■フロウハロウ 01■
がさがさと音がする。それはおれの懐から聞こえてくる。おれは胸元に手をやった。着物の中には小さな虫籠が入っている。がさがさ言っているのは虫の羽音である。
おれは口笛を吹きながら、長屋の廊下を歩いていた。ぬるい風が吹く。庭では向日葵が咲いていた。今日も蒸し暑い。手を扇に見立てて、ぱたぱたと顔をあおぐ。そんなことをしても、ちっとも清涼感は得られなかった。むしょうに西瓜が食いたい。後で食堂に行ってみようと思った。
「八左ヱ門」
背後から、声をかけられた。やって来たのは、尾浜勘右衛門だった。彼を捜していたところだったので、丁度良かった。おれは軽く手を挙げて応える。
「おう、勘右衛門」
「頼んでたの、用意してくれたか」
「おお、これな」
おれは襟元に手を突っ込み、虫籠を取り出した。それを見て、勘右衛門がほっとしたように相好を崩す。
「助かったあ……! 明日、虫獣遁の試験があるの、すっかり忘れててさ」
「いえいえ、どういたしまして」
おれは、にっと笑って勘右衛門に向けて手のひらを差し出した。すると勘右衛門は、息を吐き出しつつ懐を探った。
「一枚?」
「いいや、二枚」
そう言うと、彼は眉を寄せた。
「何でだよ。前に頼んだときは、一枚だったろう」
「今回は急だったし、そいつを持ち出すのに、孫兵を説得すんの大変だったんだぞ。だから二枚」
「足元見やがって」
勘右衛門は苦い表情になり、着物の中から食券を二枚取りだしておれの手に押しつけた。それを確認してから、「毎度っ」と言って虫籠を勘右衛門の手にのせる。それから二、三言葉をかわして、勘右衛門とは別れた。
相変わらず日射しが強い。暑い。井戸で水を飲んでから、食堂に行こう。それで、西瓜だ。
……今日も順調に忍者の夢を見た。
新キャラだって登場した。尾浜勘右衛門。おれの夢では初めて出て来た奴だった。
まあ、何だ。
ここまで来ると、流石のおれも慣れて来た。人は順応する生き物なのである。おれはもう夢くらいでは動揺したりしない。どんな夢を見ても、朝が来れば目が覚める。そうすればベッドから出て顔を洗って飯を食って制服に着替えて学校へ行く。それでOKだ。
「夢は夢だ」
学校へと向かう道すがら、いつもの町並みに目を向けておれは小声で呟いた。
そう、夢なんて言ってしまえばただの幻想である。黒い森も長屋の天井の木目も食堂のおばちゃんのがなり声も、狼のしなやかな毛並みも虫の羽音も全部まぼろしだ。
排気ガスの匂い、コンビニの入店音、靴越しに伝わるコンクリートの固い感触、道端に落ちている軍手の物悲しさ。これが現実である。
どれだけ忍者満載の夢を見ようと、それが現実でないと理解していれば、中二病の進行も食い止められるはずだ。夢は夢。必要以上に気にするからいけないのだ。おれはようやく、そんな風に考えられるようになってきた。そのお陰で、最近では忍者な夢を見ても大分気楽だ。
校門をくぐったところで、iPodを止めてイヤホンをポケットの中に突っ込む。空は冴え冴えと青い。秋の風が心地よかった。
アグレッシブな鯉たちが住んでいる池の横を通り過ぎたとき、ちらりと、この場所での不思議な体験を思い出した。夢に出て来た男。夢の内容に沿った会話。しかしおれは、あの出来事は白昼夢だったのだと結論づけていた。だって、あれからあの男に一度も会っていない。だからあれは夢だ。あのときはちょっとテンパってしまっていたから、幻を見てしまっただけなのだ。
……と、思ったその瞬間だった。
おれの目の前を、やたらと姿勢の良い男がすいと通り過ぎた。最初は誰か分からなかった。ワンテンポ置いてから理解する。あの、背筋の伸びっぷり。妙につややかな黒髪。
「う、えっ!?」
おれは思わずその場で足を止めた。今、横切って言ったのは、こないだの奴じゃないか。白昼夢。白昼夢が現われた。あれっ、何でまた幻が?
