■ザ・フール 12■

 七松先輩による謎の襲撃を受けた翌日の放課後、おれはひとりで駅前の書店を訪れていた。人を、探すためである。

 思えばその人とは過去に二度、此処で偶然顔を合わせている。だからひょっとしたら今日も……と思いつつ踏み込んだ料理本コーナーで、本当に見つけてしまった。中在家長次先輩その人を。

「…………」

 おれはそっと、近くにあった園芸コーナーの棚の陰に身を隠した。後ろ姿しか見えないが、確かに中在家先輩だった。あのいかつい体格は間違いようが無い。相変わらず、料理本コーナーに溶け込んでいなかった。彼はメモを手に持っており、棚とメモを何度も見比べていた。どうやら、探し物の最中らしい。取り込み中のところを呼び止めるのも何だから、用が終わるまで待っていよう。おれは園芸の棚から適当に本を抜いた。「はじめての小さな庭づくり」というタイトルだった。あまり興味は引かれないが、ぱらぱらとめくってみる。

 ……今日こそ逃げずに、中在家先輩と話をするのである。もうあんな醜態は晒さない。

 雷蔵がおれのことを心配しているのだ。雷蔵が。おれを。

  だからこれ以上停滞してはいけない。中在家先輩の話を聞こう。その結果、昔のことを思い出したとしても……それはもう、運命として受け入れると決めた。そこに、おれの知りたくない真実が待っていたとしても、だ。恐ろしく緊張するが、この壁を乗り越えなければ前に進めない気がするのだった。

 息を吸い込み、おれはちらりと料理本コーナーに目を向けた。

「…………」

 中在家先輩は、まだメモを持ってウロウロしていた。……見つかっていないらしい。もう少し待つことにしよう。

 ガーデニング指南書に視線を戻す。しぜん、雷蔵の家の庭が脳裏に浮かんだ。

 花を育てようとした形跡はあるが、何も植わっていない花壇。しかも小学生時代の雷蔵が自転車をぶつけたらしく、囲いの一部が崩れていた。庭の奥には小さな物置が据えられていて、その横の狭いスペースは昔、雷蔵の秘密基地だったらしい。土の中には今でもクッキー缶に詰め込まれた色とりどりのスーパーボールが埋まっているのだとか。この間、雷蔵がにこにこしながら教えてくれた。

 花や緑でうつくしく彩られた庭も良いけれど、おれは雷蔵ん家の庭が一番好きだな……。

 胸がじんわりと温かくなったところで、再度、料理本コーナーを確認した。

 ……中在家先輩は、まだメモを持って棚を見ていた。  ええと、少し長くはないだろうか。どれだけ探しているんだ。もう店員に訊けよ。

 そんなことを考えていたら丁度良く、黒いエプロンを身につけた若い女性店員が先輩の近くを通りかかった。

 今だ! あの女に訊け!

 しかし中在家先輩は女性店員をちらりと見やっただけで、声を掛けることはなかった。何故だ。おれは足を踏み鳴らしたくなった。その女性店員がこちらに来る。彼女がおれの横を通り過ぎる際に、ネームプレートが見えた。そこには彼女の名字と、「研修中」の文字。……なるほど、だから声をかけなかったのか。確かに、研修中の店員に問い合わせるのはリスクが高い。それならば仕方が無い。

 おれは納得し、辺りを見回してみた。他に店員がいないか探す。そうしたら、見つかった。今度は四十代と思われる男性店員だ。おれはガッツポーズをしたくなった。いける。こいつならいける。恐らく彼は社員だ。もしかしたら店長かもしれない。いける。いけますよ、中在家先輩!

 おれは中在家先輩を見た。彼も男性店員に気付いている。よし、良いぞ。後は呼び止めてメモを渡すだけだ。先輩の手が持ち上がる。口が開く。よし。よし!

「あの……」

 中在家先輩は言った。確かに言った。しかしそれは、蚊の鳴き声とすら呼べないほど小さく、自己主張の乏しい声だった。

 先輩! そんな声じゃ気付いてもらえない!

 歯がゆさに、おれは心の中で叫んだ。それとほぼ同時に男性店員は非情にも、中在家先輩のすぐ近くで方向転換をして去って行った。先輩の声が、聞こえなかったのだ。

「…………」

 中在家先輩は店員の後ろ姿を黙って見送り、がっくりと肩を落とした。

「ああ……もう……!」

 打ちひしがれた様子の中在家先輩を見ていられなくて、おれは持っていた本を棚に戻した。そして大股で先輩に歩み寄る。

「中在家先輩」

「……鉢屋……?」

 声をかけると、中在家先輩の顔が持ち上がった。

「本、探してらっしゃるんですよね?」

「見ていたのか」

「……おれ、店員に訊いてきますよ。メモ貸して下さい」

 おれは先輩に向かって手を差し出した。彼は目を伏せ、おれの手のひらにそっとメモを置いた。

「すまない……」

 ハサミかカッターできっちりと切り取られたノートの切れ端の真ん中に、手書きの文字が見えた。「かわいいキャラ弁」端正な楷書で書かれていたのは、そんなタイトルだった。この男がキャラ弁。色々と言いたいことはあったが、それよりもおれはこのタイトルに覚えがあった。

