■ザ・フール  11■

 うちの学校の裏庭には池がある。苔むした岩で囲いのしてある年季の入った感がある池だ。水は濁りきっていてどれくらいの深さかは分からないが、時折ぬるりと鯉の背が見える。鯉が何匹いるのか、誰が世話をしているのかは不明だった。

「八左ヱ門がたまに餌をやってるんだよね。鯉に」

 おれの心を読んだかのように雷蔵が言った。彼の右手にはいちごミルクのパックが握られている。

「あいつが? 勝手にやって怒られないんだ?」

「今のところ大丈夫みたい。水を綺麗にしてやれないかって、真剣に悩んでたよ」

「好きだなあ、あいつも」

 おれも、彼と一緒に買ったいちごミルクを一口飲んだ。甘い。その甘さと池の川臭さが混ざって、一瞬喉がぎゅっとなった。

 放課後である。おれと雷蔵は池の端に腰を下ろしてのんびりしていた。この辺りは人通りがほとんどないので、好きな相手と過ごすのに最適なのだ。少し、臭いけれど。

 こうやって雷蔵とふたりで淀みきった池の水面を眺めていると、以前にもこういうシーンがあったんじゃないかと思えてくる。以前というのは勿論、昨日や先週なんてレベルではなく、もっと昔の話だ。

「…………」

 おれは思い切りストローを吸った。勢いよく、いちごミルクの甘さが口に飛び込んでくる。

 こういうことがあったかもしれない。無かったかもしれない。

 ……もしかしたら、「あった」と思い込んでいるだけかもしれない。

 おれは昔のことを思い出したいばかりに、友人たちから忍者だった時代の話をひたすら聞いて回った。その際に情報を仕入れて知ったことなのか、自力で思い出しつつあるのか、自分ではすっかり区別がつかなくなっていた。

 あまり過去の話をしたがらなかった雷蔵の気持ちが、今になって理解出来る。彼の判断は正しかった。先入観を植え付けまいとしてくれていたのだ。雷蔵の言うことを聞かなかったばかりに、おれは今、全力で迷走している。

「ねえ、雷蔵」

「何だい、三郎」

「今度また、ご飯作ってあげるよ」

「本当?」

「何が良い?」

「じゃあ、茄子の煮びたし」

「あれっ、迷わなかったね」

「ふふ、ぼくだってたまにはね」

「でも、茄子の煮びたしって付け合わせだよね? メインは?」

「え?」

「メイン」

「えー……」

 雷蔵はいちごミルクを持ったまま悩み始めた。おれはそれを、じっと見つめる。ゆるく風が吹き、池の水面がわずかに揺れる。

 あー幸せだ幸せだ幸せだ。

 これだけの幸福が今、手の中にあるのだから、それ以上を望むのはいっそ罪なんかないか……という気になってくる。前世の記憶なんてなくても雷蔵はおれの作った茄子の煮びたしを食べてくれるし、絶対に「おいしいよ三郎」と言ってくれるし(というか、言わせてみせるし)、それで充分なんじゃないだろうか。きっとそうだ。だったら……

「雷蔵っ! レシーブ!!」

 突然、何処からともなく大声がした。おれの思考を全て打ち消す非常識な大きさだった。

 反射的におれは立ち上がっていた。ほぼ同時に、雷蔵も。校舎側の方角から白い球が孤を描いて飛んで来るのが見える。バレーボールだ。雷蔵に向かって落ちてくる。謎の声はレシーブ、と言っていた。

「えっ、え、あっ、わ」

 戸惑いつつも雷蔵は腰を落とし、両手を前に出してボールを打ち上げた。 ボールは高々と舞う。その軌道を思わず目で追う。空の青さが目に刺さった。

「鉢屋、トスだ!!」

 けものの雄叫びのような声が耳をびりびりと震わせる。トス。いきなり、レシーブからのトスって何なんだよ。不審に思いながらも、おれはボールから目を離さずに三歩前進し落下点に入った。頭上にボールが落ちてくる。額の前に手をかざし、指先を使ってボールをトスした。

 ボールが再び青空に吸い込まれ、右手後方からひとつの人影が躍り出た。

「少し高いな! でも良いトスだ!」

 一瞬見えた横顔で、あっこの人は前に三年の教室で見た人だと気付く。名前は確か、

「七松先輩!」

 おれよりも先に雷蔵が声をあげる。それと同時に七松先輩は地面を蹴って跳び上がった。おそろしく高い。一瞬、そのまま空を飛ぶんじゃないかと思ったくらいだ。雷蔵は「わあ!」と目をきらきらさせたが、おれは若干引いていた。何だこの、人間離れしたジャンプ力は。

「アターック!!」

 七松先輩はおれのトスしたボールめがけて腕を振り下ろした。打った瞬間、ドゴッと重い音がした。ボールは凄まじいスピードで鋭角に地面へと叩き付けられた。ぞっとする程の威力を持ったスパイクだった。

