■開花の音 04■


 三郎がいなくなってしまったので、雷蔵は八左ヱ門と一緒に夕飯を食べた。八左ヱ門は雷蔵が泣くのを見ていたらしく、何があったんだと心配されてしまってどうにもきまりが悪かった。よくよく考えたら、いくら忍者に向いていないと言われたからって、何も泣くことはなかったんじゃないかとひどく後悔をした。小さな子どものように泣き声をあげてしまった自分の姿を思い返すと恥ずかしく、頬が熱くなった。

 それにしても、三郎は何処に行ったのだろう。雷蔵に呆れて、先に部屋に戻ってしまったのかもしれない。後で彼に会ったら、あんな騒ぎにしてしまってごめん、と謝っておこう。




 夕食を終えて部屋に戻ってみても、室内に三郎の姿はなかった。風呂に行ったのかな、と思って浴場に向かってみたが、そこにも三郎はいなかった。本当に、何処に行ってしまったのだろう。雷蔵は首をかしげつつ、装束をぽいぽい脱ぎ捨てて風呂に入った。このときはまだ、三郎の不在を大事と捉えてはいなかった。三郎はいつもふらふらしている印象だし気分屋だから、学園の中を散歩しているのだろう、くらいにしか考えていなかった。

 雷蔵が不安を覚え始めたのは、消灯の鐘が鳴り響いた頃だ。まだ、三郎は帰って来ていない。夕食のとき以来、一度も姿を見かけていないのである。こんなことは、今まで一度だってなかった。普段は、消灯の時間には必ず部屋に戻ってきていたのに。

「ど、どうしよう」

 雷蔵は、おろおろと辺りを見回した。探しに行くべきだろうか。しかし、彼の居場所は何処なのか、皆目見当もつかない。

 雷蔵は駆け足になる心臓を着物の上から押さえて、部屋の戸を開けた。濃紺の夜空に、大きな満月が浮かんでいるのが見える。初夏とはいえ、夜の空気はまだ冷たかった。雷蔵は廊下に一歩足を踏み出して、三郎が帰って来ないかと左右を見渡した。しかし長屋の廊下は静まりかえっていて、人影も見えなければ足音も聞こえなかった。雷蔵は、いよいよ心配になった。忍者は夜が本領だと言うけれど、まだ入学して間もない彼らは夜間の無断外出は禁止されている。こんな時間まで戻らないなんて、三郎に何かあったのではないか。

 どうしよう。こういうときは、一体どうしたらいいのだろう。

 気持ちだけがはやって、雷蔵はその場で足踏みをした。すぐさま探しに行くべきか、このまま待つべきか。同級の誰かが、三郎の姿を見かけていないだろうか。雷蔵は聞き込みに出掛けようとしたが、先程消灯の鐘が鳴ったのだと思い出して踏みとどまった。消灯後に出歩いていることがばれたら、叱られてしまう。いやだけど、もしかしたら緊急事態なのかもしれないし。ああ、ああ、どうしよう。

 考えがまとまらないまま、じりじりと時間が過ぎていく。部屋の前で右往左往していると、こちらに近付いてくる誰かの足音が聞こえた。

「三郎っ?」

 声をあげて顔をそちらに向けてみたら、歩いて来る人影は随分と大きかった。手元がほの明るい。夜間見回りの先生だ。雷蔵は落胆して、肩を落とした。

「何をやっているんだ? 消灯の鐘はもう鳴っているぞ」

 雷蔵の前までやってきた先生は、手にした明かりを軽く振った。名前は知らないが、随分と若い先生だった。その先生と目が合った瞬間、そうだ先生に相談すれば良いんだ、ということに思い立った。そんな単純なことに、どうして今まで気が付かなかったのだろう。

「あ、あの、先生。同室の鉢屋三郎が、戻ってなくって、それで、何処に行ったのかが分からなくて……」

 初めて相対する先生にいささか緊張して、語調がたどたどしくなってしまう。雷蔵の言葉を聞いて、若い先生は目を見開いて「何だって!」と大きな声を出した。その勢いに驚いて雷蔵は全身を強張らせた。

「一体、いつから姿が見えないんだ」

「ゆ、夕食のときから……」

「大変だ……!」

 若い先生は大慌てで、何処かに走って行ってしまった。

 そこから先は、大変な騒ぎだった。教師陣と一年ろ組の生徒全員とで、行方不明となった鉢屋三郎を捜索することとなった。先生たちは手分けして校内を、ろ組の生徒は長屋の付近を探していたのだが、寝入りばなを叩き起こされた級友たちは概ね機嫌が悪かった。

