■開花の音 15■
八左ヱ門とともに、一年ろ組に戻った。雷蔵が教室の戸に手をかけると、八左ヱ門から「ちょっと待って」と声が掛かった。手を止めて、そちらを見やる。彼は数度深呼吸をし、自分の頬を両手で軽く叩いた。
「よし、いいぜ」
八左ヱ門は頷いた。三郎に謝る覚悟を決めたらしい。雷蔵は微笑み、教室の戸を引いた。これでふたりが仲直り出来ると思ったら、とても嬉しくなった。
まだ、半分くらいの生徒が戻ってきていなかった。先生もいない。雷蔵は、三郎の姿を探した。いた。自分の席に座っている。
「頑張れ、八左ヱ門」
小声で囁いて、八左ヱ門の背中を軽く叩く。
「おう」
彼はしっかりと返事をして、大股で三郎の元に歩み寄った。少し距離をあけて、彼に続く。何だか、雷蔵もどきどきしてきた。心の中で、頑張れ八左ヱ門、と何度も繰り返す。
「三郎」
とうとう八左ヱ門は、三郎に声をかけた。雷蔵は唾を呑み込む。ほんの少し間を開けてから、三郎はくるりとこちらを向いた。
「……何だよ」
果てしなく不機嫌な声であった。八左ヱ門が固まる。雷蔵も驚いてしまった。あれっ、さっきと全然違う。先程はもっと穏やかな調子だったし、もう怒っていないとも言っていたはずだ。それなのに、この頑なさはどうしたことだろう。
「…………」
八左ヱ門は何も言わず、一歩後ろに下がった。ただならぬ雰囲気が三郎を覆っていた。顔が見えなくても分かる。彼は怒っている。空気が全然違う。全身から、拒絶の意が感じられた。
八左ヱ門は雷蔵の手を取ると、早足で教室の隅まで引っ張って行った。
「……怒ってんじゃねえか……!」
話が違う、というふうに八左ヱ門は小声で抗議した。雷蔵の頭は、戸惑いで一杯であった。
「さ……さっきは、怒っていなかったんだよ……?」
自分でも、言い訳じみていると思った。しかし、これは雷蔵にとっても予想外のことであった。此処に来るまでの短い時間で、何かがあったのだろうか。そう思って近くに居た級友たちに尋ねてみたが、誰も分からないようだった。
「……おれ……謝るのは、後にする……」
手を離して、八左ヱ門が言った。雷蔵は「うん……」としか言えなかった。確かに今の三郎は明らかに気が立っていて、触れるのは危険である。雷蔵ですら、近寄りがたい。八左ヱ門は、肩を落としてとぼとぼと自分の席に戻ってゆく。雷蔵は彼が気の毒でならなかった。折角、三郎に謝るのだと決意したのに。
そして、雷蔵もこのまま此処で突っ立っているわけにはいかない。自分の席は三郎の隣である。どうしたって、彼の側にゆかなくてはならないのだ。
遠くからでも、三郎の苛立ちはじゅうぶんに伝わってきた。彼がどうしてそんなに腹を立てているのかが全く分からないので、雷蔵はとても不安になった。自分が何かしたのだろうか。三郎と最後に言葉を交わしたのはおそらく雷蔵だろうから、その可能性が一番高い気がしておそろしくなった。何か、三郎の気に障ることでも言ったのだろうか。そう思って記憶を巻き戻してみるが、まったく心当たりがない。
雷蔵は、恐る恐る三郎に近付いた。足が震える。心臓が跳ねる。三郎は机に肘をつき、何処とも知れない場所を見つめていた。雷蔵は彼の隣に、そろりと腰を落とした。横目で三郎を伺う。彼はこちらを見ようとしなかった。相当怒っているようだ。
「あの……三郎」
小さな声で、雷蔵は呼び掛けた。本当は、こういうときは話しかけない方が良いのだけれど、彼の不機嫌の原因が自分にあるならば謝らなくてはならない。
しかし三郎はそっぽを向いたままで返事をしなかった。気まずい空気が流れる。
「……ねえ、三郎ってば」
それでもめげずに再度声をかけ、彼の肩に手をやった。そうしたら、ぞんざいに振り払われてしまった。あからさまに拒絶され、雷蔵は胸がぎゅっとなるのを感じた。折角三郎と友達になれたと思ったのに、また以前に戻ってしまったみたいだった。
そして、彼が何に対して怒っているのか見当も付かず、この上なく不安で心細い心持ちになった。やっぱり、八左ヱ門のことを許していなかったのだろうか。それとも、雷蔵が何かしたのだろうか。どれだけ考えても答えは見つからず、雷蔵の頭はどんどん重たくなっていった。
授業が終わるとすぐ、三郎は足早に教室を出て行った。雷蔵は、急いでその後を追う。
「三郎」
後ろから呼び掛けても、三郎は立ち止まらないし振り返らなかった。ここまで無視されるなんて、よっぽどのことである。そう思うと頭の中がぴりぴりした。
「ねえ、三郎ってば、待って」
ようやく追いついた雷蔵は、彼の手を両手でつかまえた。三郎はすぐにそれを振り払おうとしたが、力を入れて食らいついた。
雷蔵に対して何か怒っているのなら、きちんと伝えて欲しかった。こんな風に突然拒絶されても、訳が分からないしどうしようもない。
「どうしたの、何をそんなに怒っているの」
三郎の手を握り、早足で歩く彼の調子に合わせながら雷蔵は言った。三郎の顔を覗き込もうとするが、ふいとそらされてしまった。
