■開花の音 13■


「う……っ、うう、うっ、えっ、うっ」

 教室の床にうずくまり、雷蔵は泣き続けていた。

  あれから担任の先生と、応援の先生が数人やってきてどうにか騒ぎは鎮まった。八左ヱ門をはじめとするほとんどの生徒は、医務室で擦り傷やたんこぶの手当てを受けていて、先生はその引率で不在であった。怪我をしていない生徒たちは、三郎たちと距離を置き、気まずそうに引っ繰り返った机や散らばった教本の後片付けをしていた。

「……雷蔵、もう泣くなよ」

 三郎が、やさしく雷蔵の背を撫でる。雷蔵は、震えながら首を横に振った。

「だって、だって……っ」

 そこまで言って、再び嗚咽が喉元から溢れ出した。早くこの涙を止めてしまいたいのに、自分の意思ではどうにもならなかった。色々なことが悲しくて、そして、悔やまれてならなかった。

 三郎は、八左ヱ門を何度も打った。明らかに三郎の方が強いのに、八左ヱ門を動けないように押さえつけて、彼が泣いても止めなかった。以前、三郎は気まぐれに他人に暴力を振るうことがあったけれど、ここまでの酷い仕打ちは一度もなかった。そのため、雷蔵の衝撃は大きかった。

「三郎、三郎は、告げ口なんてしていないよね?」

 はたはたと涙をこぼしながら、雷蔵は三郎の装束にしがみついた。彼はこちらを見下ろし、無機質な視線を寄越す。

「していないよ。雷蔵が秘密だと言ったもの」

 ややあって、静かな声が降ってきた。ほっとすると同時に解せなかった。その言葉を、雷蔵は八左ヱ門の前で聞きたかった。

「それならどうして、何も言わなかったの?」

「だって、証拠がない」

 軽い口調で言って、三郎は肩をすくめる。証拠、と雷蔵は口の中で小さく呟いた。涙に溺れそうな頭を必死で動かして、三郎は、彼が密告したのでないという証拠を示すことが出来ないから弁明しなかったのだ、ということをゆっくりと理解する。硬いお面の向こうで、この友人はそんなことを考えていたのか、と思った。

「証拠がなくたって……。告げ口していない、とひとこと言えば八左ヱ門は信じてくれるのに」

 雷蔵は、三郎の腕をつかんで揺すった。三郎はその手をやんわりと外し、懐から手ぬぐいを取り出して雷蔵に手渡した。その優しさにまた泣いてしまいそうになって、雷蔵は慌てて三郎の手ぬぐいで目元を押さえた。瞬く間に、布に涙が染みこんでゆく。

 そう、三郎は優しい。こうやって手ぬぐいを貸してくれるし、もう泣くなと慰めてくれる。犬のことは秘密だという約束も、きちんと守った。それなのに、どうしてこんなことになってしまうのだろう。

「……それに何で、八左ヱ門を打ったりしたの」

「きみを打ったから」

 三郎は、当然のことのように答えた。

「だからって」

「それに、きみは仕返しをしなかった」

「仕返しなんて何の意味もないよ。騒ぎが大きくなるだけじゃないか」

「でも、あいつはきみを泣かせたよ」

「そんなこと……ぼくは、お前が疑われる方がずっと嫌だ」

「じゃあ雷蔵は、おれに、あいつがきみを殴るのを黙って見ていろと言うの」

「そうじゃなくて、ぼくは……」

 話している内に、雷蔵は頭痛を覚えた。こめかみの辺りが、きりきりと痛む。この感覚は久し振りだった。この頃は三郎とも上手くいくようになって、話が通じないともどかしい思いをすることもなくなっていたのに。何だか、最初に逆戻りしてしまったような感じがした。

  そして、こういうとき絶対に口で勝てない自分が歯がゆかった。どうしても、三郎のように素早く物事を考えることが出来ない。更に、震え続ける胸と嗚咽が雷蔵の邪魔をする。

「それに、雷蔵が後味の悪い思いをしないように、手加減もした」

「手加減? あれで?」

「拳でなく、平手で打ったもの。拳だったらきっと、今頃あいつの歯は全部なくなっているよ」

 別におれはそれでも良かったけど、と小さく付け加えるのを聞いて、雷蔵はぞっとした。胸の中が、みるみる冷えてゆく。世間話でもするように、恐ろしいことを言ってのける三郎。級友を容赦無く打った同じ手で、雷蔵の背を優しく撫でる三郎。彼が子犬に手を伸ばしたとき雷蔵が感じた悪寒は、半分は当たっていたのかもしれない。

 雷蔵が手ぬぐいを握り締めて呆然としていると、教室の戸が開かれた。次いで、木下先生が中に入って来る。雷蔵は背筋を伸ばして、戸の方を見た。木下先生は雷蔵たちに視線をやり、ひとつ溜め息をついた。それから、こう続ける。

「三郎、雷蔵。職員室まで来なさい」

 雷蔵は、唾を呑み込んだ。いよいよ来た、と思った。これから沢山怒鳴られて、説教されるのだ。拳骨をもらうのかもしれない。こんな騒ぎを起こしたのだから怒られる覚悟はとうに出来ていたけれど、それでも怖いものは怖かった。

 憂鬱な気分になる雷蔵をよそに、三郎が立ち上がってさっさと歩き出した。雷蔵は慌てて彼の後を追った。








 職員室の中には、頬を腫らした八左ヱ門がいた。ちょこんと正座をし、濡らした布で三郎に打たれた顔を冷やしている。顔全体が真っ赤になっているし口の端が切れているのも見えて、雷蔵はいたたまれない心持ちになった。

