■開花の音 10■


 八左ヱ門は過剰なまでに辺りを警戒していたので、彼に気付かれず尾行するのは難しそうに見えた。しかし、三郎は全く物怖じしなかった。雷蔵の手を引き、巧みに物陰に身を隠しながら八左ヱ門の後をついてゆく。その判断は絶妙で、感心するあまり雷蔵は先程いやな思いをしたことなど全部忘れてしまった。

 三郎は、体重を感じさせない動作で足を運ぶ。雷蔵は、物音を立てないよう必死で彼の後に続いた。授業以外で尾行をするなんて初めてのことで、緊張で胸がどきどきした。それにやはり、友達の秘密を暴いてしまうかもしれないという罪悪感もあった。相変わらず背筋を丸めて校庭を奥へ奥へと進んでゆく八左ヱ門の表情は、いつになく真剣だ。

「良いのかなあ……」

 不安になってごくごく小さな声で呟くと、「大丈夫だよ」と三郎から軽い返事が返ってきた。まるで、何もかも分かっているような口調だった。

 やがて八左ヱ門は、校庭の一番奥に辿り着いた。そこに古い倉庫が建っている。傾きかけていて、今は使われていない用具倉庫だ。瓦はところどころ落ち、外壁には深い罅が目立つ不気味な建物である。危ないし気味が悪いので、生徒たちは滅多なことではこの倉庫の周りには寄りつかなかい。夜には幽霊が出る、なんて噂まであった。こんなところに、八左ヱ門は一体何の用があると言うのだろう。

  三郎とふたりで茂みの中に隠れ、そっと彼の様子を窺った。八左ヱ門は左右を何度も確認し、ぴゃっと倉庫の裏に消えた。

「行ってみよう、雷蔵」

 雷蔵たちは静かに倉庫に近付いた。八左ヱ門の声が聞こえる。何と言っているかは判然としないが、どうやら彼の他にも誰か居るようだった。雷蔵は無意識の内に、三郎と繋いだ手に力を込めていた。

「誰と一緒にいるんだろう」

 三郎の耳に顔を近づけて囁くと、「もっと近付いてご覧よ」と返って来る。雷蔵は眉を寄せた。

「でも、見つかっちゃうよ」

「大丈夫だよ」

 当たり前のように言う三郎が何だかとても頼もしく思え、雷蔵はひとつ頷いて倉庫の壁にぴったりを身体を寄せ、その向こうを覗き込んでみた。

 こちらに背を向けて、地面に腰を下ろしている八左ヱ門の後ろ姿がまず目に入った。側に、誰かがいるようには見えない。あれっ、じゃあさっき聞いた八左ヱ門の声は何だったのだろう、と思っていると、彼の腕の中から白い毛玉のようなものが顔を出した。ふわふわの毛玉には、よく見ると尻尾があった。

「子犬っ?」

 つい、雷蔵の口から大きな声が出た。八左ヱ門の背中がびくりと震える。しまった、と思ったときには遅い。身を隠す暇もなく、八左ヱ門はこちらを振り返ってしまった。

「あっ、雷蔵! それに、三郎も!」

 目を見開いて、八左ヱ門は驚き声をあげる。その拍子に、黒い子犬が二匹、八左ヱ門の膝から転げ落ちる。彼は慌てて、子犬を両腕で掬い上げた。

「お前たち、何でここに……もしかして後をつけて来たのか?」

「ごっ、ごめん、八左ヱ門、あの……」

 急いで謝ろうとしたら、雷蔵の言葉が終わらない内に、

「見られたからには仕方ないや。こっち来いよ」

 と言って、八左ヱ門は笑顔になった。てっきり怒らせてしまったと思った雷蔵は、面食らって口を開けた。しかし彼は朗らかに手招きをしている。思わず後ろに立っている三郎を見たら、促すように肩を押された。雷蔵は八左ヱ門の側に歩み寄った。

 八左ヱ門は、たくさんの子犬たちと一緒にいた。彼の手の中に二匹、膝の上に三匹、足元に三匹。全部で八匹だ。黒と白、それにまだら模様のものがいる。子犬たちは皆丸っこく、近くで見ても毛玉のようだった。

