■壁際より愛らしきものをこめて 前編■
わたしは衝立である。
職人の手で作られ、本日、忍術学園というところに運ばれて来た。いやはや、ここは広い。わたしの生まれた工房もなかなかに広い場所であったが、桁外れである。敷地の中に建物が沢山あって、緑も多い。山まである。空気は美味いし、景観もなかなかだ。わたしはすぐにここが気に入った。
屈強な体つきをした馬借の男が、わたしを担いで歩く。先導する黒装束の男によると、わたしは五年長屋とかいう場所の一室に運び込まれるらしい。先代の衝立は、あろうことかその部屋に住んでいた男に破壊されてしまったとか。それで、代わりにわたしが呼ばれたということだ。
わたしは、先代の無残な最期を思ってぞっとした。衝立を破壊するなんて、どんな輩だ。にわかに不安が心を覆う。まだ生まれたばかりなのに、わたしまで壊されてしまったらどうしよう。わたしは男の背で、小さく震えた。
しかし、わたしの心配はどうやら杞憂のようだった。先代の衝立を寝ぼけて蹴り殺したという粗忽者は、この春から六年に進級するので部屋が変わるらしい。そして、次にその部屋を使う者たちは荒々しい気質ではないから今度は大丈夫だろう、と黒装束の男が話していた。わたしはほっとして、息を吐き出した。
「ああ、この部屋です」
黒装束の男は、とある部屋の前で立ち止まった。わたしはさりげなく視線を持ち上げて、戸口に掛かっていた名札を確認した。
鉢屋 不破
これが、わたしの主となる者たちの名前らしい。わたしはその名を、胸に刻み込んだ。
「部屋の真ん中に置いて下さい」
障子を開け放ち、黒装束の男は馬借に指示をする。部屋の中は薄暗く、がらんとしていた。まだ、鉢屋と不破はこの部屋に来ていないらしい。
「部屋をふたつに仕切るわけですね」
「難しい年齢ですからな」
「まあ、同じ釜の飯を食う仲とはいえ、知られたくないことや見られたくないこともあるでしょうしなあ」
うんうんと頷きつつ、馬借はよいしょとわたしを背から下ろし、部屋の丁度真ん中に配置した。
「いやはや、ご苦労様でした。あちらでお茶でも如何ですか」
「そいつはありがたい。頂きます」
男たちは談笑しつつ、部屋から出て行った。静かに、障子が閉められる。わたしは、部屋にひとりとなった。
成程、わたしの役割が分かった。わたしはこの部屋を、二つに分かつ境界となるのである。同じ部屋に住むふたりの、お互いの秘密を守るのがわたしの仕事というわけだ。なかなかやり甲斐がありそうだ。わたしは胸を張って、部屋の真ん中に立った。そして、不破と鉢屋とはどんな者たちだろうと考えた。わたしを丁寧に扱ってくれるだろうか。そしてわたしを中心に、右と左に分かれたこの区画の、どちらを誰が使うのだろう。そんなことを考えながら、主が来るのを待った。
そして数日の後、この部屋の住人たちがやって来た。
「ここが新しい部屋だな」
「わあ、四年のときと比べて、随分広くなったね」
わたしは、おや、と思った。不破と鉢屋はそっくり……というより、まったく同じ顔であった。これは参った。なるべく早めに彼らの顔と名前を覚えなくてはと思っていたのに、これではどちらがどちらだか分からない。
しかも彼らがこの部屋に入って最初にしたことは、あろうことか、わたしを壁際に寄せることだった。ふたりの手で持ち上げられたとき、一瞬、何が起こったか分からなかった。
「聞いた話によるとね、この部屋の衝立、七松先輩が寝ぼけて壊しちゃったんだって」
「あの人はほんとうに獣だな。それで、衝立だけこんなにきれいなのか」
「ぼくたち、衝立使わないのに……何だか申し訳ないね」
「これがあると、部屋が狭く感じるんだよな」
なんだと、と声をあげそうになった。衝立を使わないだと。そんな馬鹿な。話が違う。お互い知られたくないことや見られたくないことがあるから、わたしが必要なのではないのか。しかし彼らはさっさとわたしを壁際に運ぶと、それ以降はこちらに見向きもしなかった。
絶望、という二文字がわたしの脳天を貫いた。ああ、何ということだろう。部屋を仕切るのがわたしの仕事だったはずなのに、彼らはわたしを必要としていないのである。虚しい。何という虚しさだ。それではわたしは一体、何のために作られ、何のためにここにいるのだろう。
「そうそう、三郎。中在家先輩がね、もう読まない本を置いて行って下さったんだよ」
明るい声とともに、不破か鉢屋か、どちらかが手を叩いた。
「中在家先輩が?」
三郎と呼ばれた男が、不満そうに眉を上げた。
「うん、行李の中に入っているって。どんな本を置いて下さってるのかな」
軽い足取りで行李に近付く男の腕を、もうひとりが掴む。それから、彼は憮然とした口調でこう言った。
「……雷蔵。それよりも、持って来た荷物を片付けようよ」
