■ザ・フール 14■
「おれ、あきらめる」
翌日の昼休み、おれは雷蔵や友人たちに向かって、そう言った。ちょうど兵助と勘右衛門がうちのクラスにやって来たから、言うなら今だなと思ったのだ。
めいめい昼食を終え、勘右衛門が持って来ていた食後の「たべっこどうぶつ」をつついていた彼らは、一斉におれの顔を見た。おれは雷蔵、八左ヱ門、兵助、勘右衛門の顔をひとりひとり確認して、ゆっくりはっきり、もう一度言った。
「ここに、あきらめることを宣言する」
すると、すぐに八左ヱ門が「何を? ダイエット?」と、不思議そうに首を傾げた。
「鉢屋、そんな太ってるかなぁ」
勘右衛門もそこに乗っかり、更に兵助がそっと、おれの方に「たべっこどうぶつ」の箱を差し出してくる。おれは拳で机を軽く叩いた。
「そうじゃない! 昔のことを思い出すのを諦めた、って言ってるんだ」
そう言ったら、少しだけ彼らの表情が引き締まった。沈黙が流れる。教室内にいる生徒たちの話し声がさわさわと、さざなみのように耳を撫でる。
「…………」
雷蔵たち四人は、そっと視線を絡ませた。雷蔵だけでなく全員が、どうリアクションすれば良いか迷っているみたいだった。予想通りの反応である。まあ、そうだよな。そうなるよな。おれは机に片肘をついて、軽く笑ってみせた。
「だからお前ら、おれが疎外感に苛まれないように気を遣えよ」
「えー、そういうこと自分で言っちゃうの」
勘右衛門がくちびるをとがらせる。その隣に座っていた雷蔵が、気遣わしげにおれを見やった。
「……三郎、良いの?」
「そうだよ。お前、あんなに思い出したがってたじゃん」
八左ヱ門は少し困惑しているみたいだった。おれは頻繁に、八左ヱ門に対して忍者だった頃についての質問をしていたから、急にどうしたんだと訝しんだのだろう。
「うん」
しっかりと、頷いた。ゆうべ、一晩考えて出した結論なのだ。もう、昔のことを思い出そうとするのはやめる。自分が何者なのか追及することもしない。雷蔵が「お前は鉢屋三郎だ」と言ってくれた。それが全てなのだ。
「全く未練が無いと言うと嘘になるけれど、何処かで区切りをつけないと、キリが無さそうだから」
あれだけ執着した事柄を一気に全て忘れることは不可能かもしれないが、おれなりに、これが最善だと考えたのだ。雷蔵は目を伏せ、軽く息を吐き出した。
「……そっか……」
雷蔵は何処かほっとしたような表情をしていた。彼には、特に迷惑と心配をかけた。おれは、ごめん、と言おうとしてやめた。代わりに、全然違うことを言う。
「そういうわけだから雷蔵、おれが寂しくならないように最大限配慮してね」
「わ、分かった」
「今まで以上におれを甘やかすんだよ」
真面目な面持ちで頷く雷蔵がいとしくてつい欲を出したら、その愛する彼の顔が僅かに曇った。
「……それ、また違う問題じゃない?」
「あと、中在家先輩と二人で会わないでね」
「それは完全に便乗だよね?」
「便乗じゃないよ」
そんな言い合いをしていると
「まあ、覚えてる方がおかしいんだもんな」
と言う八左ヱ門の声が割り込んで来た。彼は椅子にもたれて、頭を掻いた。彼の髪の毛は今日もぼさぼさに乱れていた。
「おれは元々、あんまり昔の話をするのもどうかと思ってたし、丁度良いんじゃねえ?」
「線引きも必要だしな」
兵助も真顔で同意を示す。勘右衛門はたべっこどうぶつを口の中に放り込み、もぐもぐと噛み締めながら、 「じゃあおれたちも、昔の話はしないってことで」 と言って朗らかに笑った。
八左ヱ門や兵助はともかく、勘右衛門はまだ忍者だったときのことを思い出している最中だと言っていたから、こんな形で昔話を打ち切られるのは不本意かもしれない。しかし彼はそれをおくびにも出さなかった。何でもないことみたいに笑い、「久し振りに食うと美味いな、これ」とか言いながら、たべっこどうぶつを食べている。
