■フロウハロウ 03■
今日はすこぶる調子がいい。身体は軽いし、目も耳も冴え渡っている。あっちの木の上に六年の先輩がいるのも分かるし、さっき、向こうで誰かの仕掛けた罠が作動したのも知っている。
だというのに、この委員会対抗戦に上級生は参加出来ないのが、口惜しくて仕方が無い。今日ならば、五年ろ組の竹谷八左ヱ門は大活躍だったはずなのに。
しかし可能な限り後輩を援護してやろうと、おれは夜闇の中をひたすら駆けた。火薬委員。火薬委員は何処だ。見張り小屋の、火薬の置き場を兵助に訊いて、生物委員の奴らに教えてやるのだ。
会う人会う人に兵助の所在を尋ねたが、誰も知らないと言う。しかしおれの腹には、あるひとつの確信が宿っていた。きっと兵助は、見張り小屋の正門の方に回っているはずだ。
何故そう思うのかというと、学園を出発する際、田村が木製の石火矢を運んでいるのを見かけたからだ。上級生は手出し無用、という規則だが、そんなことは無視して自慢の火器を使うつもりに違いない。同じ会計委員の潮江先輩も、田村を止めたりはしないだろう。むしろ、「見張り小屋の正門をぶち壊せ」くらいは言いそうだ。田村が火器を使うなら、火薬委員も一緒にいる。だから、狙いは正門。間違いない。
闇へと完全に溶けた岩を跳び越え、おれは尚も駆ける。もう少しで見張り小屋を視認出来る地点に到達する。
と、そのとき、前方から地を揺るがす轟音が聞こえて来た。空気が震える。木が騒ぐ。火薬の匂いが鼻腔に貼り付く。恐らく、田村が正門に向けて石火矢ぶっ放したのだ。
「……やっぱりな」
走りながら、おれは小さく笑った。そしてすぐに、見付けた。田村と木製の石火矢と、その隣に佇む、背筋の真っ直ぐ伸びた後ろ姿。
「おーい、火薬委員!」
おれは彼に向かって呼び掛けた。ああ、やっぱり今日は、調子が良い。
「欠席?」
一組の前で、おれは顔をしかめた。戸にもたれて、勘右衛門は「そうそう」と頷く。
「兵助、風邪引いたんだって」
「ふうん……」
久々知兵助に会おうと思って再度一組を訪ねたが、また不発だった。夢の中では絶好調だったのに。おれは頭を掻きつつ、どうしようか一瞬考える。まあ、休みなら、仕方が無いか。
「……じゃ、帰るわ」
そう言って自分のクラスに戻ろうとしたら、「え、何で」と勘右衛門に腕を掴まれた。
「そんなすぐ帰んなくて良いじゃん。おれと喋ろうよ」
「だってお前、電波なこと言うし」
言い捨てて、歩き出す。しかし勘右衛門はついて来る。
「何だよ。別に、電波じゃないだろ」
「……ついて来んなよ」
こいつと一緒だったら、教室に戻るわけにもいかない。同じクラスの連中の前で、昨日みたいな忍者トークをされたらかなわないからだ。おれは、自分の教室を素通りして階段を降りた。ここだけ、空気がひんやりしている。勘右衛門は当たり前みたいな顔をして、おれの隣を歩いてる。そして、朗らかにこんなことを言った。
「そういえば、こないだおれ、用事があって二年の教室の前通ったんだけどさ、そこで潮江先輩とすれ違ったよ」
潮江先輩。その名前を聞いた瞬間、目の下が常に青黒く、尋常でなく男臭い会計委員長の顔が脳裏をよぎった。鉄粉おにぎり。予算会議。関連ワードを思い出すだけで腹がいっぱいになる。
「まじかよ……。絶対、二年の階行かねえ」
「潮江先輩、怖かったもんなあ。そんときはあの人しか見なかったけど、潮江先輩と同じい組だった、すげーかっこいい先輩……ええと……た……た……」
「立花仙蔵先輩」
ああ、また無意識で答えてしまった。立花先輩。作法委員長で立ち居振る舞いの全てが洗練された、近寄りがたい先輩。肌が冗談みたいに白かった。……いや、良いんだって、そういう情報は。
