■開花の音 07■


 学級委員長、鉢屋三郎の初仕事は、意外に早くやって来た。

  その日、教科担当の先生が急用で外出することになり、講義の時間がまるまる自習となったのだ。

「それじゃあ三郎、後は頼んだぞ」

 先生は早口で三郎にそう告げると、慌ただしく教室から出て行った。

  教室の戸が閉まった瞬間、一年ろ組の生徒たちは、わあっと一斉に歓声をあげた。ひとりが立ち上がり、「将棋しようぜ!」と言い出す。教室の片隅では早くも箒を使っての剣術ごっこが始まっていた。皆が思い思いに遊び始め、教室内は、たちまち騒がしくなった。

 雷蔵は、忍たまの友を握り締めておろおろと周りを見回した。自習だからといってこんなに騒いでいては、他の組の先生に聞きつけられてしまう。学級委員長に、この場を収めてもらわないと。そう思って隣の三郎を見たら、彼はすっくと立ち上がった。静かにしろ、とかそういうこと言うのかなと雷蔵は期待していたのだが、三郎は騒ぐ級友たちには目もくれず教室から出ようとした。雷蔵は驚いて、彼の元に急いだ。

「ま、待って、三郎!」

 三郎が廊下に出たところで追いつき、腕を掴んで引き止める。彼は静かにこちらを向いた。

「三郎、何処に行くの」

「此処はうるさいから、何処か静かなところに行く」

 三郎からの答えに、雷蔵は眉を寄せた。

「自習なのに」

 呟くと、「静かなところで自習するよ」と少し苛立ったような口調が返って来た。

「それは良いけれど……でも、三郎は学級委員長なんだから、みんなをまとめないと、駄目、なんじゃ……」

 雷蔵の声は、どんどん小さくなった。今日は朝から、三郎に小言ばかりを言っている。もういい加減、三郎も嫌になっているに違いない。面で顔は見えないが、そんな気がした。自分が逆の立場だったら、一日に何回も口うるさくあれこれ言われたら絶対に疎ましく思う。だけど雷蔵だって、言いたくて言っているわけではない。

 雷蔵は下を向いて、言葉を探した。雷蔵も三郎も嫌な思いをしなくて済む、上手い言い方はないものだろうかと、あれこれ頭を悩ませる。しかし周囲の喧騒に思考がかき混ぜられて、何も思い浮かばなかった。

「ねえ、雷蔵」

 やけに優しい声音で、三郎が雷蔵の名を呼んだ。顔を上げると、思ったよりも近くに三郎の顔があって、のけぞりそうになった。今日の三郎は、平らな木に「へのへのもへじ」が彫られている、雑なつくりの面をつけている。

「おれはもう、今日はじゅうぶん雷蔵の願いを聞いたよ。だから今日は、きみのお願いは、おしまい」

 その言葉に雷蔵は、まるいまなこを瞬かせた。彼の言い分はおかしい、とすぐに思った。何かが違う。それは分かるのに、口から漏れるのは空気ばかりで、肝心の声と言葉が出て来なかった。

「じゃあ、雷蔵。また後でね」

 そう言って、三郎は雷蔵の肩を軽く叩いた。そしてそのまま、廊下を歩き出そうとする。雷蔵は彼に向かって、咄嗟に手を伸ばした。三郎は軽く身体をずらしてかわし、足を出して雷蔵の足を引っかけた。

「わあ!」

 雷蔵の視界が反転する。ごつん、と廊下の床に額をしたたか打ちつけてしまった。あまりの痛さに、涙が出そうになる。それをどうにか歯を食いしばって耐え、手で額を押さえながら顔を上げた。

「三……っ」

 三郎の名を呼ぼうとしたが、彼はもう、何処にも居なかった。雷蔵は廊下に座り込んだまま、どうしよう、としばし途方にくれた。

  やっぱり、三郎が分からない。優しいと思ったら冷たくなる。歩み寄ってくれたかと思ったら、突き放される。何なのだろう。鉢屋三郎は、一体何なのだろう。

 雷蔵は三郎を捜しにゆこうかと少し迷ったが、結局教室の中に戻った。床で打った額はまだ痛い。これ以上、三郎の機嫌を損ねたくなかった。初めて会ったときに、容赦無く頬を張られたことを思い出す。三郎は怒りっぽいわけでもないのに、乱暴なところがあるのだと分かった。三郎にものの道理を教えると決めたけれど、その度にこんな風に痛い思いをしなくてはいけないのだろうか。雷蔵は気が重くなった。

 教室の中は、笑い声と歓声で満ちていた。それを見て、雷蔵の心は更に沈む。皆、仲の良い級友たちと笑い合っている。友達とは、こうあるものだ。自分と三郎は、一体何なのだろうと思う。

  それに今は授業中なのだから、三郎は学級委員長としてこの騒ぎを止めなくてはならないはずだ。先生に後のことを託されたのだから、責任を持ってその役目を全うするべきである。それなのに三郎はひとりで勝手に行動して、しかも、「今日はじゅうぶんに雷蔵のお願いを聞いたからおしまい」ときた。確かに雷蔵は三郎にお願いをしたけれど、それは彼のためを思っての「お願い」であって、別に雷蔵自身の都合だけで言っているわけではないのに。学校の決まりを教えただけで、どうしてこんな態度を取られなくてはいけないのだろう。