彼らは善良で良い奴だ。本当に。深くは追及せず、おれの要求を聞き入れてくれる。あれだけ昔のことにこだわって、周囲を巻き込みもしたくせに何を言っているんだとか、そんな風に責めたりもしない。おれはこっそりと、心の中で友人たちに感謝した。
「…………」
深く、息を吸い込んだ。目の前で友人たちが笑っている。雷蔵も、笑顔だ。 彼らはもう、昔の話をしない。おれが自分で、その扉を閉めた。
これで、過去とはお別れだ。
その日は雷蔵の家にも寄らず、学校が終わったら真っ直ぐ帰宅してすぐにベッドで眠った。ひたすら眠り続け、朝まで起きなかった。夢を見ることもなかった。
カーテンの隙間から射し込む朝日で目を覚まし、自室の天井を見上げて一言「夢を見なかった」と呟いた。
ずっと、夢を見ずに朝を迎える度に絶望していた。ああ今日も思い出せなかった、と落ち込みながら一日を始めていたのだ。しかしその日は、夢を見なかったことにほっとしていた。良かった。これならきっと、断ち切ることが出来る。
それでも最初の三日ほどは、ふとした瞬間に迷いがおれの心を撫でた。雷蔵の笑顔を見たときや、友人たちと休日の計画を立てているときなんかに、本当にこれが最善なのだろうか、もっと努力すれば昔のことを思い出すことも出来たんじゃないだろうか……とかなんとか、潔くない思考に囚われることがあった。
あれで良かったのだろうか。いや、良かったのだ。……本当に?
これの繰り返しだ。
それが分かっていたのか、八左ヱ門たちはおれの前で殊更賑やかに振る舞った。休日ごとに集まり、カラオケに行ったり映画を見に行ったり、小遣いが尽きたら雷蔵の家でゲームをしたりDVDを見たり。この頃はとにかく、息をつく暇もなく遊んでいた。
そうやって、一ヶ月ほどが過ぎた。
四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、教師が「じゃあ今日はここまで」と言うよりも早く、クラスメイトたちは慌ただしく教科書を机の中に押し込み、筆記用具を片付ける。
「起立!」
今日の日直である雷蔵が、号令をかける。普段、おれたちと話しているときとは少し違う、よそいきの声だ。皆は一斉に立ちあがり、雷蔵の「礼!」の声とともに、「有難うございました!」と早口で挨拶をする。それと同時に購買部で昼食を買い求める組が駆け足で教室を出て行く。教師は小さく息を吐き出したが、何も言わなかった。
おれも今日は購買で昼飯を買うつもりだったが、急がずにのんびりと立ち上がった。走って行こうが歩いて行こうが、どうせ混んでいるのだ。
「雷蔵、おれ今日購買だけど、何か買ってくる?」
おれは雷蔵の席に足を向け、そう声をかけた。
「えっ、あっ、じゃあ……」
通学鞄の中から弁当と水筒を取り出そうとしていた雷蔵は、中腰の姿勢のままで静止し、視線をさまよわせた。おれはなごやかな気持ちで、迷っている雷蔵の姿を眺めた。やがて決まったのか、彼の目がおれを見る。今日は随分と早かった。彼はおれに何を頼むだろう。
「あの……、何かおいしいもの」
おれは噴き出しそうになった。何だそれ、可愛すぎるだろ。
「分かった。何かおいしいものを買ってくる」
肩を震わせながら頷き、教室を出た。何かおいしいもの、何かおいしいもの、と心の中で繰り返しながら廊下を歩き、階段を下りる。甘いのか辛いのか、どちらが良いかくらい訊けば良かっただろうか。いや、彼だったらそれも迷ってしまうだろう。おれは彼に任されたのだ。しっかりと、おいしいものを選んで来よう。
一階まで降りて、体育館とは反対側の渡り廊下を歩く。購買部はこの先、学生食堂の手前にあるのだ。
「あ……」
おれは小さく呟き、足を止めた。渡り廊下の端に寄り、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。顔を伏せ、画面を確認するふりをする。
