■開花の音 12■


 木下先生は雷蔵と三郎の手から子犬たちを取り上げると、部屋の前に集まっていた生徒たちに授業の準備をするように言いつけた。八左ヱ門はまだ泣いている。雷蔵は彼と子犬たちのことが気になったが、それ以上に先程の自分の思考が信じられなくて、おとなしく先生の言葉に従った。

 朝の支度をしている間もずっと、雷蔵は自己嫌悪に押し潰されそうだった。三郎と友達になったつもりでいたけれど、心の底では彼のことを信用していなかったなんて、最低だ。三郎は、雷蔵だけは特別と言ってくれたのに、そんな彼が子犬の首をひねるのかと思っただなんて。しかし実際は、三郎は犬を撫でただけだった。それなのに、それなのに、あああ。

 ふたり並んで教室に向かうときも、教室についてからも、雷蔵は気まずくて三郎の方を見ることが出来なかった。彼は、雷蔵が抱いてしまった嫌な心も全部分かっているんじゃないか、という気がしてならなかった。それで、雷蔵に幻滅してしまったかもしれない。

 授業が始まる直前になって、八左ヱ門が教室に入って来た。級友たちが、ざわつく。八左ヱ門の目と瞼は真っ赤に腫れていて、憔悴しきっているようだった。いつもの快活さは何処にも見当たらない。雷蔵はそんな彼を見て、胸が痛くなった。

 八左ヱ門は濡れた目を乱暴にこすり、きっとした表情になった。それから、まっすぐ雷蔵たちの席に向かって歩いてくる。どう言葉をかけようか迷う雷蔵をよそに、彼は三郎の前で立ち止まり両手で机をばん、と叩いた。

「三郎! 犬のこと、お前が先生に言ったんだろう!」

 その言葉に、雷蔵は息を呑んだ。八左ヱ門の目は真剣であった。本気で、三郎が先生に密告したと疑っているのである。雷蔵は戸惑い、八左ヱ門と三郎を交互に見やった。八左ヱ門は、怒り心頭といった様子で三郎を睨みつけている。一方、三郎は今日もお面をかぶっているので、表情はおろか、八左ヱ門のことをきちんと見ているかどうかも定かではなかった。

「何か言えよ」

 苛立ちを露わにして、八左ヱ門が三郎を促す。教室の中がざわめいた。

 普段は朗らかな友人の怒りに気圧されながら、雷蔵はぎこちなく口を開いた。

「ま、待ってよ八左ヱ門。どうして三郎が、先生に告げ口したと思ったの?」

「だって、犬のことはおれと雷蔵、それに三郎しか知らないじゃん」

「それだったら、ぼくも……」

 ぼくも同じじゃない、と言おうとしたら、八左ヱ門は物凄い形相をこちらに向けてきた。いつもにこやかな彼からは一切想像出来ない剣幕に、雷蔵はすくみ上がった。

「何だと、それじゃあ雷蔵が言ったのかよ!」

「い、言ってない! 言ってないよ!」

 雷蔵は悲鳴じみた声をあげ、必死になって否定した。すると彼は「それなら良いんだ」と深く頷き、それ以上は雷蔵を追求しなかった。信じて貰えたようなので、雷蔵はほっと息を吐き出した。そして、三郎の横顔を見る。八左ヱ門はこうやって、言ってないとひとこと言えばすぐに信じてくれるのに、どうして彼は何も言わないんだろう。

「三郎……」

 ちゃんと否定しなよ、という気持ちを込めて三郎の袖を軽く引っ張ったら、三郎は「何、雷蔵」とこちらを見た。そこに、八左ヱ門のひび割れた大声がかぶさってくる。

「三郎、告げ口したのかどうなのか、はっきりしろよ!」

 それでも尚、三郎が無言でいるので、たまらずに雷蔵は立ち上がった。

「さ、三郎は言ってないよ!」

 勇気を振り絞り、雷蔵は言った。八左ヱ門は驚いたように目を見開いた。しかしすぐに、怒りの表情に戻る。

「今、雷蔵とは話をしていないだろ!」

 八左ヱ門は怒鳴り、雷蔵の肩をどんと突いた。雷蔵の身体がふらつく。こんなに激しく怒る八左ヱ門を見たことがなかったので、雷蔵はどうすれば良いか分からなかった。彼は酷く気が立っているようだし、これ以上刺激するのはまずい気もする。

  しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。三郎は何も言わないが、彼が告げ口をしたのではないと雷蔵は信じていた。だって指切りをして約束したのだ。先程三郎のことを誤解してしまった負い目もあり、絶対に彼の潔白を主張しなければと思った。

「でも……でも、三郎じゃないよ!」

 雷蔵は、力いっぱい声を張り上げた。八左ヱ門が信じてくれるまで、何度も同じことを繰り返すつもりでいた。しかしその態度が八左ヱ門の癪に障ったようで、彼は雷蔵の方に顔を向け、きつい口調でこう言った。

「雷蔵は黙ってろよ!」

 そして八左ヱ門は手を振り上げ、雷蔵の頬をぴしゃりと張った。目の前で一瞬、閃光が弾ける。叩かれた部分瞬く間にが熱くなり、じんじんと痛んだ。

  直後、雷蔵の両目から、自動的に涙が溢れ出した。痛かったのと怒る八左ヱ門が怖かったということもあるけれど、それ以上に、理解してもらえないことが悲しかった。絶対に、三郎は告げ口なんてしていないのに。

 すると視界の端で、三郎が立ち上がるのが見えた。はっとして、雷蔵は叫ぶ。

「駄目だよ三郎!」

 今度は、雷蔵の直感は当たった。彼が言うのとほぼ同時に、目にも留まらぬ速さで三郎の手が八左ヱ門のこめかみのあたりを打っていた。ばしっ、という鋭い音が教室内に響き、思わず雷蔵は肩を震わせて目を瞑った。

「三郎!」

 雷蔵が彼に向かって手を伸ばすよりも早く、三郎は身軽な動作で机を飛び越えていた。そして、先程の一撃でよろめく八左ヱ門に掴みかかる。

「うわあっ!」

 八左ヱ門が悲鳴をあげ、三郎ともつれるようにして床に倒れ込んだ。三郎がすぐさま八左ヱ門を押さえつけ、馬乗りの体勢になる。八左ヱ門の顔が瞬く間に青くなった。三郎は構わず、腕を高く振り上げる。

「三郎、待っ……」

 雷蔵は三郎を止めようとしたが、机の縁に足を引っ掛けて転んでしまった。級友たちは突然のことに唖然としていたが、再び、ばしっと三郎が八左ヱ門を打つ音が響いて、皆は慌てて三郎たちに駆け寄った。

 教室内は、瞬く間に大騒ぎとなった。三郎に一方的に打たれて、八左ヱ門が泣き声をあげる。級友たちは三郎を引きはがそうとするが、ことごとく、乱暴に突き飛ばされてしまうのだった。三郎に振り払われた者が別の生徒にぶつかって、それが新たな争いの種となる。そこかしこで喧嘩が勃発し、手の着けられない騒動に発展してしまった。教室のあちらこちらで、怒号と悲鳴が上がる。

 輪の中に入れなかった雷蔵は、呆然として目の前で繰り広げられる光景を見ていることしか出来なかった。