■開花の音 19■
それから一年ろ組の、三郎を取り巻く空気は明らかに変わった。三郎への認識が「触れてはいけない問題児」から「一目置ける存在」へと変化したのである。
八左ヱ門と三郎の関係はやっと元通りになったし、他の皆も少しずつ三郎と接するようになった。もう誰も、雷蔵のことを伝言板みたいに使ったりしない。三郎に用があるときは直接三郎に声をかけるし、彼もきちんとそれに応える。雷蔵は日々、喜びを噛み締めていた。
そして秋休みも過ぎ、そろそろ冬になろうかというときに、その出来事は起こった。
そのとき一年ろ組の教室では相撲大会が催されていて、早々に負けた雷蔵は、級友たちが奮闘するのを楽しく眺めていた。三郎は先生に用事を言いつけられていて、此処には居ない。夏休みまでは、三郎から少しでも目を離すと彼が何かやらかしそうで怖かったのだが、今ではそういうこともない。それはそれで少し寂しいような気もするけれど、やはり安心の方が大きかった。
「た、大変だよ!」
いよいよ決勝戦の組み合わせが決まって盛り上がる中、慌てふためいた様子でとある級友が教室の中に飛び込んできた。相当急いで走って来たらしく、戸を開けると同時にその場に崩れ落ちた。床に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。その顔は真っ青だ。それだけで、何かただならぬことが起きたのだと分かる。ろ組の面々は、一斉に彼の元に駆け寄った。
「どうした、何があったんだ!」
「さ……三郎が……」
掠れた級友の声に、雷蔵の肌はざわりとした。
三郎。三郎の身に何かあったのだろうか。それとも、三郎が何かをしたのだろうか。雷蔵の胸が、一気に不安で満ちる。倒れ込む級友は、喘ぐようにしてこう言った。
「さ、さっき、三年生の先輩が五人くらい来て……、三郎のことを連れて行っちゃった! どうしよう、明らかに物騒な雰囲気だったよ!」
「ええっ!」
教室内に、驚きの声が響き渡った。雷蔵は、すぐ隣に立っていた八左ヱ門と顔を見合わせる。
「あいつ目立つから、目をつけられてるんだよ」
苦々しげな口調で、八左ヱ門は言った。雷蔵は口元を震わせて呟く。
「ど、どうしよう……」
「どうしようって、決まってんだろ! 助けに行くんだよ!」
八左ヱ門は雷蔵の背中を強く叩いた。その痛みに、はっとする。彼の言うとおりだ。何も迷うことなんじゃないじゃないか。三年の先輩が五人がかりだなんて。彼を助けないと。
「で、三郎は何処に連れてかれたんだ」
八左ヱ門は、まだ立てずにいる級友に向かって尋ねた。弱々しい「第二運動場の方に……」という返事を聞き、八左ヱ門は深く頷いた。それから、皆の方を振り返ってこう声を掛ける。
「よし、それじゃあ皆で行くぞ! 三郎を助けるんだ!」
おおっ、という掛け声が教室を包んだ。
そうして一年ろ組の皆は、駆け足で第二運動場に向かった。雷蔵はどくどくと嫌な音を立てる胸を押さえ、三郎三郎三郎、とずっと心の中でその名前を呼んでいた。三年の先輩たちは身体が大きいし、いくら三郎でも敵わないかもしれない。三郎が無事でありますように。三郎が酷い目に遭っていませんように。
「いた!」
一番最初に声をあげたのは、八左ヱ門だった。彼の指さす方向を見る。確かにそこに、三郎が立っていた。
「三郎!」
雷蔵は、彼の後ろ姿に声を掛けた。無事で良かった、と続けるつもりだったのだが、その場の異変に気付き、足を止めて口をつぐんだ。
三郎の周りに、倒れている人影がみっつ。
それは三年の先輩たちだった。かすかに血の匂いがする。雷蔵は先輩たちの様子を窺おうとしたが、その内にひとりの右腕が変な方向に曲がっているのを見た瞬間、恐ろしくなって目をそらした。
雷蔵はふらふらと三郎に歩み寄り、彼の袖口をつかんだ。他の皆は、誰も近寄ってこない。皆一様に青い顔をして、この惨状を見やっていた。
「これ……三郎がやったの……?」
雷蔵は、呆然として尋ねた。三郎は、何でも無いような仕草で頷く。
「うん、そうだよ」
「どうして、ここまで……」
「だって、おれの面を取ろうとしたもの」
何処までも冷たい声であった。場がいっそう静かになる。三郎の袖を取る雷蔵の手が震え始めた。なんと言えば良いか分からなかった。こういうとき、友達としてどういう言葉をかけるべきなのだろう。