……前方から、両手いっぱいにパンやらおにぎりやらを抱えた七松先輩と食満先輩が歩いて来る。見つかると面倒なので、このままやり過ごそう。
「伊作の分もきちんと買ったか?」
やたらと大きい、七松先輩の声が響く。それに対して食満先輩が、「おお。ばっちりだぜ」と言って笑っている。
伊作先輩、という響きは何処かで聞いたことがあった。……ああ、そうだ。伊作先輩と存在がニアミスの、食満先輩……伊作先輩と食満先輩は同室だったから、とか何とか……。
おれは力を込めて、携帯電話を握り締めた。じくじくと、こめかみが痛む。考えないようにしようと決めた。決めたのだ。
「じゃあ飯を食ったら、バレーしよう!」
「またかよ……」
七松先輩と食満先輩はおれの存在には気が付かず、そのまま校舎の方へと戻って行った。
彼らの声が完全に聞こえなくなってから顔を上げ、深く溜め息をつく。そして思わず、舌打ちが漏れた。
まったく、迂闊だった。先輩たちのことをすっかり忘れていた。彼らは危険だ。いくら雷蔵たちが気を遣ってくれたって、あの人たちを見ると、否応無しに昔のことを意識してしまう。それでは意味が無いのだ。
「…………」
おれはポケットの中に携帯電話を押し込んで、ふたたび購買部へと歩き出した。食満先輩と、七松先輩の声がまだ耳の奥に残っている。彼らの言葉も。駄目だ。どうしても、手放したはずの執着心が刺激される。
「……鉢屋三郎、か……」
普段は雷蔵の顔をしている、変装の達人。成績優秀だが稀代の変人でいたずら者。ろ組の学級委員長として、級友たちの先頭に立っていた。
……というのが「鉢屋三郎」の人物像らしいが、最後まで実体が見えなかった。皆はそれがおれなのだと言うが、まるで自分のことだとは思えなかった。いくつか共通する点はあっても、何も覚えていないせいで、自分が鉢屋三郎であると胸を張って断言することが出来なかった。
……おれはつい最近まで、自分の顔すら知らなかった。そんな男が、遠い昔のことを知っているはずがなかったのだ。
おれの背後には常に鉢屋三郎の影がいて、そいつにじわじわと首を絞められているような感覚だった。その気配は、まだ消えていない。目には見えないが、確実に、いるのだ。
「……何かおいしいものを買おう」
おれはわざと声に出して、言った。そうだ。何かおいしいものを買わなくては。雷蔵に頼まれているのだ。今は、雷蔵に何かおいしいものを届けることだけを考えよう。
購買部に到着した。古ぼけた鉄筋の小さい建物で、売っているものはコンビニとさほど変わらないが、見た目の印象はつぶれかけの個人商店という感じだった。昼休みは開放されている入り口をくぐり、中に入る。混雑はしているが、第一波は去った後らしく、人と人との間にいくらか隙間があった。おれは人の流れを見ながら、その僅かな空間に身体を滑り込ませた。パン売り場で適当に自分の昼食を選び、雷蔵には何か菓子パンでも買おうと視線をずらす。菓子パンコーナーにはあんパンとクリームパン、それとチョココルネが残っていた。どれも雷蔵の好物なので、何を買っても「何かおいしいもの」を提供することは出来そうだ。 少し考えてから、おれはチョココロネを手に取った。これを上下(というのか何というのか)どちらから食べるかを雷蔵に尋ね、存分に迷ってもらおう。うん、それはとても楽しそうだ。
会計を済ませ、購買部を出る。手に提げたビニール袋がガサガサと鳴るのを聞きながら、来た道を戻る。
おれの心は晴れやかだった。うっかり昔のことに思いを寄せてしまったが、それも一瞬だった。おれはちゃんと、これからのことを考えていた。雷蔵と昼飯を食べるのが楽しみだ。チョココロネを渡したら、彼はどんな顔をするだろう。
「鉢屋三郎」の影はきっと、ゆるやかに消えてゆくことだろう。そしていつか、「自分は昔のことを覚えていない」ということも忘れていくのだ。過去への未練をひとりで断ち切ることは難しいかもしれないが、おれには雷蔵がいる。彼と過ごす今と、未来があるのだ。あと、まあ、八左ヱ門たちもいるし。だから大丈夫な気がしてくるのだった。
