■開花の音 16■


 それから十日ほどが経った。その日は朝から学園中が浮ついた空気に包まれていた。何せ、明日から夏期休暇である。厳しい鍛錬の日々から一時離れ、郷里に帰ることが出来るのだ。それゆえ、誰もが浮かれていた。雷蔵も例に漏れず、起きた瞬間からそわそわしていた。この学園にも大分馴染んできたが、家族に会えないのはやはり寂しかったので、明日が待ち遠しかった。

 しかし、相変わらず気がかりなこともあった。三郎と八左ヱ門のことである。八左ヱ門はまだ、三郎に謝ることが出来ていなかった。それどころか、あれからふたりは一言も口をきいていないのである。何度か、八左ヱ門が三郎に声をかけようとしているところを見掛けたが、そういうときに限って先生や級友が彼らのどちらかに話しかけたり、八左ヱ門自身が踏み切れなかったりと、上手くゆかないのだった。

 雷蔵は日々やきもきしていたが、八左ヱ門が「自分で何とかする」と言っているのだから、見守るしかなかった。

 そして、あの騒動があってから、三郎はまた少し変わった気がする。あれから、やけに雷蔵の世話を焼いてくるのである。この日も、朝から雷蔵が身支度に手間取っていると、何も言わずに三郎が髪を結ってくれた。以前なら、雷蔵のことなど放ってさっさと行ってしまっていたのに、である。

「……良いよ、三郎。自分で出来るよ」

 髪を結ってもらうなんて小さな子のようで少し恥ずかしく、雷蔵は背後に立つ三郎にそう言った。

「だって雷蔵は遅いし、下手だもの」

 静かな答えが返ってくる。その通りなので何も言えない。雷蔵の髪は癖があって扱いづらく、くわえて彼は不器用なのでどうしても上手く出来ないのだった。三郎は慣れた手付きで雷蔵の髪の毛をまとめ、髷の根元に紐をくるくると巻き付け、しっかりと縛った。

「はい、出来た」

「……ありがとう」

 礼を言いながら、結い上げられた髪の毛に手を当てる。とてもきれいにまとまっていた。少し悔しい気分になりつつ、頭巾は何処に置いたっけ、と辺りを見回した。

「はい、雷蔵。頭巾」

 今度は、頭巾を手渡された。雷蔵は有難いような居心地の悪いような、微妙な心持ちになった。それでも「ありがとう」と言って、水色の頭巾に手を伸ばす。

「巻いてあげようか?」

「良いよ!」

 雷蔵は、やや乱暴に頭巾を取った。顔が熱くなる。髪を結ってあげるだの頭巾を巻いてあげるだの、彼は自分を何だと思っているのだろう。赤ん坊じゃないのだから、それくらいは自分で出来る。雷蔵は井桁模様の頭巾を頭に巻いた。三郎がじっとこちらを見ているので、落ち着かなくて少し失敗してしまった。やり直そうかと思ったが、そうするとまた三郎が手を出してきそうだったので、これで良いんだという顔をしておいた。

「……そういえば三郎、今日は花火だね」

 教本を持ち上げ、気を取り直して雷蔵は言った。

「花火?」

 三郎は、不思議そうに首を傾げる。

「うん。夜になったら、火薬委員が花火を上げるんだって」

「そう」

「楽しみだな。ねえ三郎、一緒に見ようね」

 雷蔵は顔を上げて、三郎を見た。今日の彼は、狐のお面をかぶっていた。

「うん」

 三郎は頷いた。結局、彼がお面を外すことは一度もなかった。だけどもう、あまり気にならなくなってきた。ただ、三郎はいくつお面を持っているのだろうと、それだけは少し訊いてみたいと思った。










「三郎、そろそろ花火が始まるよ。見にゆこう」

 陽もとっぷりくれた頃、雷蔵は部屋で本を読んでいた三郎に声をかけた。三郎は立ち上がって、こちらに歩み寄ってくる。

「何処で見るの?」

「ええと……。縁側と長屋の屋根はもういっぱいだったから……。ううん、何処にしようか……」

 雷蔵は、うんうん唸って考えた。すると三郎が、くすりと笑う気配がした。

「それじゃあ雷蔵、用具倉庫の屋根に登ろうよ」

「用具倉庫? 少し遠くない? 見づらくないかな」

「高いところなら、何処でも見られるよ。今日は晴れているし、風も無いから」

「そうか、そうだね。じゃあ、そうしよう」

 そうしてふたりは、鈎縄を持って長屋を出発した。生徒は皆、花火を見るために外に出て来ているので、夜とは思えない賑やかさだった。上級生は酒を持って来ている者も多く、そこかしこで楽しそうな笑い声があがっていた。先生の姿もちらほら見掛けた。先生方も花火を見るんだなあ、と雷蔵は何だか新しい発見をしたような気分になった。皆の高揚した気分が伝わってきて、雷蔵の胸のわくわくは更に大きくなった。

「ぼく、花火を見るのなんて久し振りだ。うんと小さなときに、村のお祭りで見て以来だよ。三郎は?」

 弾んだ声でそう言うと、三郎は「うーん、どうだったかな」と首を傾けた。

 その直後だった。どおん、と大きな音がして空に白い光の花が咲いた。その瞬間だけ辺りが明るくなり、雷蔵たちは思わず立ち止まって空を見つめた。一瞬の後、雷蔵は我に返った。

