■開花の音 18■


 夏休み中、宿題や多少の自主練習をこなしていたとはいえ、身体がすっかり休暇に慣れてしまっていて、授業が始まってもすぐには調子が出なかった。教科の時間は頭がぼうっとし眠くなるし、実技の時間は身体が重くて仕方が無い。そんな状態であったのは何も雷蔵だけではなく、一年ろ組のほぼ全員が何処か呆けた空気をまとっていたのだった。

 そうしたらついに、先生の雷が落ちた。

「どいつもこいつも、たるんどる! 今から全員で、裏裏山まで走って来い!」

 先生のひとこえに、ろ組の面々は一斉に、ええっと悲鳴をあげた。どんな難しい忍術の練習よりも、ただ走るだけ、というのが一番疲れるのである。しかも裏裏山まで、である。鈍った身体で行きたい場所では決してない。しかし先生は容赦がなかった。

「問答無用! 体育委員、先導しろ!」

 と、生徒達を追い立てる。それで彼らは全員で、不承不承、裏裏山まで駆けてゆくことになったのである。










 体育委員を先頭に、彼らはのろのろと山道を走った。誰ひとりとして、真剣に走る者はいなかった。雷蔵は、ここで真面目にやらなければ更に先生の怒りを買ってしまうのでは……と心配だったが、だからといって足は素早く動いてはくれなかった。

 いちに、いちに、とまばらな掛け声と共に彼らは走る。雷蔵は、集団の後ろの方で三郎と並んで走っていた。周囲は木々ばかりで、特に目新しいものはない。雷蔵は単調な景色にすぐ飽きてしまい、裏裏山への道中が非常に苦痛であった。

 それでもどうにか裏裏山に到着し、折り返して忍術学園への帰路につく。この頃には既に、三郎以外の全員がへとへとになっていた。やはり、休み明けの長距離走はきつい。彼らは力の入らない足を引きずって山を降りることになった。

  その途中で三郎が、するりと何気なく列から外れていこうとしたので、雷蔵は慌ててしまった。

「だ、駄目だよ、三郎」

 雷蔵は、彼の腕を掴んで引き止めた。お多福の面を着けた三郎の顔が、こちらを向く。

「何が駄目なの、雷蔵」

 休み明け早々、これである。雷蔵は絶望したくなった。彼の協調性はだいぶ改善されたと思っていたけれど、どうやら今後もまだまだ苦労しなくてはならないらしい。

「体育委員について行かないと、駄目なんだよ。さっき、先生が言っていたじゃないか」

 仕方が無く雷蔵は丁寧に説明したが、三郎は合点がいかない、という風に首を傾けた。級友たちは、もうだいぶ先まで行ってしまっている。焦った雷蔵は、問答無用で彼を引っ張ってゆくことにした。

「ほら、三郎。遅れてしまうから、早く」

 雷蔵は三郎の手を取って、急ぎ足で駆け出した。










  それから大分走った後、ふと、誰かが言った。

「……本当にこっちで合ってんのか? 全然、着かねえじゃん」

 その言葉に生徒たちは、にわかにざわついた。それと共に、めいめい立ち止まる。確かに、時間がかかりすぎであった。もう随分と走っているのに、忍術学園に帰り着く気配が全く無い。

  雷蔵も足を止め、きょろきょろと辺りを見回した。相変わらず周囲は緑一色である。ぼうっとしながら走っていたし、皆が進む道だから合っているものだと思い込んでいた。しかしそう言われてみると、ここが全く知らない場所だということに気付く。

