■開花の音 11■
それから雷蔵は八左ヱ門とぐっと親しくなった。今までも、ちょくちょく話をしたり食堂で一緒になったりしていたけれど、秘密が出来たことで仲がより深まったような気がする。
しかし雷蔵はあれから、一度もあの秘密の場所には行っていない。本当は、毎日でも子犬に会いに行きたかったのだが、三郎に「複数で連れ立って行けば、それだけ誰かに見付かりやすくなるよ」と言われ、もっともだと思ったので必死に我慢していたのだった。何よりも、三人の秘密が大事だ。秘密が露呈してしまっては、何にもならない。
そして、雷蔵と八左ヱ門は仲良しになったけれど、三郎と八左ヱ門は、どうにもまだぎこちなかった。八左ヱ門は三郎のことを特に怖がっている様子もないし、普通に接していると思うのだが、三郎がまったく八左ヱ門に心を許していないようで雷蔵は少し切なかった。
「ねえ三郎。八左ヱ門とも仲良くしようよ」
一度、そう言ってみたことがある。床の準備をしていたときだ。眠るときもお面を外さない友人からの返答は、「何で?」だった。
「だって、友達は沢山いた方が楽しいでしょう」
「忍者に友達とか、あんまり意味無いと思う」
ほとんど間髪を入れずに、そんな言葉が返って来た。こんな風に冷たく突き放されるのは久し振りのことで、雷蔵は一瞬声を失ってしまった。
彼の言葉を噛み締めると、じわじわと苦みが染み出してくる。忍者に友達なんて意味が無い。確かにそれも、一理あるかもれない。だけどそうなると彼は、雷蔵のことも意味が無いと思っているのだろうか。そう考えると、息が詰まりそうだった。
「……雷蔵は別だよ」
こちらの不安を見透かしたように、三郎はそう言って雷蔵の両手をぎゅっと握り締めた。雷蔵は、目を瞬かせた。瞼が随分と熱くなっていた。そこで初めて、自分が泣きそうだったことに気が付く。もしかして、それが顔に出ていたのだろうか。雷蔵は少しきまりが悪くなって、視線を横にずらした。
「……本当に?」
「うん。雷蔵だけは特別。きみはおれの友達だよ」
三郎の口から、友達、という単語を聞くのは初めてだった。雷蔵は思わず息を呑んだ。色んな感情が次々とわき出てきて、どんな顔をすれば良いか分からない。
雷蔵だけは特別。なんて甘やかで心地よい響きだろう。嬉しい。三郎からの信頼が、この上なく嬉しい。しかし同時に複雑でもあった。自分だけが特別なのでなく、他の皆とも仲良くして欲しい。折角、竹左ヱ門と親しくなれる機会が出来たのに、これを逃してしまうのは勿体なさ過ぎる。どうにか、どうにか出来ないだろうか。雷蔵は必死で考えた。しかしそれは、幼い彼には途方もない難題であった。
ある日の早朝、外から大きな声が聞こえて、雷蔵は目を覚ました。
今のは何だろう、と欠伸をしながら身体を起こすと、三郎は既に起きていて、薄く開いた障子から外を覗いていた。
「三郎、今のは何……?」
雷蔵は目をこすり、もう一度欠伸をした。
「さあ、何だろうね」
三郎の返事と同時にまた、何処からか大声が聞こえて来た。甲高い、悲鳴のようだった。
「……何かあったの?」
雷蔵は布団から抜け出し、三郎の横に立って障子を大きく開け放った。随分と天気が悪く、灰色の雲が重そうに垂れ下がっている。夜の間に雨が降ったらしく、地面がびっしょりと濡れ、あちこちに水たまりが出来ていた。それが陽の光に反射してまばゆくきらめいている。
雷蔵は首を巡らせてみた。隣の部屋、更にその隣の部屋の生徒たちも、戸口から顔を出して様子を窺っている。
「ねえ、今の、何?」
級友に声をかけてみると、こんな答えが返ってきた。
「分かんない。でも、八左ヱ門の部屋からみたい」
「八左ヱ門の?」
雷蔵は、眉をひそめた。なんとなく、嫌な予感がする。
「三郎。ぼく、八左ヱ門の部屋に行って来る」
部屋の中にいた三郎に声をかけると、彼も黙って後をついてきた。 早足で、八左ヱ門の部屋に向かう。一歩進むごとに、心臓の音が早くなる。廊下を進んでいる間も、甲高い声は断続的に聞こえていた。これはもしかして、八左ヱ門の声だろうか。雷蔵は、ごくりと唾を呑み込んだ。
八左ヱ門の部屋の前は、ひとだかりが出来ていた。これだけ人がいたら、室内の様子を窺うのは難しそうだ。おそるおそる人の塊に近付いて、「八左ヱ門、どうかしたの……?」と、近くにいた生徒に尋ねてみる。
「何か、こっそり犬を拾ってきてたんだって」
級友の言葉に、雷蔵は「えっ」と大きな声で言い、目を大きく見開いた。雷蔵の動揺には気付かず、級友は続ける。
「それで、木下先生に叱られてるんだよ」
