■開花の音 05■


 気が付いたら、雷蔵は布団の中にいた。薄暗い中、覚えのある行李やら文机が見える。自分の部屋だ。今は夜明け近くだろうか、と雷蔵はぼんやり考えた。

  布団から手を出したら、何かに触れた。顔をそちらに向けてみる。びわであった。雷蔵は数回瞬きをした。

「そうだ……。三郎が、くれたんだ」

 呟きながら半身を起こし、びわを手に取った。同時に、三郎の無事が確認出来たことにほっとして、そのまま気を失ってしまったんだ、ということも思い出した。

 泣かせてしまったから、と三郎は言っていた。彼から、そんな気遣いを受けるとは思っていなかったので、驚いた。しかし気持ちは嬉しいけれど、何もわざわざ夜に黙って裏山まで出掛けなくても良いのに。好意は本当に本当に有難い。だけど、どうにも困ってしまう。昨日の騒動に巻き込んでしまったすべての人に、申し訳ない気持ちになった。

 そのとき、静かに障子が引かれる気配がした。見ると、忍び装束のままの三郎がそこに立っていた。

「三郎……」

「雷蔵、大丈夫? 急に倒れるから、びっくりした」

 三郎は部屋の中に入って来て、雷蔵の傍らに腰を下ろした。それから、雷蔵の額に手を当てる。 倒れたのはきみのせいじゃないか、と言いたくなるのを、雷蔵はぐっと我慢して「大丈夫だよ」と小さく答えた。

「三郎は、今まで何処に行っていたの」

「学園長先生の庵で、お説教。しかも明日から十日間、罰として庵の掃除だって」

 三郎は肩をすくめた。どうやら彼は長時間のお小言にも堪えていないらしいということが、態度から窺えた。面倒くさいな、くらいにしか思っていないに違いない。彼はまたこういうことを繰り返すんじゃないだろうか、と雷蔵は恐ろしい心持ちがした。その度に、皆を巻き込んでの騒ぎになってしまってはかなわない。それだけでなく、もし三郎の身に何かがあったら。

「あの、三郎」

 何か言わなくては、と口を開いてみたものの、その後が続かない。一体、どう言えば伝わるだろう。学園長先生が言っても駄目なのに、雷蔵の言葉で彼にものの道理を教えることが出来るのだろうか。

「……もう、突然いなくなったりしては駄目だよ」

 雷蔵はそう言って、三郎の手をぎゅっと握った。この手を掴んでいないと、すぐまた何処かに行ってしまいそうだ。

 三郎はしばし黙って、繋がった手と手を見つめていた。それから顔を持ち上げて、こう尋ねる。

「びわ、気に入らなかった?」

 雷蔵は、えっ、と声を上げた。慌てて、首を横に振る。

「ううん、そんなことないよ! 凄く嬉しい。三郎、有難う。それに、あの、ぼくこそ詰まらないことで泣いたりして、ごめん」

 あたふたと言い募ると、三郎が力を込めて雷蔵の手を握り返してきた。

「雷蔵はちゃんと、忍者になれるよ」

 その言葉を聞いて、雷蔵の胸は大きく震えた。今まで聞いたなかで、いちばん優しい声だった。頬が一気に熱くなる。胸の中が何やらむずむずした。三郎は少し変わっているだけで、根は良い奴なんだ、と思った。

 彼はぼくの知らないことを沢山知っているけれど、その反面物凄く当たり前のことを知らなかったりする。だからそういうことは、自分が教えてやろう。

 雷蔵は心の中で、そんな決意を固めた。

「日が昇るまでまだ時間があるよ。もう少し寝ていなよ、雷蔵」

 三郎がそう言うので、雷蔵は「うん」と頷いた。握り締めていた手を離すと、三郎の手がするりと抜ける。三郎は、そっと雷蔵に布団をかけてくれた。

「おやすみ、雷蔵」

 雷蔵に顔を近づけて、三郎は囁いた。それが合図のように眠気がどっと襲いかかってきて、何を考える暇もなく眠ってしまった。





 よく晴れた、気持ちのよい朝が訪れた。雷蔵は身体を起こして大きく伸びをして、隣の布団に視線を移した。そして、次の瞬間息を呑んだ。

  いない。三郎がいない。三郎の布団は空っぽであった。

「三郎!」

 雷蔵は、勢いよく布団を跳ね上げた。いなくなっては駄目だと言ったばかりなのに、と泣きたくなってしまう。急いで井桁模様の装束に着替えて、部屋を飛び出す。それと同時に、早く目が覚めて先に顔を洗いに行っているだけかもしれない、ということに気が付いた。なので、雷蔵は水場に向かうことにした。

 水場は、寝ぼけ眼の一年生たちで賑わっていた。皆一様に、「昨日の騒動のせいで眠れなかった」というようなことをぼやいていて、雷蔵は息苦しさを覚えた。そして、此処にも三郎の姿はなかった。いよいよ雷蔵の不安は大きくなる。級友たちに三郎の所在を尋ねたかったが、彼の話題を出しづらい雰囲気であったので、雷蔵は逃げるようにその場をを離れた。

 続いて食堂に走り、そこでも三郎は見つからなかったので教室にまで行ってみたが、やはりあの風変わりな友人の姿は見えなかった。

「何処に行ったんだよ、三郎……!」

 雷蔵は思わず、教室の戸の前で座り込んでしまった。涙が出そうだ。昨日あんな騒ぎを起こして、学園長先生に説教もされて、罰まで受けているのにどうしてまたいなくなってしまうのだろう。彼の行動は、予想も理解も出来ない。