 全員の視線が、先導していた体育委員に集まった。

「おい、体育委員。どうなってんだよ!」

 誰かが、きつい口調で体育委員に詰め寄った。体育委員の生徒は、真っ青な顔をしていた。

「ご……ごめん……。道、間違えた……みたい……」

 弱々しいその言葉に、皆は「ええー!」と叫んだ。深い森の中である。しかも、じきに陽が暮れる。こんなところで、迷子。まだ幼い彼らにとって、それは大きな恐怖であった。

「間違えたって……何処から……?」

 誰かが、恐る恐る尋ねた。体育委員は、震えながら小さく答える。

「わ……分かんない……」

 その返答に、組の中でも気の強い生徒たちが顔色を変えた。

「どうすんだよ!」

「お前、責任取れよ!」

 彼らは、体育委員を責め立てた。幾人かが、止めに入る。そして別の幾人かは、道に迷ったときはどうしたら良いのか、授業の内容を思い出そうと必死になった。しかし如何せん休み明けであるし突然のことに混乱もしているしで、全く何も思い浮かばないようだった。

 雷蔵は、そのふたつの輪の間でおろおろしていた。暴走しそうな数人を止めるべきか、それよりも帰り道を模索すべきかで悩んでしまったのである。そんなことをしている間にも、陽はどんどん傾いてゆく。

「雷蔵、帰ろう」

 唐突に、三郎がそんなことを言い出した。雷蔵は驚いて、彼の方を振り向く。その帰り方が分からないから皆で大騒ぎしているのに、彼は何処までも冷静であった。

「三郎、道が分かるの?」

 尋ねると、「うん」とあっさりとした頷きが返ってくる。雷蔵は更に驚いて目を丸くした。三郎は、続ける。

「途中で、道が違うって気付いたし」

「それなら、何で早く……」

 何で早く言わないんだ、と言いかけて、思い出した。三郎が、列から離れようとしたときのことだ。あのときか。

「……ぼくが無理矢理引っ張って行った、あのとき?」

 三郎は首を縦に振った。瞬く間に頬が熱くなった。やっぱり、あのときだった。ちゃんと三郎の話を聞いていれば良かったんだ、と大きな後悔が胸を覆う。道を間違えたことにも気が付かないで、偉そうに三郎を説教して引っ張って来てしまった。それが、恥ずかしくて仕方が無い。

「……ごめんよ、三郎」

 もじもじと雷蔵が謝ると、三郎は「ううん」と言って軽く首を振った。本当に気にしてないようだったので、ほっとした。

「それじゃあ、帰ろう」

 三郎が雷蔵だけを伴って帰路につこうとするので、「ま、待ってよ、三郎」と慌てて彼を止める。

「み、みんな!」

 雷蔵は、まだ揉めている級友たちに、せいいっぱいの大声で呼び掛けた。その声に、全員が一斉に雷蔵たちの方を向いた。普段、あまりこうやって組の皆の視線を集めるされることがないので、何だか緊張してしまう。どきどきしながら、雷蔵はこう続けた。

