■フロウハロウ 06■


 どうしよう雷蔵が倒れちゃった!!

 ……と三郎にメールを飛ばしたら、彼は物凄い早さで駆けつけてきた。本当に早かった。まるで風のようだった。

 そこから先はテンパってしまっていてよく覚えていないが、三郎がてきぱきと動いてくれて、えらくかっこよく見えたことは記憶に残っている。うっかり惚れてしまいそうだった。

 意外と三郎は冷静だった。ぐったりした雷蔵を見ても取り乱さなかったし、あたふたするばかりで役に立たないおれに怒りをぶつけることもなかった。

 おれは驚く程に使えなかった。ひたすら「どうしよう」と「ごめん」を繰り返していた。情けない。自己嫌悪が三倍増しで胸にのしかかる。雷蔵が倒れてしまったのは、他でもない、おれのせいだというのに!










「……そんな顔するなよ。雷蔵は大丈夫だって」

 昼休み、雷蔵の様子を見に保健室へと向かう途中であった。憔悴しきったおれを見かねたのか、三郎はそう言っておれの背中を叩いた。彼に慰められるなんて、初めてのことである。ぐぐっと鼻の奥が熱くなる。ちくしょう、鉢屋三郎め。不意打ちとは卑怯だ。

 おれは勢いよく鼻をすすって誤魔化した。

「読書かゲームで寝不足だったんだよ、きっと。雷蔵はひとつのことに熱中したら、時間を忘れる癖があるから」

 三郎はそう続けた。自分に言い聞かせているようにも感じられる口調だった。そこでようやくおれは、何でも無い風を装っているけれど、三郎だって雷蔵のことがすごくすごく心配なんだ、ということを理解した。それはそうだ。よく考えたら当たり前だ。突然友人が倒れてしまって、心配でないはずがない。

 それが全て自分のせいなのだと思うと、居ても立ってもいられない気分になった。後悔ばかりが渦を巻く。あんなこと、言わなければ良かったのだ。ああ、おれが、おれが激情に任せてあんなことを言ってしまったせいで!

「ごめん……っ」

 絞り出すように言った。雷蔵に、そして三郎に心の底から申し訳ないと思った。

「だから、何でお前が謝んの」

 三郎は呆れ顔になった。だっておれのせいだもん、という言葉の代わりにもう一度「ごめん……」と口から漏れ出した。三郎が肩をすくめる。

 あのときの雷蔵の様子を見るに、雷蔵は本当に、本当に忍者がどうとかそういうことを何も知らなかったのだ。おれが勝手に疑っていただけだった。彼は何も覚えていなかった。なのにおれは、雷蔵にあんなことを言ってしまった。彼の心の深い深い部分、本人も知らないくらい奥まった箇所を、無造作に突いてしまったのである。

 それが良いことか悪いことかなんて、考えなくても分かる。

 絶対に、やってはいけないことだ。

 第三者が踏み込んで良い領域じゃない。それは雷蔵の、雷蔵だけのものなのに。

 胃が痛い。ああ、おれはなんてことをやってしまったのだろう。おれは阿呆だ。最低最悪にも程がある大馬鹿者だ!

「ごめん……」

 謝ってどうなるものでもないのだけれど、おれはみたび謝罪を口にした。そうでないと不安で仕方がなかった。雷蔵は、どうなるのだろう。 ちゃんと目を覚ましてくれるだろうか。そして目を覚ましたら、おれに向かって、なんと言うのだろう……。

