頷いた。
「雷蔵、明日の午前中は自習だって、三郎に言っておいてくれないかな?」
更に別の日の放課後に、また違う級友に言付けを頼まれた。このとき初めて、おかしいと思った。級友たちは雷蔵と三郎が一緒にいるときはほとんど話し掛けてこないのに、雷蔵がひとりになったらこうやって三郎への伝言を持ってやって来る。まるで、三郎がいなくなるのを待ってから、雷蔵に声をかけているようだった。
雷蔵は眉を寄せた。決して良い気分ではない。
ぼくは三郎の伝言係じゃないよ!
そのひとことは、喉元にわだかまったまま外に出て来なかった。だから雷蔵は、言い方を変えることにした。
「……どうしてみんな、三郎に直接言わないの?」
三郎と組の皆に仲良くなって欲しいのに、間に雷蔵が入ってばかりだとちっとも三郎と他の皆との距離が縮まらない。勿論、三郎にだって原因はある。雷蔵とは大分打ち解けてきた彼だったが、他者に対しては相変わらず頑なだ。雷蔵といるときと、態度に差が有り過ぎるのである。
「だって、なあ」
「三郎って、話し掛け辛いんだもん」
ふたり連れ立ってやって来ていた級友たちは、顔を見合わせた。
そんなことないよ……とは言えなかった。まったくもってその通りなので、返す言葉が見つからなかった。だけど、勿体ない。皆も一度きちんと話をしてみれば、三郎が悪い奴じゃないと分かってくれるはずなのに。
「でも、三郎も大分変わったんだよ。最初は確かに無茶苦茶だったけど、最近は暴力を振るうことも大分少なくなったし。それにほら、失踪だってあまりしなくなったじゃない」
彼の良いところを少しでも分かってもらおうと、咳き込むように言った。級友たちは、困り顔で肩をすくめる。
「でもやっぱり、変な奴であることには変わりないよ」
「そうそう。一度だって、お面を取らないし」
「雷蔵は、三郎の顔を見たことがある?」
その問いに、雷蔵は小さな声で「……ないけれど」と答えた。その話は、あまりしたくなかった。一番最初に、三郎のお面を取ろうとして打たれたことを思い出すからだ。あのときのことを思い返すと、今でもじくじくと胸が痛む。
三郎は本当に、お面を取られるのが嫌だったのだろう。あれ以降も、ちょっとした理由で彼に打たれることがしばしばあったけれど、あのときのような心からの拒絶を感じたことはなかった。だからきっと、三郎にとってはよっぽど大事なことなのだ。
「雷蔵は、気にならないの?」
雷蔵は下を向いて黙り込んだ。気にならないと言えば嘘になる。だけど、三郎の素顔には触れてはならないのだと、彼は幼いながらに理解していた。
「ねえ、雷蔵。三郎が寝ているときにさあ、こっそりお面を取ってみてよ」
「駄目だよ、そんなの……!」
軽く放たれた級友の言葉に驚いて、雷蔵は目を見開いた。とんでもない提案だった。いくらあのお面の向こう側が気になるからって、そんなことをしたらどうなるだろう。きっと、三郎からの信頼をいっぺんに失ってしまう。好奇心と友情だったら、秤に掛けるまでもなく友情を選ぶ。いつも迷ってばかりの雷蔵だが、それは一瞬たりとも迷わなかった。
「良いじゃん、雷蔵。おれたちがやったら殴られそうだけど、雷蔵なら三郎と仲良いし、そんなに怒られることもないだろ?」
「嫌だよ、ぼくは、そんなこと絶対にやらない!」
拳を握って、雷蔵は怒鳴った。普段ほとんど声を荒げることのない雷蔵のその剣幕に、級友たちはぎょっとしたように後ずさる。
三郎とろ組の皆に仲良くなって欲しくて彼らと話をしていたのに、三郎を陥れる作戦を持ちかけられたことが、無性に情けなくて悲しかった。途端に喉が苦しくなり、両目から涙がぽろぽろとこぼれ出した。
