■開花の音 20■



 気が付けば布団の中に居た。周囲はほのかに明るい。そろそろ夜明けのようである。

 雷蔵は、重い頭を振った。まっさきに思い出したのは、先生の怒り顔だった。そういえば、沢山叱られたのだった。物凄く怖かった。さて、どうして叱られたのだろう。

 次いで雷蔵は、身体のあちこちが痛いことに気が付いた。それでようやく全てを思い出した。三郎と喧嘩をしたのである。それも、殴り合いの激しい喧嘩だ。あれから保健委員たちがやって来て(あの場からいなくなっていた三年生は、応援ではなく、保健委員を呼びに行っていたのである)、そこから先生の耳にも入ることとなったのだった。

 あんな風に、誰かと取っ組み合いの喧嘩をするのは初めてのことであった。雷蔵はいつだって、見ているだけだった。自分は絶対に、そんなことは出来ないと思っていた。それなのにあのときは、身体が勝手に動いた。しかしそのことも、何処か遠く感じられた。

「起きたかい、雷蔵」

 声をかけられ、はっとなって雷蔵は身体を起こした。布団のすぐ側に、三郎がちょこんと座っている。今日のお面はのっぺらぼうである。

「三郎……」

 雷蔵は、もぞもぞと口を動かした。気まずい。どういう顔をして三郎を見れば良いのか分からなかった。すると三郎は、静かな声でこう言った。

「きみ、昨日、おれがお面を取らないのは意気地が無いからだ、と言ったね」

「…………っ」

 その言葉に、雷蔵の頭がびりっと痺れた。そうだ。確かに雷蔵はそう言った。

「……ぼくは、謝らないからな」

 本当はかなり後悔していたのだけれど、どうにも素直になれなくてそんな風に答えてしまった。すると三郎は顔をうつむけて、くく、と笑った。

「取っても良いよ」

「……え?」

 すぐに意味を汲み取ることが出来ず、雷蔵は思わず聞き返した。三郎は笑い声を大きくし、両手を大きく広げた。

「さあ、このお面を取ってご覧よ、雷蔵。構わないから」

 そう言って、彼はずいと顔を寄せてきた。思わず雷蔵は、身体を後ろにそらす。彼は今、お面を取れと言った。三郎のお面を。突然、何を言い出すのだろう。

「か、構わないと言うのなら、三郎が自分で取れば良いじゃないか」

「おや、取る勇気が無いのかい?」

 嘲笑うように言われて、雷蔵の頭にかっと血が上った。泣き虫だとさんざ言われただけでもこの上なく腹が立ったのに、その上勇気が無いと決めつけられるのは我慢ならない。

「まさか。お面くらい、取ってやるよ」

 雷蔵は吐き捨て、無造作にお面に手を伸ばした。しかし、それに触れる寸前で手が止まる。三郎のお面。入学したて、卯月の頃はこのお面に触れようとして、思い切り頬を張られた。それが、彼らの始まりであった。それが今、雷蔵の手でお面を取れ、と言われているのである。雷蔵の胸は、先程からどんどんと騒がしかった。

 本当に良いのだろうか、と思う。昨日は勢いで意気地無しだなんて言ってしまったけれど、心の底からそう思っているわけではない。彼には、雷蔵には計り知れない事情があるのだと分かる。

  このお面は三郎が、三年の先輩に怪我を負わせてまで守り通したものである。雷蔵が、取ってしまって良いのだろうか。雷蔵は、いつか三郎がお面を取ってくれたら良いな、とは思っていたけれど、こういった形でその機会が訪れるとは思っていなかった。本当に良いのだろうか。三郎は納得しているのだろうか。雷蔵への対抗心と一時の衝動に流されているだけではないのだろうか。それならば、雷蔵は止めた方が良いのではないか。それとも……。

「迷っているね、雷蔵」

「…………」

「怖いのなら、止めたって良いよ」

 その一言が、決め手であった。  かちんと来た雷蔵は右手でお面の端を掴んだ。木のひやりとした感触が、指先に伝わる。右手で面を支え、左手で三郎の耳に掛かっている紐を外した。ますます鼓動が早まってゆく。