 ……気が付けば、保健室に着いていた。三郎がずんずん中に入ってゆくので、慌ててついてゆく。

「らーいぞーおー」

 妙な節をつけて歌いながら、三郎はベッドを仕切るカーテンを引いた。

 雷蔵は、静かに目を閉じて眠っていた。おれはその姿を視界の端に収め、言いようのない絶望に駆られて下を向いた。

「起きないな」

 ぽつんと放たれた三郎のひとことに、腹の内側を思い切りつかまれたような感じがした。何気ない言葉だけれど、今のおれには酷く残酷な響きであった。

「そんな……縁起悪いこと言うなよ……っ」

 起きない、という言葉が頭の中を回る。しかも三郎の口から聞いた、というのがきつかった。遠回しにおれを責めているのだろうかと思った。

「は? まだ寝てるから、そう言っただけだろ」

 三郎はおれの方を見て、口を尖らせた。その目が明らかに不審がっている。何でそんなとこで絡んでくんの、とでも言いたげであった。おれは彼とは目を合わせず、黙り込んだ。

「……んん……」

 そのとき、ベッドから、微かな声が聞こえた。おれは息を呑んだ。それから、慌てて雷蔵の顔を覗き込んだ。

「らっ、雷蔵!」

 名前を呼ぶと、雷蔵は布団の中から手を出して、まぶしそうに目をこすった。それから、うっすらと目を開ける。

 目を開けた!

 おれは悲鳴をあげそうになった。何だか、物凄い奇跡を目の当たりにしているみたいだ。

「あれ……八左ヱ門……三郎……? 何……玄関チャイム慣らした……?」

 彼はどうやら、寝ぼけているようだった。自宅で寝ていると勘違いしているらしい。

 全身から力が抜けた。安堵の余り、その場にへたり込みそうになってしまう。

 良かった。雷蔵はちゃんと目を覚ました。良かった。良かった!!

「ここは保健室だよ、雷蔵」

 三郎がそう告げると、雷蔵は「保健室…………保健室っ?」と、ぱちんと目を開けた。それから勢いよく身体を起こし、せわしなく視線を動かして辺りを見る。状況が把握出来ないようで、「え、え?」と何度も繰り返している。

 そんな彼に、三郎がゆっくりと説明を始める。

「きみは、池の前で八左ヱ門と喋っている最中、いきなり倒れたらしいよ」

「倒れた? ぼくが? 八左ヱ門じゃなくて? あっそうだ、八左ヱ門は大丈夫? 凄く体調が悪そうだったけれど」

 雷蔵がおれの方を向く。おれは色々彼に言いたいことがあったはずなのに咄嗟に何も出て来なくて、口をぱくぱくさせた。だって、こんなことになってまでおれのことを気遣ってくれる雷蔵に、一体なんと言えば良いのだろう。

  そんなおれを横目で見やり、三郎は小さく息を吐き出してこう言った。

「こいつなら見てのとおり、きみを心配しすぎて死にそうになってる」

「えええっ、本当に? うわあ、心配かけてごめんねえ、八左ヱ門」

 雷蔵は申し訳なさそうに、声を大きくした。それがまた、おれの心を大きくかき乱した。雷蔵に、謝られてしまった。謝るべきなのは、どう考えたっておれなのに。

「いや……あの、おれ、あの……」

 おれも何か言わなくは。きちんと、彼に謝らなくてはならない。頭の中には「ごめん」の三文字がでかでかと存在するのに、口元まで持ってゆくのに随分と時間がかかる。そんな自分に苛ついた。早く、とかく謝りたいのに!

 そんな風におれがひとり勝手に自分自身と戦っていると、雷蔵は素朴なしぐさで首を横に傾けた。

「ていうかぼく、何で倒れたの?」

「…………っ」

 息が止まる。ようやく出て来そうになっていた「ごめん」が舌の上で凍り付いた。

 何で? 何で倒れたって?

 いや、それは雷蔵、それは、おれが……。

「雷蔵、昨日ちゃんと寝た? 寝不足だったんじゃない?」

 三郎はそう言って、腕組みをした。雷蔵は三郎に視線を移して、照れ笑いを浮かべる。

「……あんまり寝てない」

「やっぱり」

 三郎の声はひんやりとしていた。そして、こう続けた。

「電話したとき、『もう寝る』って言ってたのに」

 三郎は不満そうに目を細めた。すると雷蔵は、必死の体で言い訳を始めた。

「だってさあ、人修羅が全然倒せないんだよ! 良いとこまで行っても、地母の晩餐で全滅しちゃうし……気が付いたら、新聞配達が来ててびっくりした」

 ……雷蔵はどうやら昨夜、RPG史上最凶と名高い隠しボスに挑んでいたらしい。それは良いのだけれど、おれはとてももどかしかった。三郎は、その夜更かしが原因で雷蔵が倒れたと思っているみたいだ。だけど、事実は違う。いくら寝不足でも、あんな倒れ方をしたりはしないはずだ。雷蔵はそれを分かっているだろうに、どうしておれに何も言わないのだろう。