勝手に頭に浮かびあがる記憶に、おれの胸は一瞬にして自己嫌悪で黒く染まった。しかし勘右衛門は嬉しそうに手を叩く。
「そうそう、立花先輩! あの人とかも、同じ学校にいたりすんのかな」
「知らねえよ。不吉なこと言うな」
「来年、田村や平が入学して来たら面白いのになあ」
「面白くねえよ」
「やっぱ、縁っていうか、運命の繋がりっていうか」
「面白くねえって。ていうか、何でナチュラルについて来てんの?」
おれは立ち止まり、勘右衛門を睨んだ。気が付けば、あの池の前まで来ていた。天気が良いので、緑に染まった池の水面もきらきらと光っている。勘右衛門は二、三度瞬きをし、見ていると気の抜けそうな笑みを浮かべた。
「そんなこと言いつつ、話がしやすいように、人のいない場所に連れてってくれるお前が好きよ」
「…………」
おれは黙った。別に、そういうつもりではなかったのだけれど、確かに、池の周りにはおれたち以外誰もいなかった。というか此処は、いつでも無人だ。誰も、濁った池と攻撃的な鯉になんて興味がない。秘密の話をするには、うってつけの場所だ。……いや、本当に、そういうつもりではなかったのだけれど。
「……ああ、うん、そういうことで良いよ、もう」
おれは力無くうなだれた。少しこいつと喋っただけなのに、どっと疲れてしまった。池の縁でしゃがみこみ、溜め息をつく。それから、すぐ隣に立っている勘右衛門を見上げた。
「勘右衛門も、忍者になる夢を見んの?」
夢、というところをいくらか強調して、彼に聞いてみた。すると彼は不思議そうに目をぱちぱちさせ「夢?」と首を傾げたのだった。
「八左ヱ門は、そういう夢を見るんだ?」
「……そうだよ。昨日は、委員会対抗戦の夢だった。学園長先生の思い付きの」
「へええ、良いなあ! おれ、そんな夢なんて見たことないや」
「え?」
それは、物凄く意外な言葉だった。夢を見たことがない? 彼も自分と同じく、忍者になる夢を見ているのだと思っていた。
「残念ながら、おれは昔のことって、まだほとんど分からないんだ。自分が忍者だった、てことを思い出したのも、つい最近だし。だからさ、昔のこと、喋ろうぜ。あ、その夢の内容、詳しく聞かせてよ」
そう言って勘右衛門は、おれの顔を覗き込んできた。彼の語り口は、何処までも軽い。本気で悩んでいるおれとは大違いだ。
おれは池に視線を移す。とても静かだった。鯉たちの姿は全く見えない。何も食い物を持っていないので、今日は鯉たちは出て来てくれないだろう。
「嫌だよ。おれは、思い出したくねえもん」
「何で?」
勘右衛門は、まったく理解出来ない、というふうに声のトーンを上げる。おれはその態度に、若干の苛立ちを覚えた。
「こっちの台詞だよ、それは。何で思い出したいんだよ。思い出してどうすんだ。今は平成。忍者なんて、ナルトだけで充分だろ」
「戦国BASARAも付け加えといて」
「知らねえよBASARAやらねえし」
「あ、八左ヱ門は無双派?」
「何でもいいっつうの」
おれは早口で言った。駄目だ。こいつと話していると、どうも調子が狂う。そういえば、忍者は相手のペースにはまってはいけないのだっけ。そういう意味では、おれは完全に勘右衛門に負けている。いや、おれは忍者でも何でもないのだけれど。ああもう、どうやっても夢の内容がおれを邪魔する。
「でもさ、ずっとこの辺でモヤモヤしてんだよね」
急に、勘右衛門は真面目な口調になった。見ると、目つきまで真剣になっている。ついさっきまで、ヘラヘラと締まりのない顔をしていたのに。おれは彼の変化に戸惑いながら、「何が」と勘右衛門に尋ねた。