「知らない」
小さな返事が返ってきた。雷蔵は唇を噛んだ。それでは何も分からない。なので、めげずに言葉をかける。
「三郎」
「知らない」
「ねえ、三郎ったら」
「雷蔵なんか知らない!」
雷蔵は絶句して、目を見開いた。こんなふうに、三郎が声を荒げるのは初めてのことだった。三郎は雷蔵から目をそらして、ふたたび歩き出した。手の中から、三郎のつめたい手が逃げてゆく。
しばし呆然と三郎の後ろ姿を見ていた雷蔵だったが、やがてはっと我に返って走って彼の後を追い掛けた。三郎が校舎を出てゆくので、それに倣う。外に出た瞬間、強い日射しが目を突き刺した。
「三郎、待って、三郎」
雷蔵は必死で三郎の名を呼んだ。しかし、三郎は頑として反応しようとしない。雷蔵はとかく悲しくて、目頭がじりじりと熱くなってゆくのを感じた。
「三郎、ぼくが何かしたのなら、謝るから」
ふらつく足をどうにか動かして、雷蔵は三郎の背中を追った。三郎は歩いていて、こちらは走っているつもりなのに、ちっとも距離が縮まらない。
「三郎、三郎……っ」
何度呼んでも、三郎は返事をしてくれなかった。視界がどんどん歪んでゆく。泣いちゃ駄目だ、と思ってこめかみを突っ張らせて耐えようとするが、目の前の景色は滲んでゆくばかりだった。もう、三郎の装束もぼんやりとしか見えない。
「ねえ、待ってよ。三郎。お願いだから……」
そんな風に言ってもきっと三郎は待ってくれないのだと、雷蔵には分かっていた。このまま、三郎がずっと振り向いてくれなかったらどうしようと、途方もない悲しみに襲われる。
何を考えているか分からないけれど、優しい三郎。頭が良くて、誰よりも術が上手くて、雷蔵の知らないことを何でも知っている三郎。忍術学園で初めて出来た、雷蔵の大切な友達である。そんな三郎が、自分の元から去ってしまう。嫌だ。それは嫌だ。絶対に嫌だ。
「三郎……。うわあっ!」
足がもつれて、雷蔵は思い切り転んでしまった。視界から、三郎が消える。手のひらと肘と膝が痛んだ。おまけに、全身砂まみれになった。痛いしざらざらするし三郎は怒っているし呼んでも返事してくれないし最悪だ。今まで我慢していた涙が、雷蔵の目からこぼれ落ちた。
「さぶろ、う、うう……、あ、う……っ」
雷蔵は地面に座り込み、声をあげて泣いた。涙が止まらない。今日は泣いてばかりだ。こんなだから三郎に嫌われてしまうのかもしれない。そう思うと、更に涙が溢れて仕方がなかった。
「……砂のついた手で、目を擦っては駄目だよ」
頭の上から、そんな声が落ちてきた。三郎の声だ。雷蔵は、勢いよく顔を上げた。もうとっくに何処かに行ってしまったと思っていた三郎が、すぐ側に立って雷蔵を見下ろしている。
「……三郎……」
雷蔵は掠れた声で呟いた。
「立てるかい」
もう、三郎の声に怒りや苛立ちは混じっていなかった。何処までも穏やかな調子である。雷蔵の頭はますます混乱するばかりだったが、三郎がこちらを見、更に声をかけてくれたことに心から安堵した。
雷蔵は泣きじゃくりながらも、立ち上がろうとした。しかし、駄目だった。腰にまったく力が入らない。
「立てない……」
力無く呟いて、雷蔵は首を横に振った。頭上で、三郎がかすかに溜め息をつく気配がする。また怒らせてしまっただろうかと思ったら、すいと手を差し伸べられた。雷蔵は顔を上げて三郎を見た。彼は静かにこちらを見ている。もう怒っていないのだろうか。まだ怒っているだろうか。素顔が見えない三郎の胸の内は、よく分からなかった。
「ほら、立って」
三郎はそう言って、差し出した手を更に近づけてきた。雷蔵は、その手につかまって立ち上がった。
「井戸にゆこう、雷蔵。傷口を洗わないと」
「……うん」
雷蔵はこくりと頷いた。すると三郎は身体の向きを変え、雷蔵の手を引いて歩き出した。
「……雷蔵は、泣き虫だね」
小さな声で言われて、雷蔵は恥ずかしくなった。
「だって、三郎が……」
と言いかけて、口をつぐむ。
「……ぼくが泣いてばかりいるから、ぼくのことが嫌になったの?」
「そうじゃないよ」
「でも、怒っているのでしょう」
「もう怒ってない」
「本当に?」
「本当に」
「さっきも、怒っていない、って言ったのに」
「それとこれとは、別の話だもの」
「じゃあ、今度は何を怒っていたの」
「……さあ、何だったかな」
三郎は、首を傾げた。雷蔵は顔をしかめる。
「三郎、ずるい」
「雷蔵はおれがいないと駄目だな、と思ったら、どうでもよくなってしまったよ。目を離したら、すぐに泣いてしまうのだもの」
何だそれは、と思った。ぼくはそんなに弱くない、と言いたかったがあまりに説得力がないことに気が付いて言えなかった。とりあえず、三郎はもう怒っていないらしいことが分かって、雷蔵の気持ちはぐっと落ち着いたのだった。
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