雷蔵は愕然として、口を開けた。三人だけの秘密だったのに、どうして先生に見つかってしまったんだろう。雷蔵は辛抱出来なくなり、人垣を半ば無理矢理かきわけて、戸の前に身体を押し込んだ。すると、薄く開かれた障子の隙間から、八左ヱ門の泣き声が聞こえてきた。
「いやだあああっ!」
ひび割れた八左ヱ門の悲鳴と同時に、きゃん、という犬の鳴き声が響く。雷蔵は口を引き結んで、部屋の中を覗き込んだ。
子犬たちを抱えて泣きじゃくる八左ヱ門と、木下先生の大きな背中が見えた。約半月ぶりに見る子犬たちは、少し大きくなって、肉付きもよくなっているような気がする。だけど、どうして子犬たちがここにいるのだろう……と考えかけたが、答えはすぐに見つかった。雨だ。昨夜の雨で子犬たちが濡れてしまうのを防ぐために、部屋に連れて来ていたのだろう。
「だからっ! 人の話を聞かんか!」
木下先生の怒号に、障子がびりびりと震えた。雷蔵は反射的に、ぎゅっと目を瞑った。木下先生は、本当に怖い。八左ヱ門の泣き声が大きくなる。子犬の鳴き声も高くなった。
「こいつらを捨てるなんて、嫌だあ!」
ああやっぱり、捨ててこいと言われてしまったのか。
雷蔵は、力を込めて障子の縁を握り締めた。こっそりと、子犬の様子を聞かせてくれる八左ヱ門の嬉しそうな表情を思い出すと、たまらない気持ちになる。
「見つかったんだ、あいつ」
すぐ側で、小さな声がした。三郎だった。
「あの子たち、捨てられちゃうのかな」
雷蔵も小声で言うと、三郎は「さあ」と無感動な口調で言って首を横に傾けた。
そのとき、木下先生が更に声を張り上げた。
「捨てるとは言ってないだろう! 二匹は生物委員で育てて、残りはくのいち教室に引き取ってもらうんだと、何回言ったら分かるんだ!」
意外な言葉に、雷蔵は目をぱちぱちさせた。捨ててこい、と言われたわけではなかったらしい。木下先生も結構優しいんだ、と認識を改める。しかし八左ヱ門は、涙を散らしながら激しく首を横に振る。
「嫌だあ! だって、おれが拾ったんだもん! 全員、おれが最後まで面倒見る!」
なんて八左ヱ門らしい物言いだろう、と雷蔵は唇を噛み締めた。八左ヱ門は、腕の中の犬たちに額をこすりつけるようにして涙を流している。木下先生は頭巾の上から頭を掻き、大きく息を吐き出した。どうやって説得しよう、と考えているようだった。そのときである。
「あっ!」
木下先生と、八左ヱ門の声が重なった。八左ヱ門の腕の中から子犬が二匹飛び出し、部屋の外に向かって走り出したのだ。
「おい、そいつらをつかまえてくれ!」
木下先生は、廊下に群がる生徒たちに声をかけた。雷蔵は、びくりと身体を震わせた。子犬たちは、雷蔵と三郎が立っている方に真っ直ぐ走って来る。雷蔵はあわてて、身を屈めた。
「あ、わ、うわ、わっ」
あたふたと両手で子犬を抱える。その隣で、三郎がもう一匹の子犬をすいと片手で掬い上げた。雷蔵は、手の中の子犬を見下ろした。真っ白な子犬だ。身体も耳も尻尾も、全てが白で、目と鼻だけが黒かった。犬は走り回りたいようで、尻尾を振りつつ身をよじった。その柔らかさとあたたかさ、愛らしさに雷蔵は胸がぐっとなった。自分が全部最後まで面倒を見る、と頑なに言い張る八左ヱ門の気持ちがよく分かる。
ふと、雷蔵は横を見た。黒い犬を手の上にのせた三郎が、空いている方の手を犬に向かって差し伸べるところだった。三郎の白い手が、子犬の首元に近付いてゆく。そのとき何故か、雷蔵の身体に悪寒が走った。
「駄目だよ三郎!」
言い様のない恐ろしさに突き動かされて、気が付けば雷蔵は叫んでいた。それとほぼ同時に、三郎は子犬の首筋を軽く掻くようにして撫でた。黒犬は嬉しそうに、きゃん、と高い声で鳴く。雷蔵は、はっとした。身体が一気に冷える。三郎の顔が、こちらを向いた。
「雷蔵、何が?」
その問いに、雷蔵は答えられなかった。答えられるはずがなかった。雷蔵はぶんぶんと首を横に振り、三郎から逃げるように手の中の子犬に視線を落とした。黒い、大きな目が視界に飛び込んでくる。心臓がばくばくと鳴り響いた。
一瞬、首をひねるのかと思った。
だなんて、何があっても言えるはずがなかった。三郎は、ただ犬に触れようとしただけなのに。何でそんなことを思ったのか、自分でも全く分からなかった。
耳の奥で、八左ヱ門の泣き声と、説得しようとする木下先生の大声と、自分の心臓の音とが混じり合って、雷蔵は頭が痛くなった。
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