※若干、竹谷の卒業後に触れています。











■フロウハロウ 07■


黒。

黒。

黒。

黒。

ところにより、赤。











 携帯のアラームで目が覚めた。手を伸ばして携帯のサイドボタンを押して、そのままベッドの下に放り出していた通学用鞄の中に投げ込む。身体を起こして、数秒間ぼーっとした。欠伸をひとつ。手を後ろに回して背中を掻く。

 階下からおかんの怒鳴り声が響いて来たので、ベッドから降りる。ぐしゃり。何かの授業のプリントを踏んだ。いつものことなので、気にせずに部屋を出る。欠伸をもうひとつ。

 階段を降りて、すぐ脇にある洗面所で顔を洗う。兄貴のワックスの蓋が開きっぱなしで臭い。そのまま表面が乾いて使い物にならなくなっちまえ、と思いながらタオルでごしごしと顔を拭く。ダイニングの方から天気予報の声が聞こえる。本日、東京はご覧のように晴れマーク。あたたかな陽気となるでしょう。

 部屋へと戻って制服に着替え、鞄を持ってダイニングへ降りる。テレビは、新作映画を紹介するコーナーへと移っていた。

 自分の席について、朝飯を食う。トースト二枚とやたらトマトがでかいサラダと目玉焼きと牛乳を二杯。トーストにはマーガリンを、目玉焼きにはソースをかけてむしゃむしゃ食った。

 それから歯を磨いて、おかんが用意してくれた弁当を鞄に突っ込んで家を出る。行ってきます。

 天気予報どおり、良い天気だった。陽の光がまぶしい。温かいのを通り越して、少し暑いくらいだ。近所に住むじいちゃんが箒とちりとりを持って家から出て来るのを見かけたので、挨拶をする。おはようございます。

 自転車通学のセーラー服がおれを追い越して行った。随分と急いでいるらしく、平坦な道なのに立ち漕ぎしている。頭のとっぺんでへこへこ揺れるポニーテール。スカートは長い。なんとなく損した気分になった。

 いつもどおりの道を行く。家を出てまっすぐ。突き当たりを右。クリーニング屋の前を通り過ぎて、コンビニの門を左。大きな通りに出て、信号待ち。煌々と輝く赤信号の色が目に刺さる。

 赤。

 赤だ。

 おれは信号を渡るのはやめて、別の方向に歩き出した。学校とは違う方角である。通りに沿ってひたすら歩く。歩く。鞄の中から携帯電話を取り出し、背面ディスプレイで時間を確認した。八時過ぎだ。

  ええと、あそこは何時から開いているのだろう? 流石にまだだよな。

 おれは出来るだけゆっくりと歩くことにした。途中でコンビニに寄って、立ち読みされ尽くして表紙がへろへろになったジャンプを読んだ。まるで内容は頭に入って来なかったが、とりあえず台詞と絵を目で追い掛けた。ひととおり好きな漫画を読んだところで、時間を確認する。八時半。学校ではホームルームが始まっている時間だ。雷蔵、昨日はちゃんと寝たかな。あ、鞄の中で携帯が震えている。メール着信。雷蔵からだ。

『今日休み? 大丈夫?』

 昨日倒れたのは雷蔵の方なのに、おれの心配をしてくれるやさしい友人に、片手で返信。

『行くかも行かないかも。風邪とかじゃないよー大丈夫ー。』

 送信して、携帯を閉じる。風邪、という単語を打ち込んで思い出した。久々知兵助の風邪は治ったのだろうか。彼は、今日は学校に来ているのだろうか。

 ジャンプを棚に戻す。次はマガジンを、と思ったら一冊しかないのを隣に立っているやたらと背の高い兄ちゃんが読んでいた。仕方が無いのでサンデーを読む。サンデーは最近全然見ていないので分からない。へえ、あおい坂ってまだやってるんだ。コナンとMAJORは相変わらずっぽかった。魔王は何時の間に終わったのだろう。

 こちらも粗方読んだので、売り場へと返す。隣の兄ちゃんはまだマガジンを読んでいた。どれだけ熟読するのだろう。そこまで読み込むなら、買えば良いのに。おれも、ひとのことは言えないけれど。

 店内にはその兄ちゃんとおれのふたりだけで、若干気まずくなったのでペットボトルのコーラを買ってコンビニを出た。

 歩きながら、力を込めてコーラの蓋を開ける。その瞬間の、パキパキッ、とシュワッ、の混じった音が好きだ。コーラを飲む。甘い。原料不明の甘さである。もうひとくち飲んで、鞄の中にしまい込んだ。ペットボトルって、手で持っていたらさほど重いと感じないのに、鞄に入れたら一気にずっしり来るのは何故なのだろう。

 とにもかくにも、歩く。歩く。一旦引き返して自転車を取ってくれば良かった、と一瞬思ったけれど、それだときっと早く着きすぎるだろうし、おかんに学校をさぼったことがばれるから駄目だ。