「ええー、少しだけ。何があるか見るだけだから」
「駄目だよ。きみはそう言って、結局日が暮れるまで本に没頭してしまうのだから」
「お前が喜びそうな本もある、っておっしゃっていたよ」
「おれは、絶対に読まないからな」
「全く、相変わらずだな、三郎は。五年になったのだから、少しは大人になりなよ」
「子どもで悪かったね」
「もう、分かったよ。先に片付けをするから、そんなに拗ねるなって」
雷蔵と呼ばれた男はくすくす笑って、もうひとりの肩を叩いた。
結局、荷物の片付けでその日は終了した。夜になり、就寝の際に衝立で部屋を仕切ったりしないだろうかと少し期待したが、彼らはわたしに触れもしなかった。
暗い部屋の中、不破と鉢屋は音もなく眠った。静かである。わたしはこの静寂に押しつぶされてしまいそうだった。こんな壁際で、何をやっているのだろう。今頃、他の部屋では衝立たちがその責務を立派に果たしているのだと思うと、情けなさと悔しさで涙が出そうになる。
明日になれば、彼らの気が変わって衝立を使わないだろうかと思ったが、全くそんな素振りはなかった。その翌日も、さらにその翌日も同じくである。わたしは一ヶ月程で、自分が本来の用途で使われることはないのだと悟った。このひとつきで、不破と鉢屋のことがかなり分かってきたからだ。
まず、彼らの性格だ。鉢屋は神経質で、たまに五月蠅いが、まめに掃除してくれるのでまあ良い。
問題は不破である。この男は物腰がやわらかくて温厚な性格に見えたので、良い主なのかと思ったがとんでもなかった。こやつはとかく大雑把だった。こともあろうに、雨に濡れたり泥で汚れたりした装束や袴を、何気なくひょいとわたしに引っ掛けるのである。信じられない男だ。わたしは衝立であって物干しではない。しかも、ぐちゃぐちゃで汚い着物をだ。わたしはその度に激しい屈辱と怒りをを感じるのだった。
鉢屋はわたしに掛けられた装束に気付くと、すぐにそれを取り除き、
「雷蔵、衝立に汚れた着物を掛けては駄目だって、いつも言っているだろう」
と不破に注意をしてくれる。不破も、言われたときは「そうだった、ごめん」としおらしく謝るのだが、少ししたらまた同じことを繰り返すのである。ここに来てまだ一ヶ月だが、わたしは既に堪忍袋の緒が切れそうだった。今は壁際という位置に甘んじてはいるが、わたしは衝立である。わたしにも矜持がある。
しかし、鉢屋は鉢屋で、非常に厄介な男だった。鉢屋と不破は同じ顔をしているが、それはどうやら、鉢屋が不破の変装をしているらしい。それは良いのだが、とかく雷蔵雷蔵と五月蠅いのである。何処に行くにも、何をするにも雷蔵雷蔵雷蔵である。お前はそれしか言えないのかと思うくらいだ。常に不破につきまとい、ふたりになるとしょっちゅう、雷蔵好きだ好きだ雷蔵雷蔵と繰り返す。不破も、呆れた素振りを見せたり、ときには怒ったりもするが基本的には嬉しそうだった。
要するにこやつらは恋仲なのである。彼らはわたしから見たらどうでも良いようなことではしゃぎ、喜び合い、そしてぶつかり合った。ああだから衝立は必要がないのか、とわたしは納得した。そしてそれは、彼らがこの部屋を使う間はずっと壁際に居なければならない、ということだった。
その事実を受け入れるのには、いくらか時間が掛かった。このまま壁際で何もせずに終わるのなら、いっそ先代のように、寝ぼけた拍子に蹴り殺されようとも、最期まで己の職務を全う出来る方が幸せなのではないかとすら思った。わたしは己の運命を呪った。何故、この部屋に来ることになってしまったのだ。どうして衝立を使わないのだ。
最初の二ヶ月ほどは、そんなことばかりを考えて暗い気持ちで過ごしていた。しかし夏頃になると、いじけているのにも何だか疲れてきた。仕方がないのでわたしは毎日、不破と鉢屋を眺めて暮らした。同じ顔だけれど他人のふたり。彼らの生活を観察するのも、それなりに面白いものがあった。というか、そう思わないとやってられないので、無理矢理思い込んでいた節もあるのだが。
彼らは過酷な日々を送っていた。泥だらけで帰って来るのはしょっちゅうだったし、一体何を浴びればそんな風になるのだというくらいの異臭を放ちながら戻ってくることもあった。怪我をして来ることも日常茶飯事であった。
彼らはよく「今度こそ死ぬかと思った」と言った。外で何をしているのだろうと思う。そのような状況に自ら飛び込んで行く彼らが酔狂だとも。しかし彼らは悪くない目をしていた。未来を見据える若者の目である。そういったものが、わたしは嫌いではない。だからまあ、衝立として使って貰えなくても、この部屋にいる限りは彼らを見守ってやろうかなという気になって来たのだった。
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