■ザ・フール 13■

「何だよ、何を言わせるんだ。恥ずかしいじゃないか」  

 雷蔵ははにかんだように微笑み、おれの背中を叩いた。その衝撃で色々なものが溢れ出しそうになって、奥歯を噛み締めた。雷蔵のことが、いとしくて仕方が無い。おれに向けられる笑顔を、やさしい声を失いたくない。雷蔵は、何者か分からないおれのことが好きだと言ってくれたが、どうしてもおれは鉢屋三郎でいたかったし、鉢屋三郎として彼に愛されたかった。

 ふたたび信号に行き当たり、赤信号だったので足を止めた。おれたちのすぐ横を救急車が通り過ぎ、サイレンの音が長く尾を引いて耳に残った。

「…………」

「三郎?」

 何も言わずにいると、雷蔵がこちらの顔をのぞき込んできた。雷蔵がおれを心配している。おれのことを好きだと言ってくれる雷蔵が。

「……雷蔵は、おれが昔と何か変わったと思う?」  

 とうとう堪えきれず、そう尋ねた。一番近い存在である彼にこの質問をぶつけるのは恐ろしかったが、中在家先輩が「分からない」なんて無責任なことをおっしゃったので、もう、雷蔵に訊くしかなかったのだ。  彼は、まるい目をぱちぱちさせた。 

「昔って、あの昔?」

「その昔」

「うーん……そりゃあ、変わったんじゃない? 服装とか、髪型とか。体格とかもそうだよね。ぼくも変わっただろうし」  

 雷蔵は自分の手の平を見下ろしながら、軽い口調で言った。微妙に的の外れた答えに、もどかしくなる。そんな表面的な話ではないのだ。おれは首を横に振って、「そういうことじゃなくて……」と呟いた。雷蔵は首を傾ける。

「性格ってこと? 性格はそのまんまだと思うけれど」  

 やはり何でもないことみたいに、彼は言った。心臓が、ぎしりと不自然に軋む。それと同時に信号が青に変わったが、おれは歩き出すことが出来なかった。暑くないのに、首筋を汗が流れ落ちた。救急車のサイレンが、まだ頭の中で回っている気がした。

「本当に……? 本当にそう思う?」

 おれは自分の足下を見詰めた。制服のズボンと、雷蔵とおそろいの、黒いスニーカー。駅前の靴屋で、一緒に買ったものだ。ふたりで同じものを選んだから、店員が物言いたげな表情をしていたことを覚えている。

「……三郎」

 雷蔵は真面目な声音になって、そっと、おれの左腕を掴んだ。

「最近、ちょっと様子がおかしいなとは思ってたけど……。お前が引っ掛かっているのは、それ? 昔と違うかもしれないって?」

「……ああ、そうだよ」

 少し迷ったが、正直に答えた。雷蔵は身を乗り出して「どうして、そんなことを気にするの?」と言った。息苦しさを覚えながら、おれはこう言った。

「中在家先輩に、今の鉢屋は昔と少し違う、と言われたから。だけどおれは昔のことを覚えていないから、何がどう違うのか、はっきりしなくて気持ちが悪い」

「はっきりさせる意味は?」

「意味が必要かい? 曖昧なまま放置したくないというのは、至って普通の考えじゃないか」

 おれは顔を上げて雷蔵を見た。彼は目を閉じて、深く息を吐き出した。気が付けば、信号はふたたび赤く点灯していた。低いエンジン音を響かせながらトラックが道路を横切ってゆく。

「……じゃあ、言い方を変える。昔の三郎と今の三郎の性格が違ったとして、それが何だって言うんだ。時代や環境が違うんだから、性格や価値観が変わっていたって不思議じゃない」

 きみは昔のことを覚えているから、自分が間違い無く不破雷蔵であると知っているから、そんな風に言えるんだ。……そう思ったけれど、言葉には出さなかった。結局、雷蔵はおれの気持ちを理解してはくれないのだろうか、と考えると悲しかった。

 反面、彼の言うことが正しいのだということも分かっていた。ひとりの人間がずっと、同じでいるわけがない。今のおれだって中学時代のおれと比べると、物の考え方や振る舞いがだいぶ変化したという自覚がある。たった数年で人は大きく変わるのだから、数百年前の存在と一ミリの誤差もなく同一であるわけがない。分かっている。それもきちんと、理解出来る。

「たとえ三郎が昔と違っていたって、ぼくは気にしない。……それじゃ駄目なのかな」

 やさしい言葉に、身体の内側が熱くなった。いつだって雷蔵は、おれが欲しがるものを分かってくれているし、それを惜しみなく与えてくれる。

「……おれ、は、きみにさえ嫌われなければ、何だって良い」

 おれは単純だし愚かだから、彼の差し出す幸福にすぐ飛びつきそうになる。雷蔵は、ほっとした様子で微笑んだ。

「何だ。それじゃあ、何の問題もないじゃないか」

「でも……雷蔵」

 息苦しさを覚えながら、おれは言葉を続けた。雷蔵がくれる愛と幸せに身を投じて、おれの中をじわじわと侵していた嫌な考えから目をそらしてしまえば、楽になれるかもしれない。しかし、それは一時的なものだ。解決しない限りこの問題は常につきまとうし、おれの心を脅かすのだ。  震えるくちびるを動かして、縋る気持ちでこう言った。