今見たものを再度確認しようと、おれは身体の向きを変えた。それと同時に肩をぽんと叩かれて、飛び上がらんばかりに驚いた。口から「うへあ!」などと、意味不明な叫びが迸る。
「え、あ、そ、そんな驚かなくても……」
そこにいたのは雷蔵だった。おれの驚きっぷりにびっくりした、みたいな顔をしている。おれは本当に驚いた。心臓が止まるかと思った。
「な、なんだ雷蔵か」
どきどきする胸を押さえる。雷蔵は不思議そうに、白昼夢が去った方向を見た。そして、軽い口調でこう言ったのだった。
「竹谷、久々知がどうかしたの? 何か、あいつを見てびっくりしてたみたいだけど」
「えっ、実在!?」
おれは思わずそう聞いてしまった。「えっ、なんて?」と雷蔵が首を傾げる。おれは慌てて首を横に振った。まずい。今の発言は相当電波だった。しかし、あの男が実在の人物であるというのは、相当の衝撃であった。絶対に、白昼夢だと思っていたのに。というか、そう思いたかったのに。
「えっあっ、ううん、何でも! あ……あいつ、久々知っていうんだ」
本当はあいつの名前なんてとっくに知っているけれど、そう言った。それから、にわかに息苦しさを覚えつつこう続ける。
「……あの、雷蔵、あいつのこと知ってんの?」
先程、雷蔵は迷うことなく久々知の名を口にした。おれと雷蔵は小学校から一緒だけれど、今まで同じ学校に久々知という名の男はいなかったはずだ。それなのに、久々知のことを知っているだなんて、どういうことだろう。雷蔵も本当はなにがしか、おれのような体験をしていたりして……?
なんて考えたのだけれど、彼は「そんな、知ってるって程じゃないけど」とあっさり否定したのだった。
「一組の久々知、有名じゃん。すっごい頭良いんだって」
雷蔵は笑って答えた。頭の中が、ぐるぐると回り出す。そうだ。久々知は……、兵助はとても成績が良かった。特に火薬の知識はずば抜けていて……違う、これは夢の話だ。今は現実にいるのだから夢の話を持ち出すな! 今、目に映っている景色だけを見るんだ竹谷八左ヱ門!
「あ……頭良いって、三郎より?」
どうにかノリを現代に戻して、言う。雷蔵は楽しそうに肩をすくめた。
「さあ、どうだろうね。三郎はやる気のあるときと無いときの差が激しいしなあ。……それよりほんと、久々知がどうかしたの?」
改めて問われて、おれは大変困ってしまった。勿論、池の前で起こった出来事を話すわけにはいかない。
「いや……どうもしねえけど、なんとなく」
首筋を掻き、もごもごと呟いた。なんてグダグダな返答だろう。おれは嘘が致命的に苦手なのである。きっと、雷蔵にはおれが何が隠しごとをしているとばれてしまっただろう。
しかし雷蔵は一瞬怪訝な顔をしたが、それ以上は触れてこなかった。彼は優しいから、おれに何か事情があるのだと察して、あからさまな違和感を敢えてスルーしてくれたのである。なんて良い奴だろう。彼の思いやりと空気の読みっぷりに救われた。ああ、雷蔵と友達で良かった!
その瞬間、脳裏にもうひとりの級友、鉢屋三郎の顔が現われた。あいつは用心しておこう。彼の前で、ぼろを出さないようにしておかなくては。奴は雷蔵のように優しくない。おれが何か変なことを口走れば、容赦無くあげつらい、からかってくるはずだ。それだけは絶対に避けねばならない。
そんな決意を固めながら、おれはこっそりと胸の中で、一組の久々知、と呟いた。
一組に、あの男がいる。白昼夢だと思っていた、夢の中の友人、久々知兵助が。
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