■開花の音 08■


  それからも三郎は、たびたび騒動を起こしては周囲の人たちを困らせた。

  実技の授業中に、まだ習っていない難しい術を使ったり、かと思ったら試験の答案を白紙で提出したり。彼は酷く気分にむらのある性格で、やる気のあるときと無いときの差が非常に激しく、それには先生方も手を焼いていた。

 そして何よりも、すぐにふらりと何処かへ消えてしまうのが一番厄介だった。マラソンではひとりだけ道をそれる。校外学習の集合場所に来ない。門限までに長屋に戻らない。その度に一年ろ組の生徒たちは、全員で三郎を捜しにゆく羽目になるのである。

 しかしろ組の生徒たちは誰も、三郎に強く抗議することが出来なかった。彼は誰よりも成績が良く、口でも力でもかなわないからだ。恐らく一番三郎と親しくしているであろう雷蔵も、あまりきつくは言えなかった。三郎は苛々が一定に達すると、すぐに手を出してくる。その臨界点の見極めが出来るようになるまで、雷蔵はしょっちゅう三郎に引っぱたかれていた。他の皆もそうだ。だから、先生以外で三郎に意見出来る者はいなかった。誰だって、痛い思いはしたくない。

 自然、三郎は組の中から浮き上がり、孤立するようになった。決して素顔を晒さない、変わりものの優等生。しかも、すぐに暴力を振るう。どうしたって近寄りがたい。それでも最初の内は、放課後や休み時間に三郎を隠れ鬼やら鬼ごっこやらに誘う者もいた。しかし彼が入ると、鬼をやらせればたちまち全員捕まえてしまうし、逃げる役をやらせたら今度は誰も捕まえることが出来ない。三郎がいたら遊びが成立しなくなるというので、何時しか誰も三郎を誘わなくなったのだった。

「みんなで氷鬼をやるから、雷蔵も来いよ」

 授業が終わってすぐ、級友のひとりが雷蔵を遊びに誘いに来た。

「あ……うん……」

 雷蔵は曖昧な返事をしつつ、隣の席の三郎を見た。彼は何も気にしていないという様子で、忍たまの友を持って立ち上がる。雷蔵はその姿を目で追った。どうにも複雑な気持ちであった。

 ここのところ雷蔵は放課後を級友たちと過ごし、三郎はその間ひとりで何処かに行ってしまうことが多かった。三郎と離れていると少し気楽になれて良いのだが、それでもひとり輪に入れない彼のことはいつも気に掛かっていた。

  雷蔵は三郎のことがけして嫌いではなかったし、出来れば仲良くなりたいと思っていた。しかし、だからと言って雷蔵が三郎を誘ったら、きっと皆はいい顔をしないだろう。組の皆はすっかり、三郎のことを避けてしまっている。

「雷蔵? 先に行くよ?」

 級友が雷蔵の装束を引っ張る。雷蔵は腰を半分浮かせた体勢のまま少し迷ったが、意を決して級友の顔を見た。

「……ぼく、今日はやめとく」

 そう言って相手の返事も聞かず、三郎の姿を追って走り出した。





 三郎は校舎を出て、校庭の隅に生えている大きな木の下に腰を下ろした。雷蔵は彼の側で立ち止まった。木の葉が地面に濃い影を落としている。風はぬるく、夏が近いことを感じさせた。

「……あの、三郎」

 雷蔵は、三郎に声をかけた。彼は幹に身体を預け、お面越しに何処とも知れない場所を見つめている。三郎からの返事はなかったが、雷蔵は言葉を重ねた。

「ぼくも、此処にいても良いかな」

 その一言を発するのに、雷蔵は勇気を振り絞らなくてはならなかった。組の皆から避けられるようになってから、三郎は以前にも増して何を考えているか分からなくなった。胸がどきどきする。

  そのとき一際強い風が吹き、雷蔵は思わず目を閉じた。

「良いよ」

 暗くなった瞼の向こうで、三郎の声がした。雷蔵は目を開けた。ひょっとこの面をつけた三郎が、こちらを見ている。あれ、さっきまでこんなお面だっただろうか、と雷蔵は首を傾げた。そうだったかもしれない。そうじゃなかったかもしれない。よく分からなかった。雷蔵は若干緊張しつつ、三郎の隣に腰を下ろした。

