■フロウハロウ 02■


 おれは一組の教室の前で深呼吸をした。久々知兵助。この戸を開けたらそいつがいる。彼に会って何を話すのか、どうするつもりなのか自分でもよく分からない。しかしどうしても来ざるを得なかった。もう一度会わなければならないと思ったのだ。

  おれは覚悟を決めるため、今一度大きく息を吸い込んだ。まだ、どきどきする。もう一度、同じことを繰り返した。それで、少しだけれど気持ちが落ち着いた。よし、行こう。

 戸を開ける。自分の教室と同じつくりだけれど、空気も匂いもまったく違う不思議な感覚。にじり寄ってくる緊張を払うため、おれは首を振った。それからすぐ近くにいた、坊主頭の男子生徒に声をかけた。

「なあ、久々知っている?」

 するとそいつは小さな目を瞬かせて、教室をぐるりと見渡した。

「あれ、久々知は?」

 彼は誰ともなしに尋ねた。そうしたら何処かから、「エドなら分かるんじゃないの」という返事が返ってきた。

「エド、久々知どこ行ったか知らない? 何か、客来てんだけど」

 坊主頭の彼は、黒板の真ん前の席に座っている男子生徒に声をかけた。エドと呼ばれた彼が振り向く。手にはタッチペンが握られていた。DSでもやっていたらしい。

 その姿を見ておれは、あっ、と声をあげそうになった。

 新キャラだ。昨日初めて夢に出て来た、新キャラじゃないか。これは一体、どういうことか。夢か、現実か。いや現実だ。だって、坊主頭にエドと呼ばれて、あいつが振り向いた。つまりあいつは、エド、という名の実在の人物だ。

 ここでおれは内心首を傾げる。……エド? そんな名前だっけ?

「じゃ、後はあいつに聞いて」

 坊主頭はそう言って、おれから離れて行った。代わりに、新キャラがこちらに近付いて来る。タッチペンを持ったままだった。

「兵助探してんの?」

 新キャラというべきかエドというべきか……とかく、今おれのすぐ近くに立っている彼は、まるい目でこちらを見た。間違いなく、昨日の夢の中で、おれが虫を譲ってやった友人であった。咄嗟のことに頭が混乱して、何をどう言おうか迷う。

「……お前、エドって名前なの? でも確か、尾浜勘右衛門って……」

 何も考えずに、そんなことを尋ねていた。すると彼は、タッチペンでかりかりと頭を掻いた。

「ああ、あだ名な。江戸時代みたいな名前だから、エド」

「ああ……成程……」

 尾浜勘右衛門。確かにすごく江戸時代っぽい。それはエドと呼びたくなる。おれはとても納得してしまった。勘右衛門は息を吐き出し、続ける。

「名前が古臭いと、いじられるよねえ」

 竹谷八左ヱ門としてはその気持ちが非常によく分かったので、彼の言葉にうんうんと頷く。

「分かる分かる。おれも昔、岡ちゃんとか呼ばれたことあるし」

 しみじみ呟くと、勘右衛門は「岡ちゃん?」と首を傾げた。おれは答える。

「名前の響きが岡っ引きぽいとかなんとか」

 勘右衛門は、この由来はお気に召さなかったらしく、「ええー」と不満げな声を漏らした。

「竹谷八左ヱ門は岡っ引きよか火消しっぽいかなあ。め組の八っちゃん、とか呼びたくなるような」

「いや、あだ名を増やすなよ……って、いうか……」

 ついつい普通のノリで会話をしてしまってから、あることに気が付いて言葉を切る。今、こいつは何と言った? 竹谷八左ヱ門は岡っ引きよか火消し。いや、岡っ引きとかその辺のくだりは別に良い。

  竹谷八左ヱ門、と言った。初対面なのに、さらっと。まるで、前からの知り合いみたいに。

「……おれ、名前言ったっけ……?」

 おれは震える声で言った。顔が引き攣る。鼓動が早まる。

「そっちこそ」

 勘右衛門は微笑んだ。人懐こい笑顔。ハッとした。そういえば、彼の口からは尾浜勘右衛門という名前を聞いていない。なのに口にしてしまった。夢で見た出来事を。  おれは黙り込んだ。しばしふたりの間に沈黙が訪れる。一組の連中が笑ったり騒いだりしているのが、別世界の出来事のようだった。

「兵助を探してるんだよね」

 そう言って勘右衛門は、一層ふかく笑った。人を油断させ、抜け目なく相手の懐に入り込む笑顔だ。そうだ、雷蔵とこいつは、そういうのが得意だった。……違う。裏を読むな。今は平成なのだから。普通にしているんだ。普通に。普通に。

「あ……ああ」

 おれはどうにか頷いた。喉がカラカラに渇いていた。コーラが飲みたい。咄嗟にそう考えた自分にほっとした。そうそう、コーラ。水とか白湯とかでなく、コーラ。あの身体に悪そうな、正体不明の甘味が恋しい。そういう平成的な発想を、大事にしていこうと思った。

