■開花の音 14■
「……誤解、とけたね」
職員室を出て、廊下をてくてく歩きながら雷蔵は言った。隣から、「そうだね」という無感動な返事が返ってくる。それと同時に、庭の木に留まったらしい蝉がけたたましく泣き始めた。
「お説教も、そんなにされなかったね」
声が蝉に負けてしまいそうだった。三郎は「そうだね」と、先程と同じ調子で言った。
八左ヱ門が部屋を飛び出して行ってから、雷蔵たちは二、三のお小言をもらっただけで、すぐに戻ることを許された。木下先生のお説教は物凄く怖いので、それを回避出来たことはとても嬉しいのだけれど、気持ちは全くすっきりしない。
「ねえ三郎……八左ヱ門のこと、まだ怒ってる……?」
恐る恐る尋ねてみる。すると三郎は、すぐに首を横に振った。
「ううん」
その一言に、雷蔵はほっとした。しかしそうなると、余計に八左ヱ門のことが気に掛かった。先程の様子から察するに、彼はこのことを酷く気に病んでいるはずである。早く解決して八左ヱ門に楽になって欲しい。そのために、八左ヱ門と話がしたかった。
彼を捜しにゆこうか、と思った。しかし、今は誰とも会いたくないだろうか、とも思う。だけど、随分と思い詰めているようだったし、様子を見に行った方が良い気もする。ああ、また答えが見つからない。
「雷蔵?」
三郎に声をかけられて、雷蔵は何時の間にか自分が立ち止まっていたことに気が付いた。じわじわと蝉が鳴く。雷蔵はその場でしばし悩んだが、やっぱり八左ヱ門を捜しにゆこう、という結論に達した。
「雷蔵」
身体の向きを変えると、三郎に呼び止められた。そしてそのまま、彼は雷蔵の手を取った。
「何処へゆくの?」
「八左ヱ門を探してくる」
三郎の面を見返し、言った。三郎は「何で?」と不思議そうに首を傾げた。
「だって、心配だもの」
だからちょっと行ってくる、と続けて雷蔵は三郎の手をほどこうとした。そうしたら、尚一層力を込めて手を握られた。痛いほどであった。雷蔵は、僅かに眉をしかめた。
「……やっぱり、八左ヱ門のこと怒ってるの……?」
雷蔵は不安になり、三郎に顔を近づけた。こうやって間近で彼を見れば、その奥の表情も見えないだろうかと思う。しかし、目に映るのは木目のうねりばかりで、彼がどんな顔をしているかはやはり分からなかった。
「……ううん」
三郎は、再度首を横に振った。それでも、手は離してくれない。雷蔵は、じれったい気持ちになった。
じゃあどうして行かせてくれないの、と言おうとしたら、三郎の手がするりと離れた。
「すぐに戻るから、先に教室に戻っていて」
そう言って軽く手を振り、雷蔵は走り出した。その瞬間、ひときわ大きな蝉の声が耳をついた。同時に、どうして三郎はなかなか手を離してくれなかったのだろうと考えたが、それよりも今は八左ヱ門のことだと思い、走ることに集中した。
校庭の一番奥で、膝を抱えてうずくまる八左ヱ門の姿を見付けた。古ぼけた倉庫の側、彼が子犬をこっそりと育てていた場所である。
「八左ヱ門!」
背後から声をかけると、小さな背中が震えた。そして、慌ててこちらを振り向く。
「らっ、雷蔵……!」
八左ヱ門は、驚いたように目を見開いた。予想どおりの場所に彼が居たので、雷蔵はほっとして大きく息を吐き出した。
「やっぱり、此処にいた」
微笑むと、八左ヱ門は微妙な顔になった。何かを迷っているような表情だ。自分も迷っているときはこんな微妙な表情をしているのだろうか、と雷蔵は思った。
雷蔵は、八左ヱ門の隣に腰を下ろした。彼はうつむいて、ああ、だの、うう、だの呻き声をあげていた。
「あの、雷蔵、あの、おれ、その」