「ん? これなら、ちょっと前にこの辺で見ましたよ」

 おれは棚を見上げた。中在家先輩は目を瞬かせる。

「本当か」

「ええと確か……ええと……あった」

 記憶を頼りに視線を動かすと、すぐに見つかった。目当ての本は、棚の一番上にあった。隣の本が大判で棚からせり出している為、その陰に隠れていたのだ。これでは、見逃しても仕方が無い。

「これですよね」

 おれは腕を伸ばし、「かわいいキャラ弁」を取り出した。ピカチュウの弁当が表紙のその本を、中在家先輩に手渡す。

「これだ」

 先輩は真面目な顔で頷いた。そして、おれに向かって深々と頭を下げる。

「ありがとう、鉢屋」

「い……いえ」

 大袈裟な礼の仕方に戸惑い、もぞもぞとした返事になった。中在家先輩は顔を上げ、キャラ弁の本を開いた。やっぱり、ミスマッチ過ぎる。

「……先輩、キャラ弁作るんですか?」

 好奇心には勝てず、おれは尋ねた。先輩は少し困ったように言った。

「……親戚の子に、せがまれて……」

「ふうん……おれも一回だけ作ったら、『すごいけど、食べるのが勿体無くなるから、こういうのはもう良いよ』って言われちゃったんですよね」

「親戚の子に?」

「いや、雷蔵に」

「そうか」

「…………」

「…………」

「……そうじゃなくて」

 そんなほのぼのとした話をしに来た訳ではないのだ。おれは居住まいを正した。わざわざ一人で本屋まで来た目的を果たさなくてはならない。

「おれ、先輩に話があるんです」

「何だろうか」

 おれはゆっくりと息を吸い込んだ。言う。今度こそ言うぞ。どんな答えが返ってきても大人の対応だ。キレたら負け。負けだぞ鉢屋三郎。

「……先輩は何度か、昔のおれと今のおれは違う、とおっしゃいましたよね」

「言った」

「それは具体的にどういう点で異なっているのか、教えて下さい」

「…………」

「…………」

 おれは固唾を呑んだ。先輩の顔をじっと見る。角張った頬の、男らしい輪郭。濃い眉。ぴくりとも動かない表情。

 先輩が口を開く。おれはその薄いくちびるを見つめた。

「そんな難しいことは分からない」

 先輩は、やけにはっきりとした口調で言った。

「えっ?」

「分からない」

「わ……?」

「分からない、と言った」

「いやいや! 先輩がおっしゃったんじゃないですか」

 まさかの発言に、おれは膝から崩れそうになった。分からない。分からない、って何だ。そんな答えがあるだろうか。根拠があるから、昔と違っていると言ったのではないのか。あまりに無責任じゃないか。振り絞ったおれの勇気をどうしてくれる。

「強いて言うなら、今日の鉢屋は少し昔の鉢屋に近い気がする」

「えっ、本当ですか?」

 一瞬、胸が弾みかけたが思いとどまる。そんなおだてに乗ってなるものか。

「……じゃあ、どういうところが昔に近いと思うのですか?」

「さあ……」

「いやいやいや」

 勘弁してくれよ、と思いつつおれは言った。これが唯一の糸口だったのに、不発となるともうどうして良いか分からなくなるじゃないか。

 タチの悪いのことに、中在家先輩は嘘をついていたり誤魔化したりしているわけでは無さそうだった。本当に、昔と現在のおれがどのように違っているのか分からないのだ。おれはまた、答えから遠ざかったのだろうか。何だ、この仕打ちは。学校のトイレの前で中在家先輩から逃げた罰だろうか。

  煩悶し続けるおれに向かって、先輩はこう言った。

「雷蔵に訊いてみてはどうだろう」

「ま、まさかの丸投げ……」

「おれよりも、雷蔵の方がお前のことを分かっている」

 淡々とそんなことを言われて、言葉に詰まる。この人は何処まで分かっているのだろう。

「そ、それはそうですけど」

 くそ、口ごもるな。はっきり喋れよ。どうもこの人の前だとペースを崩されてしまっていけない。

 そのときだった。

「……三郎?」

 棚の向こうから、誰かの声がした。まさか、と思った。聞き間違えようのない声だったからだ。

「らっ」

 言いかけたところで、ひょいと、見知った人物が顔を出した。思った通り、雷蔵だった。彼もこの本屋に来ていたらしい。今日、おれは雷蔵に「放課後は用事がある」とだけ告げて学校を出たから、此処で彼に会うのは完全なる偶然である。偶然というか、これはもう運命と言っても良いのではないだろうか。