「雷蔵……おれは……おれは、本当に鉢屋三郎なんだろうか」

「…………」

 雷蔵は、軽く目を見開いた。その黒い瞳には戸惑いと、一抹の不安みたいなものが浮かんでいた。

「……何だい、それ。さっきも、そんなことを言っていたけれど」

 雷蔵は言って、怪訝そうに眉根を寄せた。おれは「だって」と吐き出した。考える前に口が動いていた。

「だって誰も、鉢屋三郎の素顔を知らなかったんだろう? だったら、おれが鉢屋三郎本人だって保証は何処にもないじゃないか」

 一息に言った。腹の底が熱かった。やっと言えたという気持ちと、どうして言ってしまったんだという気持ちが一緒になって押し寄せてきた。

「…………」

 雷蔵は黙って、おれの顔を見つめた。おれの言う意味が、すぐには理解出来なかったのかもしれない。もしくは、なんと答えようか迷っているのか。慰めの言葉を探しているのかも。慰められるのはつらい。それだったら、「確かにお前が鉢屋三郎だという証拠はどこにもない」とはっきり言って欲しい。いや、雷蔵にそう言われて生きていられる自信はないが、どうせなら雷蔵に殺されたかった。

 また、信号が青に変わった。しかしおれたちは動かなかった。自転車が、おれたちを追い越して横断歩道を滑るように駆けて行く。

「それは……暴論だよ」

 ようやく、雷蔵からの返事がきた。困惑に満ちた声だった。おれは首を横に振った。

「そうとも言い切れない。だっておれは自分が鉢屋三郎である確証を何一つ持っていないんだ。だから何も思い出せないんじゃないか」

「…………」

「以前、中在家先輩との会話の中で何かを思い出しかけて逃げて来たことがあったろう。あれだって本当は怖かったからだ。おれが鉢屋三郎でないと判明してしまったらきみの側にいられないかもしれないって」

「三郎」

  雷蔵のやわらかな声がおれの言葉を遮った。

「お前が確証を持つ必要はないよ」

 彼はとても軽い口調で、本当に何気なくそんなことを言った。おれは思わずぽかんと口を開けた。それはどういう意味なんだ、と尋ねる前に雷蔵が言葉を続ける。

「お前は三郎だよ。ぼくは三郎を見間違えないもの」

「…………」

「分かった?」

 雷蔵は、何も言えないおれに向かって微笑みかける。  おれは呆然として、雷蔵を見つめ返した。ぼくはお前を見間違えないって、そんな、それは、ええと?  おれは相当混乱していた。雷蔵は、「ぼくがそう言っているのだから、お前は黙って頷いておけば良い」みたいなことを言っているのだ。理屈も何も無い。物凄く強引だし、それこそ暴論だ。結局、おれと鉢屋三郎との因果関係を証明するのは不可能ということじゃないか。  しかしおれは気がつくと、こくりと首を縦に振っていた。

「わかった……」

 頭の中はまだぐちゃぐちゃのままなのに、素直に返事をしていた。だって、雷蔵がそう言うから。

 おれの言葉を聞いて、雷蔵は満足そうに大きく頷いた。そして、掴んだままだったおれの左腕を軽く揺する。 「それじゃあ、そろそろ横断歩道を渡ろう。ぼくたち、ここでずっと立ち止まったまんまだよ」

 雷蔵が信号を指差す。そちらに視線を向けると丁度青になったところだった。一体何度、青信号を見送ったのだろう。

「……うん」

 おれが小さく呟くと、雷蔵はゆっくり歩き出した。おれも、それについて行く。彼はおれの腕を掴んだままだったので、雷蔵に手を引かれて横断歩道を渡る格好になった。恥ずかしいとか、そういう気持ちは湧いてこなかった。

 通りを横断した先には、小さなクリーニング屋がある。その入り口のガラス戸に、おれたちふたりの姿が映っていた。ガラスに映った雷蔵は普段とまったく変わらない様子だったが、おれの方はというと、ぽかんとして締まりのない顔をしていた。

「……雷蔵」

「何だい、三郎」

「顔、ちゃんと見えた」

 おれは、ガラスの向こうにいる自分の顔から視線をそらさずに、言った。見える。何だ、見えるんじゃないか。心が乱れているときは大抵、鏡を見ても自分の顔はぼんやりとして捉えることが出来ないのに、今は見える。はっきりと。雷蔵が、「お前は三郎だよ」と言ってくれたからだろうか。何だ。そうか。雷蔵がそう言ってくれれば、おれは大丈夫なのか。

「それは良かったね」

 雷蔵はおれを振り返って、やさしく微笑んでくれた。だからおれも「うん」と答えて笑った。