そんな風に、八左ヱ門は何度も口を開こうとしては思いとどまり、やっぱり口を開き、というのを何度も繰り返した。雷蔵は何も言わずに、彼が言葉を発するのを辛抱強く待った。あの、その、をしばらく繰り返したのち、八左ヱ門はとうとうこう言った。
「あの、雷蔵、さっきはごめんな……!」
振り絞るような声であった。そのひとことを言うのに、彼がありったけの勇気を出したことがひしひしと伝わってきて、雷蔵は胸が熱くなった。
「うん。もう、気にしてないよ」
にっこり笑ってそう言うと、八左ヱ門の目が瞬く間に潤んだ。
「おれ、おれ、謝らなきゃって思ったのに、口が全然動かなくて、そんで」
「うんうん、そういうことってあるよ」
「ほんと、ごめん! 雷蔵も三郎も、約束を守ってくれたのに!」
「うん、分かってくれて嬉しいよ」
「ごめん、ごめんな」
「もう気にしてないったら」
八左ヱ門の手をぎゅっと握ってそう言うと、彼は唾を呑み込んで勢いよく鼻をすすった。それから、いつもの明るい、太陽のような笑顔になった。雷蔵は八左ヱ門の笑顔が好きなので、その顔が見られて嬉しくなった。しかしすぐに、彼は不安そうな表情に戻ってしまう。
「……三郎は、どうだろう」
八左ヱ門が肩をちぢめてそう言うので、雷蔵は彼を安心させるべく笑ってみせた。
「大丈夫だよ。三郎も、怒ってないって言ってたもの」
しかし、八左ヱ門の気色は晴れなかった。眉を寄せて、また泣き出しそうな顔になってしまう。
「言ってるだけで、本当は怒ってるかもしれない」
「そんなことないよ」
「だって、おれ、三郎にはまだ謝ってないし」
「それじゃあ、謝っちゃいなよ」
軽い口調でそう言うと、八左ヱ門は苦いものでも噛んだみたいに、口元をもぞもぞさせた。
「ぼくには謝れたじゃないか」
力づけるように、雷蔵は八左ヱ門の手をぶんぶんと振った。
「雷蔵と三郎とでは違うよ」
きっぱりと言われ、雷蔵は口をつぐんだ。八左ヱ門と三郎の間にある溝を伺い見た気分であった。八左ヱ門は、組の皆と違って三郎をあからさまに避けたりはしなかったし普通に喋ってはいたけれど、やっぱりそういう風に思っていたんだ、と少し切なくなった。
「……三郎のこと、怖い?」
ぽつりと尋ねると、「分かんねえ……」という答えが返ってきた。それから、
「分かんねえのが、怖いかも」
と、小さな声で付け加えられる。その気持ちは非常によく分かった。誰だって、分からないものは怖いに決まっている。雷蔵も最初は怖かった。それでも雷蔵は、八左ヱ門と三郎の間にある溝を、そのままにしてはいけないと強く感じた。
「ねえ、大丈夫だよ。あのね、本当に、三郎は良い奴なんだよ」
雷蔵は一生懸命言った。八左ヱ門は、「うん……」と力無く頷く。
「それに、八左ヱ門。謝るなら早い方が……。だってそうでないと、夏休みになってしまう」
「うん……」
「八左ヱ門が謝りたがってるって、ぼくが三郎に言おうか?」
そう言うと、八左ヱ門はぱっと顔を上げ、声を大きくした。
「駄目だよ、そんなの意味ねえじゃん。おれが、おれからきちんと謝らないと」
八左ヱ門は力強く言った。蝉の鳴き声よりも、うんと大きな声だった。それは実に彼らしい物言いで、雷蔵はとても嬉しくなった。
自分ではっきりと宣言したことで少なからず気持ちが落ち着いたのか、八左ヱ門は拳を握って頷いた。
「ありがとう、雷蔵。これはおれの問題だから、おれが何とかするよ」
彼は雷蔵の目を真っ直ぐ見て言った。もう、泣きそうな顔はしていなかった。雷蔵は、ほっとした。そして彼の言葉の頼もしさが羨ましくなった。自分も、こんな風にしっかりと決断を下して、決意表明が出来たら良いのに。
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