  雷蔵はごくりと唾を呑み、両手でしっかりとお面を持った。三郎は微動だにしない。ただ静かに、雷蔵の行動を窺っているだけだ。

 雷蔵は意を決して、三郎の面を取った。

「…………」

 雷蔵の手から、ぽろりと面がこぼれ落ちた。面は、乾いた音と共に床に落ちる。

 お面を外した三郎は、雷蔵の顔をしていた。

  目鼻立ち、口元、顔の形、すべてが雷蔵と全く同じだった。目の前に自分の顔がある。三郎は雷蔵。三郎は呆然とする雷蔵に向かって、うすく微笑んでいた。

「どうしたの、雷蔵。何か言いなよ」

 勝ち誇ったようにせせら笑い、三郎が言う。雷蔵はしばし口をぱくぱくさせていたが、気が付けば三郎の肩を掴んでいた。

「……すごいや」

「えっ?」

 三郎が眉をひそめる。雷蔵は我慢が出来ずに、三郎に思い切り抱きついた。

「すごい、すごいよ三郎! だってそれ、変姿の術でしょう! まだ習っていないのに、完璧にぼくに化けられるなんてすごいよ! やっぱり、三郎はすごい!」

「な……、な……っ」

 今度は、三郎が口をぱくぱくさせる番だった。彼は完全に、この事態に戸惑っている。

「ねえ三郎。その姿、八左ヱ門や他の皆に見せにゆこう。あっ、それと先生にも! きっと褒めて下さるよ!」

 雷蔵は気分が高揚するあまり、喧嘩していたこともすっかり忘れてしまっていた。彼は三郎の手を取り、そのまま引っ張ろうとした。それを、慌てた様子の三郎が引き止める。

「ま、待ちなよ、雷蔵」

「なあに、三郎」

「きみは、おかしいよ」

 何だか三郎は焦れているようだった。それが何故なのか分からなくて、雷蔵は小首を傾げた。

「どうして?」

「何で、そんなに喜んでいるの」

「だって、三郎が顔を見せてくれたもの」

「だけどこれは、おれの顔じゃない」

「そうだけど、でも……」

 雷蔵は一旦言葉を切り、三郎に顔を近づけた。黒い目が、当惑したようにこちらを見ている。それが嬉しくて、雷蔵は目を細めた。

「これで、お前の目を見て話せる!」

「…………」

「ぼくはずっと、そうしたかったんだ。それに、三郎の変装がすごく上手だってことも分かった。嬉しいことだらけじゃないか!」

 三郎は口元をぎゅっと結び、喜んでいるのか怒っているのか、何やら微妙な表情をした。雷蔵は、それも嬉しくてならなかった。

「三郎は、そういう顔をするんだね」

「何だよ、おかしい?」

 むすっとした三郎がこちらを見上げる。雷蔵は「まさか!」と勢いよく首を横に振った。彼の心には喜びと幸福しかなかった。

「……きみは、怖がって泣くかと思った」

 三郎が小声で呟くので、雷蔵は誇らしくなって胸をそらした。

「だからぼくは泣き虫じゃない、って言ったろう?」

「……そうだね」

 三郎はそう言って、ほんの少しだけ笑った。雷蔵はたちまち胸が熱くなって、もう一度三郎を抱きしめた。

「ねえ三郎、もうお面なんてつけるのは止めにしようよ。そっちの方が良い。ね、ずっとそうしていなよ!」

 すると三郎は雷蔵の肩に額を押しつけ、消え入りそうな声で「……うん」と頷いた。

 これが三郎と雷蔵の、ほんとうの始まりだった。











「……って言ったら、本当にずうっと、ぼくの顔でいるんだもんなあ」

 教室の窓から下を眺め、雷蔵は独り言を漏らした。柔らかな風が、紫紺の装束を揺らす。眼下では、一年生の生徒たちがきゃあきゃあと歓声をあげて走り回っていた。そんな彼らの楽しげな姿を見ていると、色々なことが思い出される。

「雷蔵!」

 背後からやって来た三郎が、軽い足取りで雷蔵の隣に立った。今日もやっぱり、雷蔵の顔である。初めてお面を外した日から、彼は大体この姿で生活している。

  素顔は依然謎だけれど表情が見える分、あれからの三郎はぐっと親しみやすくなり、ろ組の皆とも仲良くなった。見違えるほどに明るくなり、自分から積極的に他人と関わるようになった。そうなると今度は彼の悪戯に振り回されるようになるのだけれど、それでも、顔を隠して他人を遠ざけていた頃よりはずっと良いと雷蔵は思う。

「何を見ているの?」

 三郎は、にこやかに話しかけてきた。雷蔵は黙って、窓の下を指で指し示した。そうしたら三郎は窓枠から身を乗り出すようにして、庭で遊ぶ一年生を眺めた。

「おや、一年は組だね」

 無邪気で良いことだ、と彼は目を細める。どうやら目隠し鬼に興じているらしい一年は組の生徒たちに視線を戻し、雷蔵はかるく笑った。

「ぼくたちが、あれくらい小さかったときのことを思い出していたんだよ」

「ほほう。雷蔵が、おれがいないと何も出来なかった頃のことだな」

「三郎が、ぼくがいないと何も出来なかった頃のことだよ」

 三郎の言を訂正すると、彼はこちらを見て眉をつり上げた。

「何だと」

「何だよ」

 ふたりはしばし睨み合い、それからほぼ同時にふっと笑った。

「……これからもよろしく頼むよ、三郎」

 窓枠に肘をつき、雷蔵は言った。三郎もまったく同じ姿勢で片肘をつき、こう返してくる。

「こちらこそよろしく頼むよ、雷蔵」

 下から聞こえる楽しげな声が、大きくなった。そこに温んだ風が吹く。もうすぐ、春がやって来る。