「こんなに沢山……八左ヱ門が拾って来たの?」

「うん、まあ」

 八左ヱ門は口元をもぞもぞさせ、歯切れの悪い口調で言った。雷蔵はそれが少し気になったが、それよりも先に確かめたいことがあった。

「三郎は、八左ヱ門が子犬を拾って来ていたって分かってた?」

 雷蔵は、三郎に尋ねた。三郎はお面を撫で、首を傾けた。

「犬ってことまでは分からなかったけど、動物を拾ってこっそり世話をしているんだろうな、とは思ったよ」

 その答えに、雷蔵が何か言うよりも早く八左ヱ門が「えっ!」と大きな声をあげて腰を浮かせた。

「え、何で? 何で分かったんだよ、三郎」

「お前が、食堂から出て来るのを見たから」

 雷蔵と八左ヱ門は、ぽかんと口を開けた。校舎を出てから雷蔵は三郎とずっと一緒にいたのに、八左ヱ門が食堂から出て来るところなんて全く気が付いていなかった。

「装束が膨らんでたから、食い物を持ち出したんだな、ってすぐ分かった。じゃあ、動物にやるのかなって」

「何で、動物にやるって思ったんだよ」

「だってお前、動物好きだろ」

「え、あ……うん。まあ」

 八左ヱ門は、虚を突かれたように目を大きく開いた。どうしてそれをお前が知っているんだ、というような顔だ。雷蔵も、彼と同じような気持ちだった。確かに八左ヱ門は動物が好きで、しょっちゅう虫や動物の話をしている。三郎は周りのことには全く興味がなさそうに見えるけれど、ちゃんとそういうところも見ているんだと雷蔵は感心した。それと、組の皆に対して無関心ではなかったことに安堵する。

「ね、雷蔵。きみが心配するようなことじゃなかっただろう」

 三郎の言葉に、雷蔵は自然と笑顔になった。それから、八左ヱ門と子犬たちの方に顔を向ける。

「それで、八左ヱ門。食堂から何を持って来たの?」

「あ、そうだった。こいつらに飯をやらないと」

八左ヱ門は懐の中から、白菜の芯や人参のへたを次々に取り出した。きゃうきゃうと愛らしく合唱する子犬たちに、それらを順番に与えてゆく。

「本当は肉が欲しかったけど、こんなのしか見つからなくてさ」

 八左ヱ門は、ため息混じりに言った。「おばちゃん、怖いもんね……」と、雷蔵も息を吐く。

「……この子たち、何処で見付けたの?」

「ついこないだ、裏山で。母犬も一緒に居たけど、死んじまってた」

 そのときのことを思い出したのか、話しながら八左ヱ門は目を潤ませた。雷蔵もその光景を想像してしまって、口をぎゅっと結んだ。

「それで、母犬のお墓を作ってやって、ちびたちをこっそり連れて帰ってきたんだ。母ちゃんがいなかったら、こいつら自分では餌を取って来られないからな」

「そっかあ……」

 雷蔵は、しみじみと頷いた。生き物が大好きな八左ヱ門らしい。八左ヱ門は子犬の首筋をくすぐり、こう言った。

「誰にも見つからないように、って思ってたんだけど、早速お前らにばれちゃったなあ……」

「だけど、八左ヱ門は生物委員だよね。委員会で飼っちゃ駄目なの?」

 雷蔵は不思議に思ってそう尋ねた。すると八左ヱ門は眉を下げ、肩を落として悩ましげな息を吐き出した。その息が顔にかかったのか、黒い子犬が目を細めて首を振る。

「それがさ、駄目なんだよ。おれ、先月も二匹犬を拾って来たんだけど、それで小屋がいっぱいになっちまって。予算のこともあるから、もう拾って来るなって木下先生に言われてるんだ」

 悔しそうに言う八左ヱ門に、雷蔵は生物委員も大変なんだな……と思った。

「八左ヱ門、ぼくに出来ることがあったら言ってね」

 そう申し出ると、八左ヱ門は照れたように笑って「うん、ありがとうな!」と言った。その笑顔を見て、雷蔵も嬉しくなった。

「じゃあ、とりあえず……こいつらのことは、誰にも言わないでくれよ。秘密だからな」

「うん、言わないよ」

 雷蔵はしっかり頷いた。友達のやることには協力したいし、何よりも秘密という甘美な響きに胸がときめいた。

「三郎も、誰にも言わないよね?」

 雷蔵は隣の三郎に確認した。彼は、小さな声で返事をする。

「……雷蔵がそう言うなら、良いよ」

「よし! じゃあ、指切りだ」

 八左ヱ門はそう言って、小指を立てて差し出して来た。雷蔵はすぐに、その指に自分の小指をからませた。八左ヱ門は、黙って座っている三郎に焦れたようにこう言った。

「ほら、三郎も。これは三人の秘密なんだから」

 その言葉を受けて、三郎はしばし沈黙したまま動かなかった。雷蔵には、彼が戸惑っているように見えた。鬼のお面が、こちらに向けられる。雷蔵は笑みと共に、頷きを返した。

  三郎は少しの間ののち、八左ヱ門の小指に自身の小指を絡ませた。それを見て、雷蔵は頬を熱くした。言葉に出来ない喜びが胸をつきあげる。ちょっとした奇跡を見ているようだった。あの三郎が、ろ組の仲間と指切りをする。秘密を共有する。入学したての頃には、考えられなかったことだ。

「ゆーびきりげんまん、嘘ついたら棒手裏剣千本のーますっ」

「針じゃなくて?」

 雷蔵がつい横槍を入れると、八左ヱ門は屈託のない笑みを見せた。

「だっておれたちは、忍者のたまごだもん。だから、嘘ついたら棒手裏剣千本のーますっ、指切った!」

 三人は指を離した。雷蔵は先程までふたりと繋がっていた小指を見つめ、へへっと笑った。