 口を挟むタイミングが掴めないまま、三郎と雷蔵の会話を聞いた。

「……雷蔵。人修羅なら、こないだおれが倒してあげたじゃん」

「自分でもやりたかったんだよ!」

「それは良いけど、倒れるまでやっちゃ駄目だよ」

「……それは、まあ、そうだよね。……三郎もごめんね」

「全くだよ。現場に駆けつけてみても、八左ヱ門はテンパってて話にならないし、何が起こったのかと思った」

「うわあ、ほんとに? その辺、自分では全然覚えてないや。倒れた自覚すらなかったし……」

「あ……あの、雷蔵」

 おれは雷蔵に声をかけた。ようやくである。やっと声が出てくれた。これで、話が出来る。

「うん?」

 雷蔵が笑顔でこちを向く。その朗らかさに胸が痛くなる。

「あの、雷蔵……ご、ごめんな……っ」

 謝って済むことではないかもしれないけれど、ちゃんと言えたので少しだけホッした。

「え、八左ヱ門が謝ることじゃないって! さっきの会話、聞いてただろ? ぼくがついつい夜更かししちゃったから……。ほんと、駄目だね、ゲームのやり過ぎは。今度から気をつける」

 雷蔵は飽くまで、ゲームの話しかしない。これはどういうことだろう、と思った。

 彼は、倒れるまでは昔のことを知らなかった。

  ……じゃあ、今は……?

 今は、どうなのだろうおれが無神経にあれこれ喋ったから、それがきっかけで、思い出して……いたり……は、しないのだろうか?

 だけどそれならどうして、出て来る話がゲームばかりなのだろう。

「雷蔵、あの……さ……さっき、池の前で話したことだけど……」

 しぜん、声が震える。本当は、こういう話はふたりだけのときにした方が良いのだろうけれど、抑えが効かなかった。どうしても、これだけは確認したい。

 雷蔵は、目を瞬かせた。

 おれは口の中に溜まった唾を呑み込んだ、ごくり、といやに大きな音がした。

 ほんの少しの沈黙。そして、雷蔵は口を開く。

「……話? 何か、言ってたっけ?」

 それが、彼からの返答であった。

「え……」

 思ってもみなかった反応に、おれは絶句した。視界が一瞬揺れる。

「覚えて……ない……?」

 呆然と呟くと、雷蔵は慌てて「え、いや……!」と言って手を振った。それから、口を引き結んで視線を上に向けた。おれとの会話を必死で思い出そうとしているようだった。その表情は真剣そのもので、演技をしたりおれを騙そうとしたり、という風には見えなかった。

 おれはどきどきしながら、雷蔵を見つめた。

 やがて雷蔵は、大きく息を吐き出した。

「……覚えてない。ごめん……」

 肩を落とし、心底申し訳なさそうに謝る。

 覚えていない。

 雷蔵は、おれと話したことを、覚えていない……?

「大事な話だった、かな……」

 不安げに、雷蔵は声を小さくした。おれは急いで首を横に振る。

「あ、ううん! そういうんじゃねえし!」

「どんな話だったか言ってくれたら、多分、思い出すよ!」

 雷蔵の言葉に、おれは更に強く頭を振る。あんなもの、もう一度する話ではない。

「いや、良いって良いって! ほんと大したことじゃねえから! いやでも、ちゃんと起きてくれて良かった!」

 おれは半ば無理矢理、話を終わらせた。三郎が疑わしげな目でこちらを見ていたが、気付かないふりをした。

 ……覚えていない。

 雷蔵は、昔のことを、知らない。おれが昔の話をしたことも、彼の中ではなかったことになっている。

 覚えていない。

 雷蔵は、覚えていない。

 昔のことは、なんにも。

 覚えていない。