「あの……三郎が、帰り道わかるって!」

 それを聞いた瞬間、おおっという歓声が沸き起こった。

「ほっ、本当に?」

 一番に駆け寄ってきたのは、体育委員である。彼は死人のような顔色をしていた。それから次々と、級友たちが三郎を取り囲む。

「本当に?」

「何で分かるのっ?」

 彼らのほとんどは期待を、そしてごく一部は不信を込めて三郎に注目した。三郎は輪の中心でしばし黙っていたが、やがて口を開いた。

「……目印に、五色米を撒いてきたから。それを辿れば、すぐ帰れるよ」

 ふたたび、おおおっと歓声が森の中に響き渡った。

「すっげえ!」

「冷静だ!」

「さすが、学級委員長!」

「……あの、三郎。おれの代わりに、先導してくれるかい……」

 おずおずと、半べその体育委員が申し出た。

「……別に、良いけれど」

 渋々といった感じではあったが、三郎は頷いた。それに、体育委員は心底安堵したように眉を下げた。

「みんな、三郎について行こうぜ!」

 誰かの掛け声に、おおっと皆が反応する。その勢いに三郎は居心地が悪そうに首を引っ込めたが、ひとつ息を吐き出して走り出した。全員で、その背中を追う。

 すごい、三郎。ちゃんと学級委員長みたいだ。

 ろ組の皆の先頭に立つ三郎に、雷蔵は感動していた。彼がこんな風に、きちんと学級委員長としての役割を果たしているのを見るのは初めてだ。

三郎、すごい。やれば出来るじゃないか。そうだ、ぼくだって、こんな風にだらけていないで頑張らないと。

 休みでぼやけた雷蔵の胸の奥でくすぶっていた炎が、ふたたび燃え始めた瞬間であった。










「忍術学園だ!」

「やった、帰って来られたんだ!」

「三郎のお陰だ!」

 忍術学園の門に入ってから、皆は口々に三郎に礼を言った。ありがとう三郎、お前って実は頼りになるんだな、ありがとう、ありがとう。そんな声を聞いていたら、雷蔵も嬉しく、そして誇らしい心持ちになった。

「三郎!」

 そこに、大きな声が響いた。そちらを見ると、八左ヱ門であった。彼は身体の横でぎゅっと拳を握り、口を結んで大股で三郎に近付いた。

「八左ヱ門……」

 呟く雷蔵の横を、八左ヱ門が通り過ぎて行く。彼は、三郎しか見えていないようだった。そして三郎の前に立ち、口を開いた。

「こっ」

 ひとこえだけ発して一旦口を閉じ、深く深く息を吸い込んでから再び口を開いた。

「子犬のこと、疑ってごめんな!!」

 八左ヱ門は、勢いよく頭を下げて言った。とうとう言った。雷蔵はそれを聞いて、泣きそうになってしまった。しかし、今学期は絶対に泣かないと決めたことを思い出し、歯を食いしばって必死で涙を我慢する。

 八左ヱ門が、謝った。しかも皆の前で。なかなか出来ることじゃない。

 恐る恐る、八左ヱ門は顔を上げた。三郎は少しの間、無言で彼の顔を見ていた。しかしやがて、くるりと身体の向きを変えたと思うと、何も言わないまま素早く駆けて何処かに行ってしまったのだった。

 雷蔵はたまらなくなって、八左ヱ門に駆け寄った。

「八左ヱ門! よく言ったよ、良かったね!」

 嬉しさのあまり、八左ヱ門に抱きついた。やっぱり彼は勇気がある。かっこいい。ここに来るまで時間は掛かったけれど、きちんと真心を込めて三郎に謝ったのである。

「で、でも、何も言ってくれなかったぜ……? 許してもらえたのかな……。」

 八左ヱ門は不安そうに視線をうろつかせた。雷蔵は、そんな彼を安心させる為に、にっこり笑って両手で彼の手を握りしめた。

「大丈夫だよ! だって三郎は……」

 そこまで言ったところで、ぴゃっと三郎が戻ってきた。彼は荒々しく、雷蔵の腕を掴んだ。そして、八左ヱ門から奪い取るみたいにして、雷蔵の手を引いた。雷蔵の身体は大きく傾き、転倒しそうになった。

 三郎はお多福のお面を、八左ヱ門の顔に思い切り近付けた。八左ヱ門は、ぎょっとしたように後ろにのけぞる。

「別にそんなの最初っから気にしてなかった!」

 三郎は一息でそう言って、八左ヱ門から顔を背けた。そのまま雷蔵を引っ張り、走り出す。雷蔵は身体が泳ぎそうになりながら、後ろに顔を向けて八左ヱ門を見た。彼は最初、ぽかんとした顔をしていたが、やがて、ほっとしたように笑った。

  雷蔵は八左ヱ門に笑顔を返し、前に向き直った。無言で、雷蔵の手を引いて走る三郎。そんな彼の後ろ姿を見ていると、しぜん、笑いがこみあげた。
 雷蔵は、先程八左ヱ門に途中までしか言えなかった言葉を、胸の中で思い切り叫んだ。


 ……だって三郎は、照れているだけだもの!