■ザ・フール 10■


 三年二組の教室前で、中在家先輩が来るのを待つ。緊張はしなかった。周囲から聞こえる話し声に「受験」や「部活引退」などの単語がちらほら混じっているのに、ああ三年だなあなんて間の抜けた感想をぼんやりと抱く。

 隣の食満先輩に視線を向けようとしたら、突然肩に、どんっ、と重い衝撃を受けた。一瞬、食満先輩に肩を殴られたのかと思った。しかしそうではなかった。目の前に誰かが立っている。そいつがおれを突いたのだ。背中に寒気が走った。

 中在家先輩?  一体、いつの間に?

 身構える余裕も相手の確認をする隙すらなく、何者かはおれの肩をがっしりと掴んだ。

「鉢屋つかまえたっ!」

 朗らかな声が響く。それで気付く。

 ……中在家先輩では、ない。

  あの朴念仁が、こんなテンションで攻めてくるわけがない。では、何者だ。出会い頭に攻撃してくる非常識な輩は、一体誰なのだ。

 そいつの顔を見ようとしたところに、食満先輩の声がかぶさってくる。

「お前じゃねえよ、小平太! 長次だっつったろ!」

 視界いっぱいに、満面の笑みを浮かべた男の姿が大写しになった。肘までシャツの袖をまくった腕は日に焼けていて、健康的……というか野性的な印象を受けた。

 知らない男だった。小平太、という名前にも覚えはない。しかしこの流れを考えると、忍者関連の人かもしれない。何となくパターンが掴めてきた。

「挨拶くらいはしても良いだろう?」

 小平太と呼ばれた男は、おれの肩を無遠慮に叩いた。一発一発が重くて痛い。男は構わず笑っている。整然と並んだ白い歯が眩しかった。

「お前の挨拶はいてぇんだよ、全体的に。おい大丈夫か?」

 食満先輩が気遣わしげに声をかけてくれるが男はそれも遮り、拳を突き上げて一方的にこんなことを言い放った。

「よし鉢屋、バレーしようぜ!」

「何でそうなるんだよ!」

 食満先輩が突っ込んでくれる。こんな展開、おれでは到底処理出来ないので彼の助け船は非常に有り難かった。

 バレー。バレーボール? 何でバレーボール? 一体、何処から出て来たんだ。意味が分からない。

「長次と留三郎を入れて四人だ。充分、出来るぞ」

「人数の心配をしてるんじゃねえよ。そんで、なんでおれも数に入ってるんだ!」

 教室の入り口で騒ぐ二人の姿を見て、そばを通り過ぎた男子生徒が「また七松か」と苦笑まじりに呟いた。

  七松。この爆竹のような男は、七松小平太というのか。そしてどうやらこのノリは日常茶飯事であるらしい。それは良いのだが、このままではいつまで経ってもおれの目的を果たすことが出来ない。勿論、バレーなどに付き合う気は毛頭無かった。

 おれは七松先輩の肩越しに、三年二組の教室を覗き込もうとした。すると彼の背後に、ぬっと大きな人影が現れた。

「…………」

「あっ、長次」

 七松先輩は振り返り、今しがた現れた人物を振り仰いだ。それは中在家長次先輩だった。おれは息を吸い込んだ。

「…………」

 中在家先輩は、小さく口を動かした。何かを喋っているらしいが、彼の声は一切聞こえてこない。

「そうか、バレーはしないのか。じゃあ、仕方無いな」

 七松先輩は中在家先輩に向かって残念そうにくちびるを尖らせた。おれは少なからず驚いた。 七松先輩が中在家先輩の言葉を聞き取ったのも凄いし、食満先輩とのコミュニケーションが全く成立していなかった彼が、中在家先輩の言うことには素直に従った(……の、だろう。多分。聞こえなかったけれど)のも凄い。

「では、留三郎。伊作を探しに行こう。あいつのことだ。また何か不運に見舞われているに違いない」

「あーもう、勝手な奴だな……」

 七松先輩は意気揚々と、食満先輩は渋々という様子でこの場から去って行った。

  おれは結局、一言も声を発しなかった。口を差し挟むタイミングが一切存在しなかった。まるで大きな嵐に呑まれたようだった。残ったのは謎の疲労感のみだ。

「……鉢屋。話とは」

 かすかな声が聞こえて、ハッとなった。中在家先輩が無表情でこちらを見下ろしていた。相変わらず、感情の起伏が一切うかがえない仏頂面だった。

 おれは中在家先輩と向き合った。一応、色々と心構えをしてから来たのに、今のあれこれで頭の中が全部リセットされてしまった。おれは何をしに来たのだっけ。……そうだ。昨日の非礼を詫びるのが目的だったのだ。