「三郎、始まっちゃったよ!」

「急ごう!」

 ふたりは大慌てで用具倉庫へと走り、鈎縄を使って屋根へと登った。それと同時に、また大きな音が鳴り響いて今度は赤い花火が上がった。きらめく光が尾を引いて空に流れる。まるで、流れ星がいっぺんに沢山降ってきたみたいだった。

 用具倉庫の屋根には、雷蔵たちの他には誰もいなかった。ふたりは適当なところに並んで腰を下ろし、しばし何も言わずに次々と打ち上げられる花火を眺めた。濃紺の空で、光が弾けてゆく。白に、黄色、今度は青。夢のような光景だった。

 しかし少しして、花火の打ち上げは止んでしまった。あまりにあっという間だったので、雷蔵は眉を寄せた。とても綺麗だったけれど、あれだけで終わってしまうなんて、物足りない。もっと沢山花火を見たい。

「もうおしまいなのかな……」

「ううん、煙が晴れのを待っているんだよ」

 三郎は、夜空を指さした。確かに、灰色の煙が空を覆っている。終わったのでなくて良かった、と雷蔵は安心した。しかし急に静かになったので、何となく寂しくなってきた。

「……明日から、しばらく三郎にも会えないね」

 まだ煙の立ちこめる空を見上げつつ、雷蔵はぽつりと言った。

「……うん、そうだね」

「そういえば、三郎の郷里は何処なの?」

「此処だよ」

「えっ?」

「おれは、此処で産まれたんだ」

「忍術学園で? 本当に?」

「嘘だよ」

 三郎があっさりと言ったので、雷蔵はむっとして唇を尖らせた。

「それじゃあ本当は、何処で産まれたの」

「鞍馬の山奥」

「今度は本当?」

「おれは、天狗の子だから」

「また、そんなことを言って」

「本当だよ。だから、顔を見せられないんだ」

「……本当に?」

 雷蔵は思わず、まじまじと三郎の顔を見つめた。馬鹿げていると思いつつも、彼が天狗だと言うのは真実味のある話に聞こえた。それならば、三郎が先程言っていたとおり顔を隠しているのも頷けるし、彼が図抜けて優秀であること、性格や感性がひどく変わっていることなんかも、天狗であるなら説明がつくような気がした。

 目をまんまるにして三郎の顔を凝視する雷蔵に、片時もお面を手放さない彼は軽く噴き出し、それから声をあげて笑い出した。

「何て顔をしているの。そんなの全部、嘘だよ」

「嘘、って……。もう、何だよ! からかうなよ」

「雷蔵は、何でもすぐに信じてしまうのだから」

「お前が、本当のことみたいに言うからじゃないか」

「少し考えたら、分かるだろう」

 三郎は、先程から楽しそうである。からかわれたのは面白くないが、こんなふうに三郎が朗らかに笑っているのが見られるならまあ良いか、という気になった。

 八左ヱ門とまだ仲直りが出来ていないのは残念だけど、三郎はこの三ヶ月と少しで大分変わったのだからきっと大丈夫だ。彼らの関係も、きっと良い方向に進むのだろう。雷蔵は、そう考えることにした。

 そのとき、ふたたび空が明るくなった。腹に響く音とともに、何発もの花火が連続して夜空に打ち上げられる。間断なく、色とりどりの光が弾けた。あちらでは赤と青の花火が、そして、こちらでは滝のように流れる花火が。めまぐるしく変わってゆく色彩に、目が追いつかない。

「わあ、わあ! すごいね三郎! すごく綺麗だ!」

 雷蔵は立ち上がり、はしゃいだ声をあげた。目の前が光で満ちてゆく。

「うん、そうだね」

「三郎も、お面越しに見るよりも直接見た方が、きっともっと綺麗なのに!」

 勢いで言ってしまってから、はっとなった。そして、己の失言を悔いた。そんなことを言うつもりではなかったのに、心に浮かんだことがそのまま口から飛び出してしまった。

「あ……。ち、違うんだよ、三郎。あの、あのね、そうじゃなくって、その」

 どうすれば先程の発言を消せるだろうと、雷蔵はあたふたした。しかし、一度言ったことを消すことは出来ない。

「ううん、雷蔵」

 三郎は首を横に振って、雷蔵の右手をきゅっと握った。その声音はとても穏やかで、怒っているふうには聞こえなかった。気を悪くしたようでもない。

「おれも、きみの言うとおりだと思うよ」

 静かに放たれたその言葉に、雷蔵は胸を貫かれたような感じがした。三郎は変わり者だから好きでお面をかぶっているのだと思っていたけれど、そうではないのかもしれない。もしかしたら三郎も本当はお面なんか着けたくないのかも。そう思うと、たまらなくなった。

 ……ねえ、三郎。今だけで良いから、そんなお面なんて取ってしまえよ。此処にはぼくしかいないし、ぼくはお前がどんな顔をしていたって気になんかしない。たとえ本当に、赤い顔で鼻が長くたって別に良いんだ。どうしても嫌なら、お前の方は絶対に見ないから。だから、お面なんて取ろうよ。そして一緒に、ほんとうの意味で一緒に花火を見よう。

 その言葉は雷蔵の口から出ないまま、彼の身体の奥底に沈んでいった。ふたりはそれから何も言わず、しっかりと手を繋いで花火を見た。