「あいつ、何時かはこういうことやりそうだと思ってたけど、何もこんな夜中にやらなくて良いのに」

「迷惑な奴だよなあ……」

 そんな文句がしばしば雷蔵の耳にも入って来て、彼は自分が責められているようで大層胸が痛かった。自分がもっと早く、先生に報告していれば良かったのだ。どうしよう。三郎に何かがあったらどうしよう。

「三郎、三郎! 何処にいるんだよ!」

 黙っていると泣きそうになるので、雷蔵はめいっぱい声を張り上げて三郎を呼んだ。級友たちも、夜闇に向かって三郎の名を呼びかける。そうしていると他の組の生徒も起き出してきて、ますます騒ぎは大きくなっていった。

「三郎! 三郎!」

 何度も叫んでいる内に、段々と声が掠れてきた。もう随分と、長屋から離れて来てしまった。だけど三郎は、一向に見つからない。そばを通りかかった先生たちが、

「北の演習場付近にもいないと……」

「もし森に入っていたら、あそこには上級生が授業で使った罠が……」

「これ以上手がかりがないようなら、学園総出で……」

 なんて話をしているのが聞こえて来て、不安で胸が締め付けられるようだった。

 三郎、三郎、本当に何処に行ったんだ。夕食のときのことを怒っているなら謝るから、早く帰って来てくれ! 何でも良いから、とにかく無事で! 早く!

 雷蔵は心の中で叫んだ。きつく奥歯を噛み締め、顔中の筋肉を総動員して涙を堪える。

「三郎……っ」

 もう、絞りかすみたいな声しか出ない。よろよろと足を踏み出すと、側に生えていた茂みから小さな人影が素早く飛び出して来た。月明かりに照らされて、翁のお面がほの白く浮かび上がって見える。

「三、郎……?」

 雷蔵は倒れ込むように、三郎の腕を掴んだ。細くて柔らかな感触が、はっきりと手のひらに残る。三郎だ。本物だ。生きている。雷蔵はたまらずに、三郎に抱きついた。彼は随分と土で汚れているようで、触れた部分がざらついた。

「三郎、今まで一体何処に……!」

 半分涙声になりながら言うと、三郎は懐を探り、何かまるいものを取り出して雷蔵の手の中に押しつけた。

「え……? 何、これ」

 雷蔵は瞬きをして、手にのせられた何かを見つめた。しかし暗くて、よく見えない。戸惑っていると、三郎は雷蔵のもう片方の手にもまるいものを置いた。手の中にすっぽりと収まるくらいの大きさで、どうやら果物のようだった。

「びわ、だよ」

 三郎は言って、小さく首を傾けた。

「びわ……? 何で……?」

「裏山に、沢山びわの木があるんだ」

「だから、何で……」

「さっき、泣かせてしまったから」

 雷蔵は口をぽかんと開けた。

 つまり、先程三郎の言葉で雷蔵が泣いてしまったことを彼なりに気にしていて、お詫びのためか慰めのためか分からないけれど、少なくとも雷蔵への好意でびわを取ってくるために今の今まで行方をくらませていた、というわけだ。

 雷蔵がそこまで理解するのに、随分と時間がかかった。思考がいつもの何倍も鈍くなって、少しずつしか三郎の言葉が頭に入って来ない。

「それで、びわ……」

 雷蔵は呆然として呟いた。そしてその瞬間身体の力がいっぺんに抜けてしまって、ぐらりと身体が大きく傾いた。倒れそうになる雷蔵の身体を、三郎が素早く受け止める。

「雷蔵、どうしたんだ。大丈夫?」

 三郎は雷蔵の顔を覗き込んだ。お面の奥で彼がどんな表情をしているのかは相変わらず計り知れないけれど、三郎はどうやらこの状況を全く理解していないようだった。雷蔵は、なんと言えば良いのか分からなかった。様々な感情が渦巻いて、頭の中は大混乱だ。

「さ、三郎、怪我とか、してない……?」

 ようやっと、それだけ言えた。三郎は雷蔵の身体を抱えた格好のまま「してないよ?」と答えた。どうしてそんなこと聞くのか、とでも言いたげな調子であった。それを聞いて雷蔵は、今度こそ身体の中の幕が全部降りてしまったようになって、三郎の腕の中で意識を手放した。