「……昨日は失礼な真似をして、申し訳ありませんでした」

 そう言って、おれはきっちりと頭を下げた。嫌なことは先に済ませておくに限る。すると中在家先輩は軽く首を横に振った。

「……気にしてはいない」

 多分、そんなようなことを言ったのだと思う。如何せん声が小さいし、休み時間なので周囲も騒がしいしでよく聞こえないのだ。これと意思疎通出来る七松先輩は、どんな耳をしているのだろう。

 よし、義務は果たした。これで雷蔵も納得してくれるはずだ。ここからが、本題である。

 そう思ったのに中在家先輩がふらっと廊下を歩き出したので、おれは慌てて彼の後ろ姿を追い掛けた。

「いや、まだ話が……」

 腹が立つくらい大きな背中に声をかけると、中在家先輩は、もそもそと何事かを呟いた。

「……何か」

「はい?」

「おれが何か、気に障ることをしたなら言ってくれ」

 思いも寄らない言葉に、おれは目を瞬かせた。この男も、そういうことを気にする神経を持ち合わせていたのか。少し意外だ。

「……食満先輩、今日初めてお会いしましたが、昔と変わっていないですね」

 なんと答えようか少々迷ったが、あえて関係の無いことを言ってみた。ペースを乱されてばかりでは癪なので、今度はこちらが振り回してやろうと思ったのだ。

「……そうだな」

 中在家先輩はしかめ面のままで、頷いた。まるで説教でも受けているかのような態度だ。ただの雑談なのだから、もう少し楽しそうな表情が出来ないのかと呆れる。そして成り行きで、中在家先輩と並んで廊下を歩く格好になっているが、一体何処に向かっているのだろう。このままついて行っても良いのだろうか。

 ……なんて思案は表に出さず、涼しい顔でこう続けた。

「七松先輩が強引なのも、相変わらずだ」

「小平太も、悪気はないんだが」

「……ところで、中在家先輩」

「何だ」

「おれ、昔のことなんて何ひとつ覚えていないんです」

 軽い口調で、重大なことを告げてみた。中在家先輩の足が止まる。おれもそれに倣って、立ち止まった。それがちょうど男子トイレの前だったので、少々、ウッとなった。

 こんなこと言うつもりではなかったのだが、「おれが何も覚えていないと知ったら、この塗り壁はどんな顔をするだろう」という好奇心が押さえられず、つい打ち明けてしまった。

「…………」

 中在家先輩は、じっとおれを凝視していた。表情に殆ど変化は見られなかったが、それでもいくらかは、動揺しているようだった。その証拠に、先程からやたらと瞬きが多い。

 やった、鉄仮面をはがしてやった、とおれは内心ほくそ笑んだ。昔の記憶が無いことは負けだと恥じていたが、それよりも中在家先輩を手玉に取ってやったという高揚感の方が価値のあることに思えた。立花先輩を騙し仰せたときより、何十倍も嬉しい。

「そうなのか」

 中在家先輩の声が上擦って聞こえたのは、気のせいではないはずだ。おれはわざと、余裕たっぷりに笑ってみせた。

「そうなのです。食満先輩や七松先輩のことも、本当は知りません。適当にそれっぽいことを並べただけです」

「…………」

「分からなかったでしょう?」

「分からなかった」

 溜息まじりに言われ、更に勝ち誇った気分になった。

「……しかし、そうか……」

 口元に手を当て、中在家先輩はゆっくり頷いた。得心がいった、という面持ちだった。

「何ですか?」

 尋ねると、もそもそ、と声にならない声が返ってきた。聞こえない。身体の内側から苛立ちが滲み出しそうになるが、どうにかそれを押し殺した。折角、良い気持ちでいたのだ。それをキープしたい。

「……すみません、中在家先輩。よく、聞こえません」

 努めて穏やかな調子で言った。すると中在家先輩は大きく一歩、こちらに足を踏み出してきた。近い。中在家先輩は大柄なので、目の前に来られると威圧感が尋常でない。あと、暑苦しい。おれは後ずさった。