「……じゃあ、こいつらが悪いんじゃん!」
そこに、八左ヱ門の大きな声が響いた。雷蔵をはじめ、ろ組の面々は一斉に彼を見る。八左ヱ門は拳を握り締め、大層怒っているようだった。
「誰だって、されて嫌なことはあるだろ。それを、こいつらはしたんだ。三郎が怒るのは当然だ!」
それを聞いて、周囲にいた生徒たちから「そうだ」とか「その通りだ」とか、同意の声がぽつぽつと上がり始めた。そしてその声は徐々に大きくなり、熱っぽく膨らんでいった。
「五人って言ってたよな」
「ここには三人しかいない」
「じゃあ、後のふたりは逃げたんだ」
「仲間を引き連れて戻ってくるかも!」
「なんの、返り討ちだ!」
「そうだそうだ! 一年ろ組の力を合わせれば、怖いものなんて何も無い!」
「おおお!」
怒りと熱が一気に加速し団結する級友たちに、雷蔵は戸惑った。それで良いのだろうか。急速に熱を帯びていく彼らの闘志が恐ろしかった。皆が、三郎のために怒ってくれているのは嬉しい。だけどこれは、きっと間違っている。混乱する雷蔵にも、それは分かった。
止めなくては、と思うが身体と口が動かない。級友たちは、三年生たちを迎え撃つ具体的な策を相談し始めた。発言がどんどん過激になってゆく。
と、そのとき。当の三郎がくるりと身体の向きを変えて何処かにゆこうとするので、雷蔵は驚いてその腕に縋り付いた。
「さ、三郎、何処へゆくの!」
「何処って。別におれは、此処に用は無いもの」
さらりと答える三郎が信じられなかった。
「三郎、みんなを止めておくれよ……!」
雷蔵は、震える声で懇願した。この熱狂を止められる人間がいるとしたら、それは当事者の三郎だけだ。もともと彼には不思議な雰囲気があり、周囲への影響力がある。だから彼がひとこと声を掛けてくれれば、暴走しそうな級友たちも止められると思った。
「どうして?」
「どうして、って……! だって、みんな、さっ三郎の為に、ああやって……」
三郎の返事に、雷蔵は焦れた。自然と早口になるが、舌がもつれて上手く喋れない。
「おれが頼んだわけじゃないし」
雷蔵は呆気にとられてしまった。なんて冷淡な物言いだろう。こうしている間にも、級友たちは落とし穴を掘ろうだの武器を取って来ようだの話しているわけである。それなのに、頼んだわけじゃない、なんて冷たい一言で流してしまえる三郎の心根が信じられない。
「もう、良いかい」
三郎は短く言って、雷蔵の手を振りほどいた。このまま彼を行かせてはならないと思い、雷蔵は「待って!」と彼の腕を掴んだ。しかし三郎はその手を乱暴に払い、思い切り雷蔵の肩を突き飛ばしたのだった。雷蔵は尻餅をついてしまった。顔を上げると、三郎はさっさとこの場から立ち去ろうとするところだった。雷蔵の方など、少しも見ようとしない。
雷蔵は地面に腰を落としたまま、ぽかんと口を開けた。最初はとかく呆然とするしかなかった。三郎の足音がやけに大きく聞こえる。反対に、級友たちの三年生迎撃作戦は何処か遠いところで交わされているような感じがした。
ぼくは一体何をしているのだろう、と思った。三郎と分かり合えた、彼も一年ろ組に馴染むことが出来たと思ったのに、結局これである。三郎は結局、雷蔵の言うことなんてひとっつも聞いちゃくれない。みんなのやることなんて何も見ちゃいない。勿論今回のことは三年生の先輩たちが悪いのだろうけれど、此処まで酷い目に遭わせないといけないのだろうか。彼らの手当てだってしなくてはいけないのに誰もそんなこと考えないし、三郎だって完全に知らんぷりだ。ぼくはこんなところで座り込んで、何をしているのだろう。何をしているのだろう。
雷蔵の心に、波が立った。それが怒りであると気付く前に、身体が動いた。
「三郎っ!!」
雷蔵は走って彼に迫り、勢いを付けて彼の腰に思い切り飛びついた。不意をつかれたのか、三郎はまったくの無防備だった。ふたりはもつれるようにして、地面に引っ繰り返った。
「三郎のばか! 何でもかんでも、自分の思い通りになると思うなよ!」
雷蔵は声を張り上げ、三郎の身体を地面に押しつけた。腕の下で、三郎がもがく。雷蔵の頭の中は、真っ赤に燃えていた。何も考えられないくらいの怒りが、彼を支配していた。こんな憤怒は初めてで、彼は自分の感情を制御することが出来なかった。
「何を……っ」
三郎は若干狼狽しているようだった。すっかり興奮した雷蔵は、激情に任せて口を開いた。