 三郎を前にしたときは真っ白だった頭の中に、次々と彼への不平が浮かんできた。何故これを、三郎がいたときに言えなかったのだろうと思うと、また雷蔵の気持ちは重苦しくなった。

 ほどなくして、「おまえら、静かにせんかあっ!」という怒号と共に、ろ組の騒ぎを聞きつけた一年い組の木下鉄丸先生が教室に飛び込んできた。木下先生の顔と声はとても怖くて、ろ組の面々はすくみ上がった。

「ろ組は今、自習時間のはずだろう! ここの学級委員長は誰だ!」

 ろ組の生徒たちは皆、無意識に背筋を伸ばして直立不動の体勢を取っていた。勿論、雷蔵もである。木下先生が気を付けと言ったわけでもないのに、何故か自然とそうなってしまう。

「……学級委員長は、鉢屋三郎です」

 誰かが、怯えた声で言った。すると木下先生は「あいつか!」と、苦い顔になった。それから顔を強張らせる生徒たちを順番に見つめ、顎を撫でる。

「……で、その鉢屋三郎は何処だ。どうして、学級委員長が居ない」

 皆は、めいめい顔を見合わせた。彼らはこのとき初めて、三郎がいないことに気が付いたようだった。

「雷蔵が、知ってると思います」

 誰かのひとことに、雷蔵はぎょっとした。そんなこと言われても困る。しかも他の皆も一様に、うんうん雷蔵ならきっと知ってるよ、という風に頷いていた。

「雷蔵、三郎は何処だ」

 木下先生が、雷蔵の顔を見つめる。血走った目が、ごつごつとした頬骨が、心底恐ろしかった。すぐさま、この場から逃げ出したくなる。

「わ、分かりません……」

 雷蔵は、上擦った声で答えた。三郎の居場所を知らないことが、何やらとてつもない罪悪のように感じられる。木下先生は、鋭い牙のような歯の隙間から息を吐き出した。

「それじゃあ全員で三郎を探して、職員室まで連れて来なさい。全員揃ってから反省文を書かせる。終わるまで夕飯は抜きだ」

 容赦のない木下先生の言葉に、ろ組の面々は泣きそうな顔になった。雷蔵も泣きたかった。

「ほら、さっさと探しに行け!」

 木下先生の怒鳴り声が響き渡り、生徒たちは逃げるように教室を飛び出した。

「また、三郎を探さないといけないのかよ」

「まあ、騒いでたおれたちも悪いんだけどね。それにしたって、こう立て続けだと参るよなあ」

 級友たちの会話に、雷蔵の胸はずきりとなった。彼らは、すぐにふらりと姿を消す三郎に嫌気が差しているようだった。無理もないことである。雷蔵だって、正直少しうんざりしている。

「……でも、三郎にだって良いところはあるんだよ」

 雷蔵は思わず、必死になって言った。先程までは三郎に腹を立てていたけれど、こうやって他の皆に悪く言われると悲しくて、彼のことを庇いたくなってしまう。三郎が周囲を振り回す変わり者であることは事実だが、雷蔵を慰めるためにびわを取ってきてくれたりと優しいところがあるのもまた事実だ。雷蔵はそれを、同じ組の皆にも知って欲しかった。しかしどうやら、雷蔵のそんな気持ちは彼らには伝わっていないようだった。

「良いよ良いよ、そんな無理しなくて」

「雷蔵も、厄介な奴と同室になっちゃったよなあ」

 級友たちは雷蔵を慰めるように、肩や背中を軽く叩いてきた。雷蔵は「いや、だけど、本当に」と更に言葉を続けようとするが、彼らは取り合ってくれなかった。

「それよりも、さっさと三郎を見付けようぜ」

「なんせ、全員揃って反省文を書くまでは、夕飯にありつけないんだもんな」

 そう言って彼らは雷蔵から離れて行ってしまう。雷蔵は、今日何度目か分からないため息をついた。





 陽も暮れかかった頃、三郎は櫓の上で見つかった。それから全員で反省文を書き、ようやっと夕食にありついた。しかし三郎だけは居残りで木下先生からお小言を貰っていたので、夕食には間に合わなかった。

  今日のことは三郎ひとりが悪いわけではないので、雷蔵はそれがとても忍びなかった。色々と腹が立つことはあったけれど、ひとりだけ夕食抜きでざまあ見ろ、などと思うことは出来ない。それで彼は飯の半分をこっそり残して握り飯にし、部屋で三郎が帰ってくるのを待った。

 三郎は、夜遅くになって部屋に戻ってきた。握り飯を手渡すと彼はしばし沈黙し、それから「ありがとう」と言った。 流石の三郎も、あの木下先生に説教には気が滅入ってしまったのだろうか。やけに素直な声音だった。雷蔵は、彼が気の毒になった。

「……雷蔵は、優しいね」

 握り飯を見つめ、三郎がそんなことを言った。雷蔵は、えっと声をあげた。

「あ、ありがとう」

 どう答えて良いのやら迷いつつも、とりあえず礼を言っておいた。それからふと、あることに気が付く。

「……でも、そういうところも、忍者に向いてないのかな」

 恐る恐る、三郎に尋ねてみた。三郎が優しく接してくるときは、直後に手のひらを返したように冷たくなることが多いからだ。しかしこのときの彼は、「ううん」と静かに首を横に振った。

「良いと思うよ」

 三郎は静かに言った。優しい口調のままだった。雷蔵は驚くやら戸惑うやら照れくさいやらで、返事をすることが出来なかった。