 中在家先輩は軽く身を屈め、おれの耳元でこう言った。

「だからお前は、昔と少し違うんだな」

 まず、至近距離で男に囁きかけられた不快感に背筋がぞわっとした。中在家先輩の息がかかった辺りを手で払おうとして、頭痛とも目眩ともつかない妙な感覚に教われた。

 視界が回っ……いや傾い……、いや違う正常……あれっ中在家先輩は何処だ。いや目の前にいる。何も変わっていない。おれは何を言っているのだろう。頭の中がぐるぐる動いている。痛いというか、疼くというか、頭の内側がめくれそうというか、

 中から何か出て来そう、と、いうか。

「……っ!」

 気が付けばおれは中在家先輩に背を向けていた。何も考えずに足を踏み出すが力が入らず、二歩目で膝から崩れそうになった。床に手をついて無理矢理身体を起こし、転がるようにして必死で駆け出した。  

 おれは走った。走った走った走った。何処をどう走ったか覚えていないが、がむしゃらに全力疾走し、自分の教室へと飛び込んだ。

 視界がふわふわと歪んでいたが、席について文庫本を読んでいる雷蔵の姿を見つけた瞬間、目の前が一気にクリアになった。

「雷蔵、雷蔵っ!」

 おれはすぐさま、雷蔵に駆け寄った。無我夢中だったので、その辺にいた女子生徒とぶつかりそうになったが、構っていられなかった。

 雷蔵は読んでいた「永遠の0」から顔を上げ、いつもどおりの優しい笑顔を向けてくれた。自らの変化に戸惑い、恐怖を覚えていたおれは、その表情を見てほっとした。

「おかえり、三郎。どうだった、ちゃんと謝っ……」

「さっき、思い出しかけた!」

 おれの言葉を受けて、雷蔵の丸い目が大きく見開かれた。

 そう、おれは思い出しかけたのだ。あれは多分、そういうことだったのだと思う。あと一歩で、吐くほど欲しかった昔の記憶が手に入るところだった。

「えっ! さっ三郎、ほ……、本当に!?」

「本当に!」

「良かっ……」

「違うんだよ! 思い出しかけたのが嫌で、慌てて逃げてきたんだ!」

「え……あ、えっ?」

 雷蔵は怪訝そうに首をかしげた。じれったくてならない。

「だってトイレの前だったんだ!」

「……はあ」

「トイレの前だよ、分かる!?」

「いや、それは分かったけど……三郎は、思い出したかったんじゃないの?」

「だって! トイレの前で、しかも中在家先輩に囁きかけられた瞬間、思い出しそうになったんだよ! そんなロケーションで思い出してしまったら、一生の傷になる!」

 こんなに分かりやすく説明しているのに、雷蔵は目をぱちぱちさせて 「お前のこだわりって、よく分かんないなあ……」なんて言う。どうして伝わらないのだろう。思い出すなら、きみと一緒のときが良いに決まっているじゃないか。

「危なかった……九死に一生を得た気分だよ……。危うく出そうだったけど、引っ込んだ」

「そんな尿意みたいに言わなくても」

 雷蔵は苦笑してから、「でも、取っかかりが出来たんだ。良かったじゃん」と微笑んだ。咄嗟に、うん、と答えそうになったけれど思いとどまる。

「……出来てないよ。あれはノーカンだよ」

「何の意地なんだよ。……中在家先輩、怒ってなかった?」

「ずっとムスッとしてた」

「ああ、それはご機嫌なしるしだよ。三郎と話が出来て相当嬉しかったんだね」

「何だい、それ……」

「中在家先輩とお話しして思い出せそうだったなら、今後、積極的にお話しすれば良いじゃないか」

「恐ろしいことを言わないでくれ!」

 たまらず叫ぶと、雷蔵は愉快そうに肩を揺らした。彼はとても優しいけれど、たまにこうやって意地悪を言うことがある。勘弁して欲しい。笑いごとではないのだ。

 チャンスだった。チャンスだったけれど、最悪のシチュエーションだった。おれは自らの運命を呪った。

 あれがトイレの前でさえなければ!

 目の前にあったのが中在家先輩の顔でさえなければ!