「記憶のワク線みたいなのが。それって結構気持ち悪くてさ」
勘右衛門は眉を寄せ、白シャツの胸の辺りを両手で掴んだ。
「思い出そうとしても、ひとりじゃ駄目なんだよ。お前みたいに夢に出て来てくれれば良いのに、それが全然ないから、ずっとモヤモヤ。兵助と昔のことを喋ってたら、思い出せるんだけどね。ワク線だけの記憶が、ちゃんと絵になるっつうか」
勘右衛門は真っ直ぐ前を向いている。彼の視線の先には薄汚れた塀があるが、それを見ているわけではなさそうだった。彼の眼には今、何が映っているのだろう。
「その瞬間って、すっごい快感でさ。でもまたすぐ、次のモヤモヤが湧き出てくる。それも兵助と喋ってスッキリ。また次のモヤモヤ。スッキリ。モヤモヤ。スッキリ。そういう感じ。だからおれ、早いとこ、全部思い出したいんだよね」
「…………」
おれは何も言えなかった。何というか、そういうパターンもあるのか、と思った。思い出したくないのに、夢を見るおれ。思い出したいのに、ひとりでは記憶を構築出来ない勘右衛門。
もし、立場が逆だったら、どうだっただろう。勘右衛門が夢を見て、おれが、彼の言うところの「記憶のワク線」が胸の中でわだかまってひとりではどうしようも出来ない状況だったら。とりあえず、勘右衛門は大喜びするだろう。だけど、おれはどうだろう。形にならない記憶が淀んでいたら、それの正体を知りたい、と思うんだろうか。思ってしまうんだろうか。どうなのだろう。
「いやあ、前世の記憶、ちょうたのしー」
一転して、楽しげに勘右衛門は笑う。おれは思考を打ち切った。やめよう。もしも、の話なんて考えたって無駄だ。
「お前とは、気が合わねえみたい」
ぶっきらぼうに呟く。すると勘右衛門は、一層楽しそうに笑った。
「そんなこと言うなよ。なあ、八左ヱ門は全部思い出してんの?」
「……いいや、おれもそういう夢を見出したの、つい最近だし」
「そっかあ。兵助は、全部分かってんだって」
「え……、そう、なん?」
「五歳のときに、四十二度くらいの熱を出して生死の境をさまよって、そのときに全部思い出したんだってさ」
「全部って……」
「全部だよ。あの時代に生まれて、死ぬまで」
「…………」
勘右衛門はあっさりと言い放ったけれど、それは凄いことなんじゃないだろうか。兵助は五歳にして、自分のもうひとつの人生をスタートからゴールまで、全部思い出してしまったわけか。想像するとヘビーすぎる。
おれは今のところ、ちょうど現在の自分と同じくらいの歳だったときのことしか夢に見ない。とりあえず、インフルエンザに気を付けよう。高熱を出したら、おれも一気に思い出してしまうかもしれない。それだけは、絶対に嫌だ。
「つうかお前、クラスでそういう話しねえの?」
勘右衛門は不思議そうに、とんでもないことを尋ねてきた。おれは声にほんの少しの憤りを込めて、答える。
「は? するわけねえだろ」
「だって、雷蔵と鉢屋、同じクラスだろ? おれ、あのふたりを見たとき、すっごいびっくりしたよ。やっぱあいつらは、何百年経ってもセットなんだなーって思って、ちょっと泣きそうになった」
彼の言葉に、また何も言えなくなる。勘右衛門の気持ちが、非常によく分かったからだ。そう、雷蔵と三郎はずっと一緒なのだ。本当に、ずっと。色んなものを飛び越して、今も尚、共にいる。
……あれ、おれ、忍者あれこれは全部夢だって、割り切ったんじゃなかったっけ。
駄目だ。勘右衛門と喋っていると、自分の中で定めたルールがブレまくってしまう。
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