「ねえねえ」
突然、すぐそばで高い声がした。同時に、乱雑に肩を叩かれる。そちらに視線を向けると、茶色い髪の毛を編み込んだ女子生徒が、おれの隣に並んで歩いていた。同じクラスの女子だ。名前くらいは知っているが、会話をしたことはほとんどない。そんな女が、おれに何の用だろう。
「さっきの話だけど、やっぱり松千代先生がやってくれるから良いって」
彼女は、何か塗っているのか、やけにつやつやした爪を真剣なまなざしで確認しながら早口で言った。彼女の話にまるで心当たりがなかったので、「さっきの話?」と聞き返した。松千代先生は古典の担当教師だ。そして、次の時間が正に古典だった。でも、それが何なんだ。
「だから、さっき言ってた宿題の回収……あっ……」
彼女はおれの顔を見上げ、目を大きく見開いた。驚きに満ちた表情だった。彼女は頬を赤くして、恥ずかしそうに首を横に振った。
「うそ、ごめん、不破くんと間違えてた……」
「…………」
おれは目を瞬かせた。不破くんと、間違えてた。不破くん。雷蔵と。
そういえば、彼女は雷蔵と一緒に日直の当番に当たっている生徒だ。古典の宿題の回収に関する連絡を、雷蔵にしたつもりだったのか。
「……いや、だって、似てるから……!」
彼女は決まりの悪さを誤魔化す為か、何故か責めるような口調で言って、おれから顔をそむけた。おれは何度も、目を瞬かせた。不破くんと間違えてた、という響きが頭の中でぐるぐるしている。
おれは「ねえ」と彼女に声をかけた。
「宿題の回収は松千代先生がやってくれるって、雷蔵に伝えとく?」
「あ……う、うん。じゃあ、お願い」
そう言って、彼女は駆け足でおれから離れて行った。その姿は、人混みにまぎれてすぐに見えなくなった。
おれは無意識の内に、その場で立ち止まっていた。
雷蔵に間違われた。さきほどの女子は、おれの隣に立っても尚、おれを雷蔵だと勘違いして話しかけてきたのだ。おれと雷蔵が似ているから。おれと、雷蔵が。
「……っっ」
背中に、雷みたいな衝撃が走った。思わず、口に手を当てた。こめかみが熱い。背中がまだびりびりしている。それは激しく、かつ甘美な衝撃だった。ありていに言うと、雷蔵を抱くときと同じ感覚だった。
心臓がどきどきと鳴っていた。頭に、首筋に、指先に熱が染み込んでゆく感じがする。不破くん、と呼び掛けられた。雷蔵と間違えられた。そのことにおれは、どうしようもなく昂ぶっていた。
そしてこの瞬間、はっきりと理解した。
おれは間違いなく、鉢屋三郎であると。
「…………」
そうだ。自分が自分であるという確信などなくて当然だ。おれは他人の姿を写し取って生きてきたのだから。おれはずっと、「誰も鉢屋三郎の素顔を知らないのだから、おれが鉢屋三郎であると証明出来る者はいない」と思い悩んでいた。なんと愚かなことだろう。そもそも、証明の方法が間違っていたのだ。
雷蔵は以前、「お前が確証を持つ必要はない」と言った。彼がそういう意味を含んで発言したのかは定かではないが、あの言葉は核心を突いていた。
おれは鉢屋三郎であって、鉢屋三郎でないのだ。 おれは不破雷蔵であり、竹谷八左ヱ門であり、久々知兵助であり、尾浜勘右衛門だ。何者にもなれるがゆえに、何者でもないのだ。
だから誰も……自分自身でさえも、おれが鉢屋三郎であると証明することは出来ない。
それこそが、鉢屋三郎の証明ではないか。
「……ははっ……」
知らずに、笑みが漏れていた。
おれは足を一歩踏み出す。軽い。身体が軽い。気が付けば、おれは走り出していた。
「雷蔵!」
おれは勢いよく、教室に飛び込んだ。自分の席で携帯電話を見ていた雷蔵は、ぱっと顔を上げた。八左ヱ門の姿は見えない。一組にでも行っているのだろうか。
「三郎、おかえり」