 ……いや、違う。今はそんなことでテンションを上げている場合ではない。

 雷蔵はおれの姿を認め、笑顔になった。

「やっぱり三郎だ。何か知ってる声がすると思っ……あ、中在家先輩」

 言葉の途中で中在家先輩の姿にも気付き、雷蔵は「こんにちは」と言って小さく会釈をした。先輩も、軽く頷いてそれに答える。そして中在家先輩はおれの肩を軽く押した。

「鉢屋が、本を探すのを手伝ってくれた」

「え」

 雷蔵の表情が固まった。意外そうに目を瞬かせ、次いで、にやっと笑った。彼にしては珍しい、含みのある笑みだ。

「へえ?」

 雷蔵はおれの顔を覗き込もうとした。おれは無意識に、彼の視線を避けていた。雷蔵はもう一度、「へーえ?」と言った。そんな我々の姿を黙って眺めていた中在先輩は、「ああ」と何かに気付いたように頷き、こう言った。

「丁度良いじゃないか、鉢屋。今、雷蔵に訊いてみたらどうだ」

「今!?」

 突拍子も無い提案に、そこそこ大きな声が出てしまった。直後、此処が書店であることを思い出し、慌てて口を閉じる。

「な、何なに? どうしたの」

 状況を全く把握していない雷蔵は、不安そうにおれの制服を引っ張った。中在家先輩は「かわいいキャラ弁」をぱたりと閉じ、いつもの無表情で言った。

「鉢屋、本を見つけてくれて有難う。助かった」

「い、いえ……それは別に良いんですけれど」

「それじゃあ、また」

「ちょっ……」

 先輩はそう言い残すと、さっさとその場から立ち去ってしまった。呼び止めようとしても、振り向きすらしない。

 料理本コーナーに雷蔵とふたり、取り残される形になった。辺りに静寂が戻る。

「ええと……よく分かんないけど、マガジン買ってきて良い?」

 首を傾げながら雷蔵が雑誌コーナーの方を指さすので、おれは「あ……ああ、うん。おれも一緒に行く」と返した。雷蔵は「一体何が起きたのだろう」と言いたげな顔をしているが、正直おれも全く同じ気持ちだったので何とも説明出来なかった。終始無言で雷蔵が週刊少年マガジンを買うのに付き合い、二人並んで書店を出た。

 外はまだ明るかった。携帯電話で時刻を確認すると、十六時を回ったところだった。沈黙を保ったまま、おれと雷蔵は道路沿いの道を歩き出す。そこからひとつ、信号を越えたところで雷蔵が口を開いた。

「……三郎、中在家先輩の手助けをしてあげたんだね」

 まず、そうきたか。おれは一瞬答えに詰まった。違うんだ、別にそういうわけじゃないんだ、と言いたかったが、何が「そういうわけ」なのか自分でもよく分からない上に果てしなく頭の悪そうな返答なので、そいつは喉元に押し込んだ。

「……おれだって鬼じゃないんだから、困っている人がいれば助けるくらいするさ」

 おれがそう言うと雷蔵は、にやっと笑った。本屋で見せたのと同じ笑顔だ。さあ鉢屋三郎をからかってやるぞ! という表情である。勘弁して欲しい。

「ふうーん、へえー」

 雷蔵は、買ったばかりのマガジン(袋を断ったので、むき出しの状態で手に持っていた)で口元を隠し、この上なく嬉しそうに言った。基本的に、彼が喜んでいるときはおれの気持ちも上向きになるはずなのだが、今回ばかりはちっとも楽しくなかった。

「何だい、さっきから。何を言いたいんだよ」

「別に。ぼくはそういう三郎が好きだな、って思っただけだよ」

 すっとマガジンを顔から離し、雷蔵は平然とそんなことを言った。何それ。前触れなくそういうことを言うのは、反則なんじゃないだろうか。普段は……特に外では頼んでもなかなか言ってくれないのに、何で急にそんな。心構えをしていなかったので、色々な衝動が湧いてきてやばい。やばい。どうしよう。どうしてくれる。

「……おれが鉢屋三郎でなくても好きって言ってくれる?」

 おれは何も考えずに言っていた。真っ先にこぼれ落ちたのが、それだった。言ってしまってから、ハッとなる。雷蔵は「ん?」と首を傾けた。おれは何とか誤魔化そうとするが、上手い言葉が見つからない。

 すると雷蔵は「よく分かんないけど」と前置きをして、小さな声で恥ずかしそうにこう言った。

「ぼくは今、目の前にいるお前が好きだよ」

「…………」

 ここが床屋の前でなければ、往来でなければ、おれは泣いていたかもしれない。それは間違い無くおれが一番欲しい言葉だった。