「お面を取らないのだって、本当は三郎に意気地がないからだろ!」
普段であれば、絶対に言わないことである。しかしこのときは言った。とかく三郎に対して腹を立てていたので、その言葉を咀嚼する前に口から飛び出した。
それを聞いた瞬間、三郎の纏う空気ががらりと変わった。
「何だと!」
彼は声を荒げ、手を伸ばして雷蔵の胸ぐらを力任せに掴んだ。一瞬、息が止まる。しかし弱った素振りは絶対に見せたくないので、目にありったけの力を込めて三郎のお面を睨みつけた。
「あれっ、三郎と雷蔵が喧嘩してる!」
誰かが彼らの争いに気が付き、声をあげた。
「えっ何で!?」
「わ、分かんねえけど……とにかく止めろ!」
わっと、級友たちが雷蔵と三郎の元に駆け寄って来た。しかし雷蔵たちの剣幕があまりに激しいので、彼らは手が出せない。なんせ、彼らが喧嘩をするなんて初めてのことである。
雷蔵と三郎は、上になったり下になったり、ぐちゃぐちゃに揉み合った。互いの髪を引っ張り、横面を叩き、腕に噛みつき、割れた声でがなり立てる。
「三郎の気取り屋! 自分勝手! 意気地無し!」
雷蔵の口から、今まで溜めに溜めたあれこれが一気に噴出した。何も考えていないのに、口が勝手に動く。とかく頭が熱かった。
「おれが意気地無しだって! 雷蔵なんか泣き虫のくせに!」
三郎も、負けじと言い返してくる。泣き虫、という言葉に雷蔵の怒りはますます燃え上がった。
「ぼくは泣き虫なんかじゃない!」
「泣き虫だろ! いつだって、三郎三郎、って泣いてるじゃないか!」
「それは、お前が勝手ばかりしてぼくの話を聞かないからだ!」
「ほら、泣き虫って認めた!」
「違うよ!! ぼくは泣き虫じゃない!」
「無理するなよ、今だって泣きそうなんだろう! ほら、泣けば良いじゃないか! 泣けよ! いつもみたいに、ぴゃあぴゃあ泣けば良い!」
「うるさい、うるさい!」
雷蔵は腕を伸ばし、上に乗っかってきていた三郎の、泥まみれのよれよれになった襟元を掴んだ。そして、自分の方に思い切り引き寄せる。
「ぼくのどこが、泣きそうなんだよ! よく見ろよ!」
額の触れそうな距離まで顔を近づけ、雷蔵は怒鳴った。すると、三郎がぴたりと動きを止めた。
雷蔵は地面に横たわったまま、大きく胸を上下させた。怒りはまだ収まっていなかったが、とかく疲れた。雷蔵は握った拳を解いて地面に投げ出した。しかし目からは力を抜かない。泣いていないことを証明するために、じいっと三郎の目(らしき場所)を見据えた。空気が激しく喉元を行き来して苦しかったが、平気だという表情を作って三郎を睨み続けた。
三郎はしばらく黙って動かなかったが、やがて手を持ち上げて雷蔵の頬にひたりと触れた。
「わ!」
まさかそう来るとは思っていなかったので、雷蔵の口から甲高い声が出た。しまった恥ずかしい、と思う前に、三郎の両手が雷蔵の頬を包み込み、そのままさわさわと皮膚を撫でた。
「わ、わ……! な、何……!」
むずがゆいしくすぐったいしで、雷蔵は彼の手から逃れようと身を捩った。しかし現在の体勢は三郎が上で、くわえて今までさんざ暴れて体力を消耗しており、大した抵抗は出来なかった。
三郎は雷蔵の頬を撫で、鼻筋をなぞり、眉に手を這わせ、瞼をぐりぐりと押さえた。彼の行動の意味が分からず、雷蔵は段々気味が悪くなってきた。怒りがしぼみ、湿った恐怖が胸に這い寄ってくる。背中が寒い。指先が震える。
「三郎、何だよ……、いやだ、やめてよ……!」
雷蔵の訴えは聞き入れられず、その後も顔のあちこちをべたべたと触られた。雷蔵は歯を食いしばり、顔を這う手の感触と悪寒に耐えなければならなかった。
三郎は最後にもう一度、雷蔵の頬を両手で掴み、額が触れ合いそうな距離まで顔を寄せてきた。
「…………っ」
雷蔵は息を呑んだ。
三郎が笑っている、と思ったのだ。
木の面に覆われていて三郎の顔は全く見えないし声も一切発していないのに、何故かこのときだけは分かった。三郎は笑っている。何が楽しいのかわからないが、雷蔵の顔を見て笑っている。
「三、郎……?」
雷蔵の口から、ぽろりと呟きがこぼれた。その瞬間、面の向こうの三郎が笑みを深くした、ような気がした。
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