「じゃ、一緒に行こう」

 何処に、と聞き返す前に勘右衛門は歩きだしていた。おれは彼の後に続く。

「おれらの二個下に、変なやついたよね」

 廊下を進みながら唐突に、勘右衛門がそんなことを言い出した。何のことか分からず「へ?」と聞き返した。勘右衛門は、軽い口調で続ける。

「ほら、お前んとこの後輩でさ、毒蛇とか飼ってた奴。あいつ、名前なんだっけ」

 ごん、と頭の奥で鈍い音がした。頭蓋骨を内側から思い切り殴られたみたいな、重い衝撃だった。目の前がぐるりと回って、脳裏に白い顔が現れた。女みたいに整った面差し。首に巻き付いた毒々しい色合いの蛇。きっついコントラストが瞼の裏でちかちかと弾ける。

「……伊賀崎、孫兵」

 口元からそんな名前がこぼれ出した。思い出す前に舌が動いていた。そしてその響きを自分の耳で捉えた瞬間、腕に鳥肌が立った。伊賀崎孫兵。確かにいた。二個下の変な奴。いやでもそれは夢の話で、こんな所でサクッと喋っていいことではないはずだ。

「ああ、そうそう! 伊賀崎だ」

 勘右衛門は嬉しそうに手を叩いた。おれはそれを呆然として見つめた。話が通じる。やっぱりこいつも、知っているんだ。

「首に蛇巻いててさ、そいつに名前つけてるんだよね。ええと、じゅん……じゅん……」

「じゅんこ、な」

 また、考えるよりも早く口が動いていた。何処かから、竹谷先輩じゅんこがまた家出しました、という孫兵の声が聞こえた気がして、反射的に耳元を平手で叩いた。

 赤い蛇。じゅんこ。目を離したら、すぐに何処かへ行ってしまう。おれはその度に委員会の連中を集めて捜索し、後で代表として木下先生から説教を食らう。孫兵が、先輩すみませんぼくのせいで、と謝りに来るので、おれは後輩の前だからってかっこつけて、馬鹿お前が気にすんなじゅんこ大事にしろよ、とかなんとか言って笑うのだ。

 ああそうじゃない。喉が渇いて張りつきそうだ。コーラ。そうコーラ。あとええと平成っぽいワードはないか。ええと、ええと。頭がぐるぐるする。こういうときに限って何も出て来ない。普段おれは、どういうことを考えていたのだっけ。

 そして、おれはこうやって一生懸命現世にしがみつこうとしているのに、勘右衛門はそんなことおかまいなしに、ズバズバと忍者トークを振って来るのだった。

「それそれ! うわ懐かしい! 何でか、動物や武器に名前つけるの流行ったよな。石火矢のユリコとか、戦輪の輪子とか」

 次から次へと繰り出される戦国ワードに、おれは気を失いそうだった。勘右衛門が何か言う度に、頭の中身がごろりと回る。目の前を光が走る。空気が温くなる。火薬の匂いを嗅いだような気がした。

「ちょ……あの……待っ……」

 おれは手を伸ばし、勘右衛門の肩を掴んだ。彼は、きょとんとした顔でこちらを見る。

「うん、どしたの」

「か……勘弁してくれよ……!」

「何が?」

「そういう話、普通にすんのやめろよ……!」

「えっ、何で?」

 言いたいことが通じないもどかしさに、奥歯を噛む。最後まで言わなくても分かるだろ。というか、分かれよ、そんくらい。

「だっておかしいだろ。平成だぞ、今。石火矢なんて、ねえじゃん。戦輪もねえし。誰にも通じねえよそんなもん」

「やだな、誰彼構わずこんな話をしてるわけじゃないよ。お前だから、言ってんじゃん」

 その言葉に、背筋が震えた。お前だから、と。恐ろしいような嬉しいような複雑な感情で胸がざわつく。おれは息を吸った。酸素が上手く喉に入ってゆかない。苦しい。視界が曲がる。

「お……おれは……、おれは、やっと、全部ただの夢だって納得できるようになってきたのに、そんなん言われたら」

「でも、そういう話をしに来たんじゃないの?」

「…………」

 あっさり切り返されて口をつぐむ。

  おれは、そういう話をしに来たのだろうか。いやでも、夢だと割り切ると決めたのだから、そんな話をする必要はないじゃないか。じゃあどうして、一組に来たのだろう。久々知兵助に会おうと思ったのだろう。何で? 何で……?

「……今日は、やめといたら?」

 眉を寄せ、勘右衛門は小さな声で言った。

「なん……」

「顔色、すげえ悪い」

 勘右衛門は、おれの顔を指さす。おれは、頬に手を当てた。手も顔も、ぎょっとするくらい冷たかった。

「お前が来たこと、兵助に言っとくよ」

 勘右衛門はおれの肩を叩いて身体の向きを変えた。久々知のところに行くのはやめ、教室に戻るらしい。

「あ……、おい……」

 おれは、手を持ち上げかけた。しかし先程の、何で、という疑問がまだ頭の中にこびりついていて、途中で手が止まってしまう。その間に、勘右衛門はどんどんおれから離れてゆく。

 ただの夢。ただの夢だったはずだ。

 ああ、頭がくらくらする。

 本当に、おれは一体、何がしたいのだろう。

  一体何を。

 何で?

 何で……?