 歩く。歩く。こんなに遠かったっけ? ここ二、三年、まったく足を運んでいないのでよく覚えていない。坂道に突入した。きつい。空が青い。足元に落ちる影は黒い。きつい。

 だいぶ歩いて、ようやく着いた。

 おれがやって来たのは、市立図書館である。時計を見たら、九時半だった。正面玄関に回ってみたが、まだ開いていなかった。十時開館らしい。

 入り口のすぐ近くに丁度良い高さの植え込みがあったので、腰をかけて十時まで待つことにした。

 図書館に来るのなんて、めちゃくちゃ久し振りである。最後に来たのは、夏休みの宿題で自由研究かなんかのためだった気がする。雷蔵と一緒だった。雷蔵が何時ものように、研究テーマを何にするか迷っていた。結局、日本全国の方言か何かを調べていたような。……おれは何の研究をしたのだろう。まったく思い出せない。

 ……二、三年のことも思い出せないのに、数百年前のことは、多少といえど覚えてるんだもんなあ。

 そう考えると訳が分からない。順序がめちゃくちゃというかなんというか。

 何となく、手のひらを見やる。ほこほこと赤い。赤。赤か。赤だ。










 図書館の中に入り、真っ直ぐ歴史のコーナーに向かった。適当な本を見繕い、目次からそれっぽい箇所を探して開く。読む。丁寧に、読む。

 読み終わったら次の本。開く。読む。読んで読んで読みまくる。それの繰り返しだ。

 ぱたりと、最後の本を閉じた。

 収穫は、なかった。

 本を全て棚に戻し、図書館を後にした。時間は既に十四時近かった。約四時間、活字と向き合っていたことになる。こんなに集中して本を読んだのは生まれて初めてだ。いつもは五分も保たないのに。

 とりあえず、近くの公園のベンチで弁当を食った。お供は朝に買ったぬるいコーラ。白飯とコーラという、一番やってはいけない食い合わせである。全然合わない。茶にすれば良かった、なんて今更な後悔を抱きつつ、若干右に寄ってしまった弁当をかき込む。玉子焼き、きんぴらごぼう、冷凍のハンバーグ、ウインナー、千切りキャベツ。冷凍のハンバーグが一番美味かった。……とか言うと、おかんにキレられるので、絶対に口にはしない。

 飯を食い終わってから、学校に向かうことにした。着いたころには、もう放課後になっていた。何のために来たのだろう、と思いつつあの池に向かった。縁石の側でしゃがみ、ぼーっと水面を眺める。

  頭の中で、図書館で読んだ本の内容が漂っていた。理解出来たような、出来なかったような。勉強になったような、なっていないような。その内に、 昨日の夢も頭の中に加わって、ごろんごろんとミックスされて何だかカオスだった。

 昨日見たのは、お世辞にも爽やかとは言えない夢だった。だけどおれは、この間みたいに吐いたり取り乱したりしなかった。いつもどおりの朝を迎えて、家を出た。普段と違うのは、学校をさぼって図書館へ行ったことくらいだ。

 何というか、色んなことを突き抜けてしまった気がする。夢。何も覚えていない雷蔵。ちょっとだけ覚えてる勘右衛門。よく分かんない三郎。覚えているらしいけれど、未だ会えていない兵助。図書館で読みあさった本の数々。

 それらを全部かき混ぜてこねた結果が、これだ。……これってどれだ。よく分からん。今、おれの脳内は何色をしているのだろう。外から見たおれは、どんな顔をしているのだろう。