「よしっ!」

 着地と共に七松先輩はガッツポーズをするが、おれと雷蔵は呆気にとられていた。ボールはてんてんと弾み、池の縁石にぶつかって止まった。

「よおっ! いい天気だな!」

 七松先輩はバレーボールには目もくれず、にこやかにこちらへと近付いて来た。意味が分からない。突然何の説明もなくバレーボールに付き合わせ、その後に挨拶って何なんだ。

「レシーブを打った方……お前が雷蔵だな!」

 七松先輩は、無遠慮に雷蔵を指さした。

「は、はい……。あの、ボールは……」

 転がるバレーボールを案じる雷蔵に、七松先輩は「後で拾う!」と快活に言った。おれは咄嗟に、嘘つけ、と心の中で吐き捨てた。会って間もないけれど、分かる。この人はきちんと片付けが出来るような人間ではない。

「それより雷蔵、何か悩みは無いか」

 七松先輩は雷蔵に詰め寄る。あまりにも唐突な質問に雷蔵は「は、はい?」と頬を引き攣らせていた。当然の反応である。

 七松先輩は、今度はおれを振り返った。不満そうにくちびるを尖らせている。

「鉢屋が長次と二人で何やらこそこそ相談していたじゃないか。長次に訊いても教えてくれないし、ずるいぞ二人だけ」

「……そんなことを言われましても」

 そういえば口止めをしていなかったけれど、おれが前世の記憶を持たないことを、中在家先輩は誰にも話していないらしい。有難いと言うべきか余計なお世話と言うべきか、複雑な心持ちだった。

「鉢屋が長次に相談するなら、雷蔵、お前の悩みを聞いてやろう」

 七松先輩はそう言って、雷蔵の腕をがしっと掴んだ。七松先輩が日焼けしているせいで、 ごく普通の肌色である雷蔵の腕がやけに白く見えた。

「えっ、ぼ、ぼくの悩みですか」

「鉢屋は聞いては駄目だぞ! 二人だけの秘密だからな!」

 返事を待たず、強引な先輩は彼の腕を引っ張って歩き出した。雷蔵はおろおろとそれに続く。

「あの」

 先輩の背中に呼び掛けてはみたが、「いけいけどんどん!」という意味の分からない掛け声にかき消されてしまった。思わず足を一歩踏み出したら 、雷蔵がこちらを振り返り「大丈夫だよ」というような目配せを寄越した。それでおれは、引き下がらざるを得なくなった。

 彼らは十メートルほど離れた木の下で立ち止まり、その場でしゃがみ込んだ。顔を寄せ合い、小声で話し始める。会話の内容は、こちらには全く聞こえない。おれは池の端で、ぼうっとそれを見ている。何だ、この構図。

 こういう場面も、前にあったかなあ……。これは無かったかなあ……。あったかも……?

  いや、流石に無いか。こんな意味不明なシチュエーション。 それよりも、顔が近いんじゃないか。考え過ぎだろうか。

  二人は肩を揺らして笑っている。何を話しているのだろう。

  無意識に、溜息が口から漏れる。今は何があっても鏡を見ないでおこう、と思った。また顔が分からなくなっていそうだ。

 そういえば、中在家先輩の言っていた「昔の鉢屋と違う」の詳細を訊くのも忘れていた。口止めもしていなかったし、何度振り返ってもあの日のおれは最悪だった。思い出す度に死にたくなる。

 確かにおれは思い出しかけた。思い出しかけたのだ。

 ああ、駄目だ。つい先程、「過去の記憶なんて無くも良いんじゃないか」という結論に至ったばかりではなかったか。すぐに心が揺らいでしまっていけない。隣に雷蔵がいないからだろうか。

「三郎」

 雷蔵の声がした。気が付けば、傍らに雷蔵が立っていた。七松先輩の姿は無い。

「……雷蔵。七松先輩は?」

「満足したみたいで、行ってしまったよ。あ、ボールはちゃんと渡したから」

「そう……。で、何を話していたの?」

「……うん? 秘密」

「何だい、それ」

「絶対にふたりだけの秘密だ、と約束させられてしまって」

  それでもおれだけには教えてくれても良いんじゃないか、と言いたかったが口には出さなかった。心の狭い奴だと思われたくないからだ。

「意外と、きちんとアドバイスを下さったよ」

「ふーん……、っ!?」

 おれの語尾は不自然に跳ね上がった。雷蔵が何故か、おれの背中を結構な強さで叩いてきたのだった。叩かれるような流れでは無かった為、驚きが加算されて余計に痛く感じた。

「あっ、ごめん。痛かった?」

 雷蔵は少し慌てた素振りで右手を振った。おれは不可解な思いで恋人を見やる。

「痛かったよ。どうしたの、急に」

「七松先輩のアドバイス通りにしたつもりだったんだけど」

「意表を突いて鉢屋の背中を叩けって?」

「違うよ。渇を入れてやれ、って」

「……てことは、おれについて相談したんだね?」

「あ、あー……」

「相談内容も大体分かったよ」

「ははは……」

 雷蔵はぎこちなく笑った。否定も肯定もしない。先輩の言いつけを守る素振りを見せていたが、元より隠すつもりも無かったのかもしれない。
 
 叩かれた背中がじんじんと痛む。おれは拳を握り締めた。弱気になっている場合ではない。雷蔵が心配しているのだ。