■壁際より愛らしきものをこめて 後編■
ある日、不破と鉢屋は大喧嘩をした。
喧嘩というか、不破が一方的に怒っているだけなのだが。それは彼らにとっては何ら珍しいことではなく、鉢屋に向かってがなり立てる不破を見ても、ああまたか、くらいにしか思わなかった。
理由はよく分からないが、恐らく鉢屋が不破の顔でいらんことをやらかしたのだろう。不破が怒る原因の、八割がそれだ。鉢屋はその度に、死にそうな顔をして不破に平謝りをする。それならば最初からやらなければ良いのにと思うのに、彼は何度も同じことを繰り返す。人間の考えることはよく分からない。
不破も不破である。鉢屋が変わらないのは、毎回、彼が鉢屋を許すからだ。本当に鉢屋の行動を改めたいのであれば、あの温い態度は如何なものかと思う。もっと、然るべき制裁を与えるべきである。
……まあ、そういうわけなので、今回の喧嘩も、どうせ鉢屋が涙声で何度も謝っている内に不破がほだされて終了であろう、とのんびり眺めていた。
しかし、違ったのである。鉢屋が何度謝っても、不破の怒りは収まらなかった。
「お前はいつも、口ばかりじゃないか!」
怒鳴り声をあげ、不破は拳で床を叩いた。その振動が、わたしのところにも伝わってくる。鉢屋は怯えたように肩をすくめた。この男は不遜で自信家だが、不破にはとんと頭が上がらないのである。
「い、いや、本当に悪いと思っているよ!」
「いいや、信用ならない!」
不破は首を横に振り、勢いよく立ち上がった。そして、ぎっとわたしと睨んだかと思うと、大股でこちらに近付いてくるではないか。わたしはにわかに緊張した。何だ何だ。わたしに一体何の用だ。不破は、わたしに手を掛けた。わたしの鼓動が一気に早まる。
「もう、お前の顔も見たくない」
不破はそう言って、わたしを部屋の中央まで引っ張っていった。久々に動いたので、身体の節々が痛んだ。
「ら、雷蔵……!」
「ぼくが良いって言うまで、こっちには入って来るなよ。声をかけても、返事しないからな」
不破は吐き捨てた。そうして、わたしの向こうに隠れてしまう。鉢屋の悲痛な叫びが部屋に響いた。
「雷蔵、ごめん、お願いだから許して!」
しかし不破は顔をしかめ、宣言通り返事もしなかった。わたしから少し離れたところに腰を下ろし、黙って腕を組んでいる。どうやら、彼の怒りは本物らしい。
「雷蔵、雷蔵ったら」
鉢屋はわたしに縋り付いた。どうにかして許しを乞おうと必死である。しかし不破は無言を通しているので、鉢屋は泣きそうな顔になった。
わたしは部屋の中央で、震えを堪えるのに必死になっていた。なんということだろう。絶対に無理だと諦めていたのに、わたしは今、本来の用途で使用されているのである。まさか、こんな機が訪れるとは思っていなかった。全く心の準備をしていなかったので、どのような顔をして立っていれば良いかが分からない。
しかしわたしの心は、思ったよりも満ちなかった。部屋を仕切るという念願が叶ったのは嬉しいが、原因が原因である。どうにも喜びきれない。しかも、先程からずっと、鉢屋が「雷蔵、雷蔵」と情けない声をあげつづけているのが鬱陶しくて仕方が無かった。
不破も、最初はむすっとしてわたしから背を向けていたが、一刻もすると、たまにわたしの方を見るようになった。揺らいでいるのである。彼は怒りが長持ちする質ではない。早くも、許そうかどうしようか迷っているのだろう。
「ねえ雷蔵、ごめん、ごめんよ。本当に、反省しているから!」
しかし不破は、まだ許さなかった。ぎゅっと目を瞑り、耳を塞いでわたしから目をそらす。鉢屋はしばらく「雷蔵、雷蔵」と繰り返したが、やがて疲れたのかどんどん声が小さくなり、終いには彼も無言になった。
そうして、部屋に沈黙が満ちた。
鉢屋は死人のような顔で膝を抱えていた。不破に許して貰えないかもしれない、と絶望を感じているに違いない。
不破は何度も何度もわたしの方を窺った。もう許してやろうか、いやでも、ああ、だけど……などと、不破の心の声が聞こえてきそうだった。この男はいつだって迷っている。この懊悩は、こと長引きそうである。
わたしを中心にして、左右でそれぞれ色の違う重い空気が淀んでいた。そしてそのまま、時間ばかりが過ぎてゆく。
わたしはというと、段々苛々し始めていた。あんなに焦がれたこの場所だが、全くもって居心地が悪い。心ではとっくに鉢屋のことを許している癖に、未だ迷っているのか意地があるのか何なのか、沈黙を通す不破にも腹が立つし、衝立ひとつ乗り越えることも出来ない鉢屋の不甲斐なさも気分が悪い。
何故わたしは部屋の真ん中で、こんな愚か者どもを見てやらないといけないのだろう。このような下らない喧嘩で、わたしを駆り出さないで欲しい。ああ、胸くそが悪い。わたしを定位置に、壁際に戻せ!
わたしは抗議の為に身体を揺すった。がたがたっ、と音がして鉢屋と不破が同時に顔を上げた。ふたりとも、同じ表情をしていた。鉢屋は、不破が衝立を揺らしたのだろうか、という顔で、不破は、鉢屋が衝立を揺らしたのだろうか、という顔である。いよいよじれったい。
わたしはもう我慢が出来なくて、一際つよく身体を揺らした。
ばたん! という大きな音と共に、わたしは床に倒れた。彼らの間から隔たりが無くなった瞬間である。
「…………」
「…………」
不破と鉢屋は、ぽかんと口を開けて、倒れたわたしに視線をやった。それから、どちらからともなくわたしに近付いてくる。
「い、今……衝立が勝手に倒れた……?」
恐る恐るといったふうに、不破がわたしの頬に触れた。
「……そんな風に見えたけれど……」
鉢屋も半ば呆然とした顔で、わたしの顎あたりをさする。それがくすぐったくて、わたしはくしゃみをしたくなった。懸命にくしゃみを引っ込めている内に、ようやく不破と鉢屋の視線がかち合った。
「やっと、顔を見せてくれた」
鉢屋は震える声で言った。それを聞いて、不破が泣きそうな表情になる。
「あの、雷蔵、本当に……」
「ううん!」
突然語調を強くして、不破は勢いよく首を横に振った。そうして、鉢屋の手を思い切り握りしめる。
「良いんだ、もう。ぼくこそ意地を張ってしまってごめんよ、三郎」
それを聞いて鉢屋は、一瞬息を呑んだ。うすく開いた唇から、らいぞう、と小さく漏れる。ふたりはほぼ同時に腕を伸ばし、お互いの身体をきつく抱きしめた。
……どうやら、一件落着のようである。まったく、世話の焼ける奴らだ。そしてわたしはすべてを理解した。こやつらは、衝立すらも使いこなせない阿呆なのである。阿呆ならば仕方が無い。もうしばらく、わたしが面倒を見てやろう。気が済むまで抱擁し合ったら、わたしを壁際に戻すのだぞ、阿呆ども。
わたしはそんなことを考えながら溜め息をついた。全く、衝立というものも大変なのである。
戻
な ん だ こ れ (笑)
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