雷蔵が目を細めて笑う。いとしさに、胸が苦しくなる。おれは足がもつれそうになりながら、彼の元へと急いだ。そして両手で、雷蔵の肩を掴む。
「三郎? どうし……」
「あのね、宿題の回収、松千代先生がやってくれるって」
「あ……ああ、そうなんだ? 分かった、有難う」
「それとね、おれ、」
そこまで言ったところで、ふと、教室の窓が視界に入った。そこには、おれと雷蔵の顔が映っている。おれの顔。雷蔵と同じ服を着て、彼と同じ髪型をした……、
「うわあっ!」
おれは雷蔵から手を離し、両手で自分の顔を覆った。
「さ……三郎?」
急に悲鳴をあげたおれに驚いたのか、雷蔵が声を引っ繰り返しておれの腕に触れようとした。おれはそれを、反射的に振り払っていた。
「見ないでくれ!」
「え……?」
「見ないで! 恥ずかしいから!」
「ど、どうしたんだ三郎。まさかまた、顔が見えなく……」
違う、と心の中で否定した。おれの目にはしっかりと、おれの顔が見えていた。しかしそれがどうしても、耐えられなかったのだ。
「似ていない……」
わななく手で、おれは自分の顔に爪を立てた。
「全然似ていない! こんなの、髪型や服装と、何となくの雰囲気を真似ているだけだ。有り得ない。今までこんな姿で生活していたなんて! 後ろ姿で間違えられて浮かれている場合じゃない。雷蔵はもっと、もっと……」
「さ……」
「ああ、くそっ、せめて昔の面があれば……。いや、あの頃とは照明も空気も何もかもが違う。根本的に考え直さなくてはならない……くそ、鉢屋三郎ともあろう者が、なんてざまだ」
「さ……さ、三郎、お前……思い出し……」
雷蔵の声は震えていた。おれは右手を雷蔵の方に突き出し、「その話は後!」と彼の言葉を遮った。
「おれは帰るから!」
そう言って、購買部の買い物袋を半ば無理矢理雷蔵の手に押しつけた。彼はビニール袋とおれを交互に見て、
「か、帰るの!?」
と声を大きくした。そのやり取りに、級友たちがこちらに注目する。ああ、ちくしょう。お前ら、おれを見るんじゃない。不完全なおれを見てくれるな。おれは、わたしは、こんな姿を晒すのは本意では無いのだ。
「帰って顔を作る!」
そう言い置いて、雷蔵に背を向けた。そうしたら、雷蔵の手がおれの制服のシャツを掴んで押し止めた。
「い、いや、次の時間、古典の小テストだよ? 宿題の提出もあるし……」
「完璧な変装をする以上に、大事なことがあるとでも!?」
振り返り、強い口調で言った。その勢いに雷蔵はたじろぎ、「えっ、あ……え……あの、ええと」と言葉を探して視線をさまよわせた。
「だからおれは帰るよ。……ああ、そうだ。その前に」
再びきびすを返そうとしていたおれは、ひとつ、やらなければならないことを思い出して雷蔵の方に向き直った。まだ、かける言葉に迷っているらしい雷蔵の肩をぐいと引き寄せ、両手で彼の顔に触れる。
「さっ……」
雷蔵が息を呑むのも構わず、おれは真顔で彼の頬を撫でた。面長な輪郭のラインと、肉付きを確認するためだ。次にたくましい鼻筋を指でなぞり、うすい瞼を辿り、山型の眉を確かめた。雷蔵は目を丸くし、頬を赤らめて口を開けたまま硬直していた。おれは、そのくちびるにも触れる。
これが、雷蔵の顔だ。その形を、感触を、おれは目と頭に焼き付けた。
「よし、分かった」
おれは深く頷き、雷蔵から手を離した。そして彼の目を覗き込み、微笑みながらこう言った。
「雷蔵、今まで中途半端でみっともない変装をしていて、すまなかった。少しだけ時間をおくれ。すぐに、完璧な不破雷蔵に……完璧な鉢屋三郎になってみせるから」
すると雷蔵は呆然としたまま、「は……はい……」と何故か敬語で頷いた。おれは笑みを深くして、身を翻して教室を出た。
さあ、早く。早く鉢屋三郎にならなければ。
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