「雷蔵は、今日は皆と遊ばないの」

 三郎の言葉に、少し苦い気持ちになった。何でもないように振る舞っているけれど、やっぱり組の輪の中に入れないことを、彼なりに気にしているのだろうか。

「今日は、三郎と一緒にいたい気分なんだ」

 そう言うと、三郎は「ふうん」と呟いた。嫌がっているようには見えなかったので、少し安心した。青空を見上げて、大きく伸びをする。それから雷蔵は再び、三郎の方を見た。

「三郎は、此処で何をしてるの?」

「観察してる」

「何を?」

「色々」

 いろいろ……、と雷蔵は繰り返した。そう言われても、よく分からなかった。すると、三郎はすらすらと答えてくれた。

「風とか空とか匂いとか、あとは誰かが校庭を使っていたら、その人のやってることとか」

「忍者っぽい」

 反射的にそう言うと、三郎は声をあげて軽く笑った。皮肉やら嫌味やら抜きで、そんな風に素直に笑う三郎を見るのは初めてかもしれない。雷蔵は何だか頬が熱くなった。お面をかぶっているのは変だけど、そうやって笑っていれば三郎だって年相応に見える。それは雷蔵にとって、大きな発見だった。もっと早く、此処に来て三郎と一緒に過ごしていれば良かった、と思った。





 次の日も、その次の日も、雷蔵は放課後を三郎と共に過ごした。場所は、あの木の下だったり、校舎の裏だったり、櫓の下だったりした。共に過ごすと言っても、特に何か話したり遊んだりするわけではない。ふたり並んで腰を下ろし、日が暮れるまでぼんやりと過ごすのだ。ただ黙っているのは正直少し退屈だったが、穏やかに流れる時間をゆったりと過ごすのは思いの外気持ちが良く、これはこれで良いと思えた。

 それに、周囲を観察するのは忍者にとっても大事なことだ。雷蔵も、三郎に倣って雲や空気や周りの風景を観察しようとするのだが、いつも途中で眠ってしまう。そして、夕飯どきになって三郎に起こされるのだ。その度に、自分はまだまだだな、と反省した。

 ある日から、雷蔵は図書室の本を持って行くようになった。観察に飽きたら、本を読む。そうすれば、日が暮れるまで起きていられる。しばらくは、雷蔵が隣で本を読んでいても、三郎は何も言わなかった。雷蔵も、静かに本を読んだ。

  しかし、十日ほど経った頃、彼らに変化が訪れた。

「……何を読んでるの?」

 三郎が、ぽつりと雷蔵に尋ねた。雷蔵は顔を上げた。最初に三郎と過ごしたのと同じ、校庭の木の下だった。雷蔵は無意識の内に笑顔になった。三郎が、自分のしていることに興味を持ってくれたのが嬉しかった。

「図書室で借りた、歴史の本。でも難しくて、読めないところもあるんだ」

 雷蔵は本を閉じて、表紙を掲げて見せた。本当はまだ一年生が読むような本ではないのだけれど、雷蔵は同じ委員の先輩の真似をして一生懸命それを読んでいた。すると三郎が、首を傾げる。

「何処?」

「えっ?」

「何処が読めない?」

 そう言って、三郎は雷蔵の手から本を取って、ぱらぱらと頁をめくった。

「分からないところ、教えてあげるよ」

「本当?」

 雷蔵は、声を弾ませた。もしかしたら読めないことを笑われるかも、と思っていたけれど、笑われなかった。その上、分からないところを教えてくれるだなんて。

「ええと、あのね、こことか」

 雷蔵は三郎の手の中にある本を覗き込み、墨で書かれた文字をそっと指さした。三郎がその部分に視線を落とし、「ああ、これは……」と説明を始める。

 三郎の声を聴きながら、雷蔵の顔は自然と綻んだ。彼との距離が縮まったような気がして、とても幸せな心地になった。





 それから雷蔵は、本を読んでいて分からない箇所があったら、三郎に尋ねるようになった。本の内容だけじゃなく、勉強だとか忍者に関することだとか、分からないことは何でも訊いた。三郎は、何を訊いてもきちんと答えてくれて、雷蔵は彼の知識にあらためて感服した。本当に、三郎は物知りだ。それに、放課後だけじゃなく、部屋にいるときでも、寝る前でも、雷蔵が質問すれば嫌がらず何でも教えてくれた。

  そして少しずつ、三郎は変わっていった。むら気の多さは変わらないが、訳もなく引っぱたかれることはなくなった。物腰も、出会った頃に比べると随分やわらかくなったし、笑い声を耳にする回数も増えた。

 忍術学園に入学して、約三ヶ月。ようやく雷蔵は、三郎のことを友達だとしっかり実感出来るようになった。三郎は、少し変わり者でくせがあるものの、付き合い方を覚えれば素晴らしい友人だった。

 この調子で、組のみんなとも仲良くなってくれれば……。

 雷蔵は、そう考えていた。しかし、現実はそう順調にはいかないのであった。