■開花の音 01■


 不破雷蔵は新品の忍び装束を胸に抱き、一年生長屋に割り振られた自分の部屋へと急いだ。彼が走るのに合わせて、脂気の少ない髷がひょこひょこと揺れる。

 本日より雷蔵は、忍術学園の生徒となる。忍者の勉強って、どんなのだろう。一緒に学ぶ同級生たちは、どんな奴だろう。雷蔵の胸は希望で満ち満ちていた。今日から始まる新しい生活は、きっと素晴らしいものだと確信していた。

 雷蔵は、自分の部屋の前で立ち止まった。「雷蔵」と書かれた札の下に、「三郎」という札が下がっている。さぶろう、と雷蔵は声に出して発音してみた。それがどうやら、同室の生徒の名前らしい。胸がどきどきしてきた。これからずっと一緒に過ごすのだから、気が合うと良いな。

 そんなことを考えながら、障子を引いた。中は薄暗かった。三郎はまだ来ていないのだろうかと思いつつ、部屋に一歩足を踏み入れる。すると、部屋の隅に誰かが座っているのが見えた。こちらに背を向けて、ちょこんと正座をする小さな人影。

「……きみ、三郎?」

 問いかけてみても、返事は返って来なかった。しかし彼は井桁模様の忍者装束を身につけているし、この部屋にいるということは彼が三郎で間違いなさそうだ。

「ぼく、不破雷蔵。今日から同室だね、よろしく」

 やはり、三郎は何も言わない。それどころか、壁に向かったままぴくりとも動かない。雷蔵は、首をかしげた。

「ねえ、どうして何も言わないの? こっち向きなよ」

 そう言って三郎に近付き、彼の肩に軽く手を置いた。すると彼はゆっくりこちらを向いた。その顔は人のものではなく、真っ赤な鬼の形相であった。その顔を視界に捉えた瞬間、雷蔵の全身の毛穴がいっせいに開いた。

「う、うわあああっ!」

 恐怖と驚きで、雷蔵はしりもちをついてしまった。身体ががくがくと震え出す。何故こんなところに鬼がいるんだ。雷蔵は、食われてしまうのだろうか。立派な忍者になろうと決意したそばから、鬼に食われてしまうなんて。

  ゆっくりと立ち上がった鬼は、しばし雷蔵を睨み、やがて「ぷっ」と吹き出した。

「あっはははは!」

 鬼は身体を折り曲げ、甲高い声で笑い出す。そしてそこでようやく、鬼の顔はお面であることに雷蔵は気が付いた。からかわれたのだと理解し、顔が熱くなる。

「な、何だよ! いきなり、失礼じゃないか」

 よく見ればお面であることは一目瞭然なのに、みっともない声をあげてしまったことが恥ずかしく、雷蔵の声は自然と尖ったものになった。

「ごめんごめん」

 鬼こと三郎は、笑い声混じりに言って手を振った。それから身体を屈めて、鬼の顔を雷蔵に近づける。

「おれは鉢屋三郎。今日から、よろしく」

 そう言って、三郎は右手を雷蔵に差し出した。

「う、うん、よろしく」

 雷蔵は立ち上がり、三郎の手を握った。白くて細い手であった。しかし彼は鬼の面をかぶったままなので、落ち着かないことこの上ない。

 どうも、変わった奴と同室になってしまったようだ。雷蔵は、早くも不安になり始めた。いや、だけどこれからずっと寝食を共にするのだから、歩み寄っていかないと。

「……ねえ。そのお面、取りなよ。顔を見せてよ」

 雷蔵は努めて明るい声で、三郎の面に手を伸ばした。そのとき視界の端に、三郎が手を振り上げるのがちらりと見えた。直後、耳元でばちん、と大きな音がして、頬に強い衝撃が襲ってきた。一瞬遅れて、鈍い痛みが顔に広がる。頬を張られたのだという認識は、もう一瞬の後にやって来た。雷蔵は訳が分からなかった。へなり、と腰が床に落ちる。頬に手を当てた。熱い。痛い。何で?

「何……三郎、何で……」

 呆然として、三郎の姿を見上げた。こんな風に、突然暴力を振るわれるとは思っていなかった。

「駄目だよ」

 三郎は淡々とした口調で言った。雷蔵は、胸の底がすうっと冷えてゆくのを感じた。三郎が右手を持ち上げる。また打たれるのではないか思い、雷蔵は肩をすくめて咄嗟に目を閉じた。三郎は、雷蔵の肩にゆっくりと手を置いた。一向に痛みやら衝撃やらがやって来ないので、雷蔵はおそるおそる瞼を上げた。すると鼻先に鬼の面をかぶった三郎の顔が迫っており、雷蔵は再び悲鳴をあげそうになった。

「駄目だよ、雷蔵」

 三郎は雷蔵の耳元でひくく囁いた。その冷たい響きと鬼のぎょろりとした目が大層恐ろしく、雷蔵はごくりと唾を呑み込んだ。

 これが、不破雷蔵と鉢屋三郎の出会いであった。