 雷蔵は涙をぐっと呑み込んで、立ち上がった。そのまま校舎を出てみたものの、これからどうするかが決まらない。先生に相談すべきか、それとももう少し自分で探してみるべきか。昨日の今日であるので、出来ればおおごとにはしたくなかった。こっそり雷蔵が見付けることが出来れば、それが一番良い。ああ、何だって三郎はこうなんだろう。雷蔵は地団駄を踏みたくなった。良い奴だと思ったら、これだ。

 目的地の定まらないまま歩いていると、上級生に手を引かれて歩く……というよりは引きずられているような格好の三郎の姿を見付けた。

「三郎!」

 雷蔵は叫んで、彼の元に急いだ。

「三郎、何やって……」

「おまえ、こいつの友達か?」

 頭上からの低い声に、雷蔵は顔を上げた。随分と高いところに相手の顔がある。そして彼の纏う装束の色を見てぎょっとしてしまった。深い緑の装束。六年生だ。六年生と三郎。嫌な予感しかしない。三郎は一体、何をやらかしたのだろう。

「あ、あの、彼が何かしましたか?」

 雷蔵はおそるおそる言って、三郎の装束をつかんだ。それを見て、六年生は三郎から手を離した。

「こいつ、昨日失踪騒ぎを起こした奴だろう?」

 面白そうな口調の六年生に、雷蔵は返事が出来なかった。六年生も昨夜の騒動を知っているんだと思うと、恥ずかしくて仕方がない。

「そいつがさっき、塀をよじ登って外に出ようとしていたから、とっつかまえておいた」

 雷蔵は悲鳴をあげそうになった。なんてことだろう。雷蔵の嫌な予感は当たっていた。思わず三郎の方を見たが、彼は何も言わない。

「毎年変な奴が入学してくるのはお約束だけど、こいつはとびきり変だな。おまえ、ようく面倒見とけよ」

 六年生は雷蔵に向けて軽く笑い、三郎の背中を軽く押した。

「す、すみませんでした……!」

 雷蔵が深く頭を下げ、 「ほら、三郎も謝れよ」と三郎の装束をぐい、と引いた。

「もういないよ」

 三郎は、憮然とした声で言った。えっと思って雷蔵が視線を戻すと、確かに六年生の姿は消えていた。流石六年生は忍者だなあ、と雷蔵はため息をついた。しかしすぐに我に返る。感心している場合ではなかった。

「三郎……! 駄目じゃないか」

 雷蔵は三郎と向かい合わせになって、必死に言い募った。しかしどうにも、彼に響いているという感触がない。面のせいで、ちゃんと聞いているのかどうかも分からない。雷蔵はやきもきしてしまった。

「それに、突然いなくなったりしないでくれ、って言ったばかりじゃないか」

 そう言うと、三郎は不思議そうに首を傾けた。

「授業が始まるまでには、戻ってくるつもりだったよ」

「そういうことじゃなくて……」

 雷蔵は途方にくれて、力無く首を横に振った。そうすると、三郎は深く頷いてこう言った。

「次は、上級生に見つからないよう工夫するよ」

「違うよ、三郎。そうじゃない、そういうことじゃないんだよ……」

 雷蔵はうつむいた。自分の言いたいことが全く伝わらないのが、もどかしくて仕方がない。

「……そもそも、ぼくたちは許可なく学園の外に出てはいけないんだよ。入学前に説明されたろう」

「どうしていけないの」

 三郎は、不思議そうに聞き返してきた。大前提を理解してもらうところからつまづいてしまって、雷蔵は諸手をあげたくなった。しかしここでめげてはならない。ものの道理を三郎に教えると決めたばかりなのだから。

「だって、何かあったら困るじゃないか。昨日大騒ぎになったこと、忘れたのか。学園長先生に、沢山叱られたんだろう」

 ついつい言葉に熱が入って、雷蔵は拳を握り締めた。すると三郎は「ああ」と呟き、後頭部を掻いた。

「あの説教なら、ほとんど聞いてなかった」

 ここで三郎と相対していたのが別の人間だったら、とっくに怒り狂っていたことだろう。しかし雷蔵は性根が穏やかで、そして忍耐強かった。怒るよりもどうにか分かってもらおうと、懸命に言葉を選ぶ。

「三郎……。みんな、すごく心配したんだよ。生徒も先生も一緒になって、ずっと三郎を捜していたんだから」

 そう言うと、「きみも?」という言葉が返ってきたので、雷蔵は即座に首を縦に振った。

「当たり前じゃないか。ぼくが一番心配したよ」

 早口でそう言うと、三郎は口を閉じて沈黙した。

「お願いだから、黙って学園の外に出たりしないでくれ。外出するときは、外出許可をもらってからにしよう。ね、三郎。お願いだから」

 雷蔵は両手で三郎の肩を掴んで、泣きそうになりながらそう言った。決まりごとを教えるというよりは、もはや懇願であった。

「……分かったよ」

 とうとう、三郎は頷いた。それで雷蔵はほっとして、深く深く息を吐いた。良かった。やっと分かってくれた。やっと、安心することが出来る。しかしそれと同時に、こんな当たり前のことを分かってもらうのにこれだけ苦労して、これから先やっていけるのだろうか、という気もした。