■開花の音 17■


 三十日間の夏休みは、あっという間に終わりを告げた。

  雷蔵は早めに登校しようと思い、余裕を持って郷里を発った。そうしたら、早く着きすぎてしまった。門は事務のおばちゃんが開けてくれたけれど、生徒も先生も、まだほとんど来ていないとのことだった。それなら、もう少し郷里でゆっくりしてくれば良かった……と思った。

 家で洗濯して来た制服を胸に抱き、雷蔵は長屋の廊下をのんびり歩いた。誰もいない長屋は静かで、それがとても新鮮だった。何だかわくわくしてくる。

「……そうだ」

 あることを思い付いて、足を止めた。前後左右に目を走らせ、本当に誰もいないことを確認する。何処もかしこも人の気配が全くしない。間違いなく、今、この廊下にいるのは自分だけだった。

 雷蔵は大きく息を吸い込んで、勢いよく走り出した。普段は先生に怒られてしまうし、誰かにぶつかるかもしれないから、こんな風に廊下を思い切り走ることは出来ない。しかし今なら、全速力で駆けたって咎める者は誰もいないのである。

 ばたばたばた、と無遠慮に足音を立てながら走る。何とも言えない爽快感があり、とても気持ちが良かった。雷蔵は自分の部屋の前で立ち止まった……つもりが止まりきれず、数歩ほど通り過ぎて転びそうになってしまった。誰も見ていないのに、照れ笑いが口を突く。

 気を取り直して雷蔵は、部屋の前にかかった木札を見上げた。雷蔵、三郎。二人の名前が書かれた札は、休み前から変わらずそこにあった。ああ忍術学園に帰って来たんだなあ、という実感が雷蔵の胸にふんわりと湧き上がった。

 部屋の戸を開ける。中には誰もいない。三郎はまだ登校していないようだ。雷蔵は嬉しくなった。入学以来、何をやっても三郎には敵わなかったから、ようやくひとつ勝ったような気がしたのである。少しばかり誇らしい気持ちになり、雷蔵は大股で部屋の中に入った。そのときである。

「わっ!!」

 と、頭上から大きな声が降ってきた。雷蔵は飛び上がらんばかりに驚き、「わあああ!」と甲高い悲鳴をあげた。

「な……な……っ」

 今のは一体何だ、と視線を持ち上げる。するとそこには、鉢屋三郎の姿があった。狐の面をつけ、さかさまにぶら下がってこちらを見ている。

「三郎!」

 雷蔵は目を見開いた。三郎は「やあ、雷蔵」と返し、身軽な動作で床に降り立った。雷蔵は胸に手を当てた。心臓の激しい振動が伝わってくる。

「非道いじゃないか、三郎。おどかすなんて」

「雷蔵が隙だらけなのが悪いんじゃないか」

 涼しい声で三郎は答える。雷蔵は眉をしかめた。そういえば、彼はこういう奴だった。新学期が始まるということは、また、この気難しくて変わり者で世話焼きで、だけど心やさしい男との日々が始まるのである。またこんな風に、彼に振り回されるのかなと思うと少し気が重くなったが、しかしそれ以上に、久し振りに三郎に会うことが出来て嬉しかった。

「三郎、久し振りだね」

 雷蔵は笑顔で、右手を三郎に差し出した。彼も軽く笑って、その手を握り返してくる。

「うん、そうだね、雷蔵。休暇はどうだった?」

 そう言われて雷蔵は、彼に話したいことが沢山あるのだと思い出した。

「あのね、あのね、三郎聞いておくれ。色んなことがあったんだよ」

 雷蔵は目をきらきらさせて、夏の思い出を語った。家族のことや村に住む人たちのこと、季節の行事、毎日のように川に泳ぎに行ったこと(授業で訓練したおかげか、誰よりも早く泳げて鼻が高かったことなんかも)、畑で採れた西瓜が素晴らしく甘くて美味だったことなどを、三郎に話して聞かせた。その間三郎は、うんうんと頷きながら彼の話に耳を傾けていた。

 夏休みの出来事をいっぺんに語り終えて、雷蔵は大きく息を吐き出した。それから「三郎は?」と尋ねる。三郎は、何を言われているのか分からない、とでも言うように首を傾げた。雷蔵は、じれったくなって拳を振った。

「だからさ、三郎の夏休みはどんなだった? お前の話も聞かせてよ」

 雷蔵は、にこにこ笑って催促した。三郎は、一層ふかく首を傾ける。

「……おれの?」

「そう、三郎の」

 三郎はしばし黙った。雷蔵は、わくわくしながら彼の言葉を待った。三郎の夏休みはどんなだったのだろう。何となく、自分には想像も出来ないような、凄い夏休みを過ごしているような気がする。

「特に、話すような出来事はないよ」

 予想に反して、三郎の返事は素っ気なかった。雷蔵は頬を膨らませ「嘘だあ」と不服の声をあげる。

「本当だよ」

「だって、三十日もあったんだよ。何も無かったことはないでしょう。家の手伝いをしたり、宿題をしたり、忍術の練習をしたり……」

「雷蔵は、忍術の練習をしたの?」

「うん、したよ。一ヶ月何もしなかったら、習ったことをみんな忘れてしまいそうだもの」

「雷蔵は真面目だね」

「そうでもないよ」

「それじゃあ、手裏剣を投げたり?」

「うん。村の人たちに見られてはいけないから、山の中でこっそり。木切れで、的も作ったんだよ。だけど一度、近所に住んでいる小さな子に見られそうになって、凄く焦ったんだ……って、結局また、ぼくの話になってるじゃないか」

「自分の話はしないで、相手に話させるのが忍者だよ」

 三郎はしれっと言い放った。彼の言うことはいつだって正しい。しかし釈然としなかった。結局郷里が何処にあるのかも教えてくれなかったし、三郎は謎だらけだ。

「……そんなの、へりくつだよ」

 雷蔵は唇を尖らせてそう言った。そうしたら、「そうでもないよ」と、さきほどの雷蔵の口調を真似て返事が返ってくる。この人を喰った態度も、何もかも変わっていない。

「もう……。三郎は、いつも人をからかってばかりだ」

 諦めの溜め息が口から漏れる。すると三郎は笑いながら、ずいと顔を雷蔵に寄せてきた。狐の面が、視界に大写しになる。この面を取ってもまた狐の顔が出て来るんじゃないか、なんてことを考える。

「でもね、雷蔵」

 少し声の調子を落として、三郎が言う。

「登校して一番に、きみに会うことが出来て嬉しいよ」

「…………」

 咄嗟に返事をすることが出来なくて、雷蔵は沈黙した。こうやって突然良い奴になるから、鉢屋三郎という男は厄介なのである。何も言えない雷蔵に向かって、三郎はこのように続けた。

「二学期は、あまり泣かないようにね」

 そして彼は、まるで小さい子にするように、雷蔵の頭をよしよしと撫でた。

「……うるさいなあ!」

 たちまち頬が熱くなって、雷蔵はその手を振り払った。三郎は面白そうに笑っている。雷蔵は、とかく恥ずかしくて仕方が無かった。今学期からは絶対に泣くもんか、と雷蔵は胸の中で決意を固めた。