  雷蔵たちが中に入ると、八左ヱ門は一瞬はっとした表情になり、それから唇を尖らせてそっぽを向いた。雷蔵は胸が痛くて堪らなかったが、先生に促されたので八左ヱ門の隣に腰を下ろした。三郎も、雷蔵の反対側の隣に座る。

  木下先生は雷蔵たちの正面に座し、面をかぶった三郎、緊張した面持ちの雷蔵、ふて腐れた表情の八左ヱ門を順に見やり、それからもう一度三郎に視線を戻して大きく息を吐き出した。

「……よくもまあ、こうも次から次へと騒ぎを起こせるものだ」

 呆れたふうの先生の言葉は恐らく三郎に向けて放たれたものだったのだろうが、何故か雷蔵がむしょうに恥ずかしくなった。

「ろ組の連中に話を聞いたが、まず、八左ヱ門が雷蔵を引っぱたいたって?」

 木下先生が、ゆっくりと言った。真っ先に八左ヱ門が腰を浮かせ、口を開く。

「でも先生、それは!」

 しかし先生は、「言い訳は聞かん」と、彼の言をぴしゃりと封じた。八左ヱ門はもどかしそうに口を数回開け閉めしたが、結局黙って座り直した。木下先生に反論出来る生徒なんて、この学園にはほとんどいない。

「そうなんだな、八左ヱ門」

「……はい」

 不承不承というふうに、八左ヱ門は頷いた。それに木下先生は頷きを返し、今度は三郎の方に顔を向けた。

「で、それを見て、三郎が八左ヱ門に殴りかかった、と。そうだな、三郎」

「はい」

 三郎は、すぐに返事をした。雷蔵は、更に胸が痛くなった。

「原因は、八左ヱ門がこっそり犬を拾っていたことを、三郎がわたしに言いつけたんじゃないかという疑いだったな」

 誰も、それには返事をしなかった。元々、木下先生の言いつけを破ったのは八左ヱ門なので、彼も、何も言うことが出来ない。三人は、まちまちの方向を見つめ黙り込んだ。すると木下先生はもう一度、深い溜め息をついた。

「わたしは、誰からも犬のことなど聞いていない」

 木下先生は、はっきりとそう言った。八左ヱ門が、驚愕の表情で「えっ?」と声をあげる。雷蔵も驚いた。それでは一体どうして、木下先生は犬のことを知ったのだろう。それを聞こうか聞くまいか迷っていたら、先生の方から教えてくれた。

「昨夜、巡回でお前の部屋の前を通ったときに、けものの匂いがした」

 八左ヱ門の肩が、ぴくりと反応した。彼は口を開けた格好のまま、唖然として木下先生を見つめていた。

「それで、朝になってからお前の部屋を調べた……ということだ。分かったか? 八左ヱ門。わたしが、お前の犬のにおいを嗅ぎ当てたんだ」

 においで分かるんだ、と雷蔵は純粋に感動してしまった。しかし、八左ヱ門はそれどころではないようだった。真っ白な顔で、唇を噛み締めている。顔を冷やすのも忘れているようで、手ぬぐいをきつく握った手は、膝の上で小さく震えていた。

「八左ヱ門……」

 しぜん、口から呟きが漏れる。雷蔵は、彼の気持ちがよく分かった。八左ヱ門は優しくて正義感の強い男だ。だからこそ、三郎が密告したのだ思ってその行為に憤っていたわけである。しかしそれは誤りであったと、先生の口からじかに証明されてしまった。彼の衝撃は計り知れない。今その胸中には、様々な思いがぐるぐると渦巻いているはずだ。

 雷蔵は、そっと三郎の様子を窺った。彼はいつもどおり、何処を見ているのか何を思っているのか、全く分からなかった。

「だから、三郎が密告をしたというのは、お前の勘違いと思い込みだ」

 木下先生の言葉に、八左ヱ門の背筋が大きく震えた。

「良いか、八左ヱ門。確かに忍者は何事も疑ってかからなければならないが、根拠のない思い込みはいかん。それは眼を曇らせ、場合によっては命を落としかねんのだぞ。それに……」

 先生はお説教を始めようとしたが、八左ヱ門が全くの上の空だということに気が付いたのか、途中で言葉を切った。それから、手を伸ばし、大きな手で八左ヱ門の肩を軽く叩く。

「だから、ほら、この場で雷蔵と三郎に謝って、仲直りしてしまいなさい」

 もう一度、八左ヱ門の背筋が震えた。しばらく彼は黙っていたが、やがて重たそうに頭を持ち上げ、雷蔵たちの方を見た。あまりにその様相が痛々しかったので、雷蔵は、もう謝らなくても良いよ、という気になった。

「あ……」

 か細い声が、八左ヱ門の口からこぼれ出す。彼は苦しそうに、浅い呼吸を繰り返していた。何度も口を開こうとするが、決心がつかないのか言葉が見つからないのか、結局黙り込んでしまう。

「お……おれ……、おれ……」

 そこまで言って、八左ヱ門はぎゅっと眼を閉じた。それから彼は、けもののような俊敏さで立ち上がった。そして先生が止める間もなくぴゃっと走り出し、部屋から出て行ってしまった。

「八左ヱ門!」

 雷蔵は声をあげたが、彼の足音はみるみる内に遠くなり、すぐに聞こえなくなった。