 いやあ、もう、何が何だか。

 ……そんなことを静かに考えていたら、隣に誰かが立った。

 確かめなくても、何故かおれはそれが誰だか分かっていた。なので、前を向いたまま口火を切った。

「よう火薬委員」

 すると、相手も同じ調子で返事をする。

「よう生物委員」

 深みのある、とても良い声だった。微妙に泣きそうになった。しかしそこはぐっと堪える。

 おれは息を吸い込んで、喉の奥に涙の気配を追いやった。それから、相変わらず彼の方は見ずに、「風邪はもう良いの」と尋ねた。

「お陰様で」

 短い答えが返ってくる。そして彼は、静かな口調でこんなことを言ったのだった。

「話を聞こう、竹谷八左ヱ門」

 その言葉は、おれの腹の中に届きそうで届かなかった。彼の言う意味が分かったようで分からない。だから訊いた。

「何の話だよ」

「お前の話を」

「…………」

 ぬるい風が吹く。水面が重たげに揺れた。鯉の影が視界をよぎる。

「……おれ、修業時代の成績はいまいちだったけどさあ」

 今日見た夢を頭の中でリプレイしながら、言った。自分でもちょっとびっくりするくらい、色のない声音だった。

「でもおれ、卒業してからは、すっごかったんだぜ」

「うん、そうらしいな」

 隣で、彼が頷く気配がした。

「知ってたか」

「知ってた」

 そうか、と小さな声で頷いた。そういえば、こうやって夢の話をしていて、「知ってた」と言われるのは初めてかもしれない。知ってた。何だか変な感じだ。

「……どうやら、おれは時代を変えた」

「へえ」

 感心したような相槌が返って来る。次いで「それは知らなかった」という低い呟き。おれは、大きく息を吐き出した。

「そんで、午前中、図書館行ってあれこれ調べたけど、どの本にも載ってなかった。それを成したのは、別の人間てことになってたし、状況も、全然違う風に書き換えられてた」

「忍者って、そういうもんだからな」

 兵助の反応は、至極あっさりしていた。兵助は、忍者というものが何なのかよく分かっている。夢の中の自分も、分かっているようだった。では今のおれは、どうなのだろう。

「……頑張ったんだけどな、おれ」

「うん」

「死ぬもの狂いで頑張った」

「うん」

「でも、そういうもん、かあ」

「そういうもんだ」

「……うん、別に良いんだけど」

 口で言ってから、心の中でもう一度呟いた。別に良いんだけど。その一言で理解しようと努めた。そうしたら、兵助がこう言った。

「だからお前は、しっかりと、そのことを覚えとくと良いよ」

「……覚えといて何になるんだよ」

「人も時代もおれたちのことを知らないんだからさ、自分だけは知っといてやれ」

「…………」

 おれは黙った。かっこつけた物言いをする奴だな、と思ったが、嫌な感じはしなかった。むしろ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけれど納得できた、ような。

「何にもならないかもしれないけど、それで良いじゃん」

「……そういうもん?」

「そういうもん、てことにしとけ」

「そういうもんか……」

 溜め息をつき、視線を下に向けた。薄汚れた自分のスニーカーが視界に入る。それから、隣に立っている、兵助の靴。まだ新しい、黒のコンバースだった。

「ていうかお前さあ……」

 兵助のスニーカーを見つつ、口を開いた。

「来んのが……おせえよ……っ!」

 何故か、涙声になってしまった。何の前触れもなく突然である。それで初めて、あれっおれ今泣きそうなの? と思った。

  瞼に手をやる。熱い。泣きそうだった。あれっ、何で? 何でそんな涙ぐんでるの、おれ。というか、やばい。こんな所で泣くなんて恥ずかしいし有り得ない。それだけは避けたい。泣くな八左ヱ門、男だろう。……とかなんとか言ってる間にも、目の前がじわじわと滲んでいく。ちょっと待て。本当にやばい。

「ごめんごめん。雨の中、勘右衛門と遊んでたら風邪引いた」

 一瞬で、涙が引っ込んだ。

「こないだ、夜、雨降ったじゃん。勘右衛門とカラオケ行った帰りだったんだけど、傘持ってなかったし、テンション上がっちゃって。雨って何か楽しくなるよな」

 深夜ラジオのDJでも出来そうな声で、何を言っているのだろう、この男は。雨でテンションが上がってしまうなんて、何処の子どもだ。昔の記憶が全部あると言うから、もっと精神的に大人なのだと思っていたのに。あれっ、残念な気配が漂ってきた。というか、勘右衛門も止めろよ。ツッコめよ。

「ばっかじゃねえ?」

 心をこめて、そう言った。兵助が軽く笑う。

「いやあ、死ぬかと思ったよ」

「火薬委員が雨でテンション上がってんじゃねえよ」

「これはこれ、それはそれ。ていうか、火薬持ってないし」

 すっかり呆れてしまった。どうやらこいつは馬鹿だ。馬鹿なのに、いっちょまえに風邪を引きやがった。なんてタチの悪い馬鹿だろう。

 ……だけどこいつの馬鹿のおかげで、おれは涙を晒さずに済んだ。その点だけは感謝しよう。

 あーあ、と思った。

 あーあ。すっかり気が抜けた。

「……あのさあ、兵助……」

 お前は昔のことを、どういう風に受け止めてんの?

 と聞くつもりで、顔を上げた。そこで初めて、彼の、久々知兵助の顔を見た。

「うん?」

 兵助もこちらを見る。目が合った。夢の中で見たのとまったく同じだった。目がでかい。睫毛が長い。髪の毛はつやっつやで、背筋がやたらと真っ直ぐだ。豆腐ばっか食ってた優等生。彼の向こうに見えるのは青空だった。黒でも赤でもない、青だ。

 その顔と空を見たら、言いかけた言葉が腹の底にすとんと落ちてしまった。だからおれは、全然違うことを言った。

「……今度、うちのクラス来いよ。三郎と雷蔵、紹介する」

 そう言うと、兵助は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。

「うん。そのときは、勘右衛門も連れてく」

 その笑顔を見て、またうっかり泣きそうになったので、兵助を通り越して空を見つめることにした。

「天気良いな」

 少し無理をして、明るい声を出した。そうしたら兵助も空を見上げ、 「そうだな」と言った。おれは、何も考えずにこう言った。

「これじゃ忍べねーな」

 兵助は、声をあげて笑った。

「そりゃそうだ」

 何だかよく分からないけれど、おれも笑った。頭の中のカオスが少しだけほぐれた気がした。

 なんとなく楽しいし兵助も笑ってるし空は赤でも黒でもなく青だし、

 

 うん、良かった。