「え、ら、雷蔵?」
「そんな、泣くようなこと言ってないじゃん!」
級友たちは狼狽を露わにして、雷蔵の顔を覗き込もうとする。その直後、彼らが息を呑む気配がした。
「さ、三郎!」
「いつからそこに……!」
自分の嗚咽の間を縫って聞こえた級友たちの驚き声に、雷蔵は顔を上げた。隣を見やると、ぶわぶわに滲んだ視界に人影が写り込んだ。三郎だ。本当に、いつからそこに居たのだろうと雷蔵はびっくりして目元を擦った。今までの話を聞いていたのだろうか。
三郎の姿を見て、級友たちは逃げるようにしてその場からいなくなってしまった。雷蔵は鼻をすすり、急いで顔を濡らす雫を袖口で拭った。今日の三郎は、最初に会ったときと同じ、鬼の面をかぶっていた。彼は黙って雷蔵の右手をきゅっと握った。三郎の手は温かかった。雷蔵は胸が熱くなり、また泣きそうになった。
身体の向きを変え、彼は雷蔵の手を引いて歩き出す。何も言わず、雷蔵は彼について行った。
三郎は、いつも来る校庭の木の下で立ち止まった。手を繋いだまま、ふたりで地面に腰を下ろす。そのとき、温い風が吹き抜けた。校庭では、上級生が手裏剣の練習をしていた。
雷蔵の涙はもう止まっていた。乱暴に擦ったから、瞼と鼻がひりひりする。もし三郎が先程の会話を聞いていたとしたらどう思っただろう、と考えると腹の中が重たくなった。組の皆に対して、更に頑なになってはしまわないだろうか。それに、級友たちのことも心配だった。好奇心の赴くままに、妙なことをしなければ良いけれど。
右手に、三郎の体温を感じる。それで、雷蔵は少しだけほっとした。頭を木の幹に預けて、前を見やる。すると視線の先に、見知った人物を見付けた。
「……あ、八左ヱ門だ」
雷蔵はぽつりと呟いた。校庭の隅を、八左ヱ門が歩いてゆく。しかし様子がすこし変だった。彼は背中を丸めて、腹に手を当てつつ早足で校庭の奥へと向かっていた。腹でも痛いのかと思ったが、厠は全くの逆方向だ。
「どうしたんだろう……」
首を傾げると、三郎が繋いだ手を軽く揺すってこう言った。
「後をつけてみる?」
「えっ……、普通に声をかければ良いじゃない」
三郎の言葉に驚いて、雷蔵は彼の方を見た。鬼の面が、こちらを見返してくる。
「何処へ行くのと聞いて、教えてくれるように見えるかい? あれは明らかに、何か隠しごとをしている顔だ」
彼の言うことは、いちいちもっともだった。確かに今の八左ヱ門は、妙に落ち着きがない。時折周囲を伺いながら、訓練中の上級生の横を素早く通り過ぎる。
「でも……本当に、誰にも見られたくない深い事情があるのかもしれないし」
雷蔵は三郎のお面のことを思い、慎重に言った。すると三郎は、あはは、と楽しそうに笑い声をあげたのだった。
「おれは、あいつが何をこそこそしているか、大体分かるよ」
「えっ」
雷蔵はきょとんとして、三郎を見つめた。彼は続ける。
「雷蔵が心配しているようなことではないと思う」
「……本当に?」
「それを確かめるためにも、おれはあいつの後をつけるけど」
きみはどうする? と三郎は雷蔵に顔を寄せて囁いた。雷蔵は迷った。いつものように、行くべきか行かざるべきか、とぐるぐる頭を悩ませた。すると三郎は、雷蔵の手を引っ張って立ち上がった。
「悩むくらいなら進んだ方が良いよ、雷蔵」
文字通り鬼の形相をしている三郎だが、声は何処までもやさしかった。雷蔵は三郎につられて立ち上がり、気が付けば「うん」と返事をしていた。
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