■ザ・フール  09■


 本屋の外におれを連れ出した雷蔵は、しばらく無言のまま歩いた。おれも、黙って彼について行く。本屋に入ったときは比較的穏やかな天気だったはずなのに、今は随分と風が強く、前をゆく雷蔵の髪や制服をはためかせた。

 恐らく、胸の中に言いたいことを山ほど抱えているであろう雷蔵は、依然、無言のままだった。風の音ばかりが騒がしく、おれは耳の後ろがざわざわするのを感じた。

 数分後、雷蔵はコンビニの駐車場で立ち止まった。おれと向き合う格好になり、彼は何かを言いかけたがすぐにまた黙り込んだ。どう切り出すべきか、迷っているのだ。風は一向に止まず、何処からともなくパンの空き袋が飛んできた。その袋が視界から消えたところで、ようやく、雷蔵が口を開いた。

「……あのさ、三郎。何があった、の?」

 不安げに尋ねる彼の声は僅かに震えていた。まだ事態を受け止めきれていない、という様子である。

「お前は中在家先輩が苦手だけれど、きっかけもなく喧嘩を売るような奴じゃない、ってことは分かっているからさ……」

 何も答えないおれに対して、雷蔵は気遣わしげに言った。おれから手を出したことは明らかなのに、一方的に責めたりはしない。雷蔵は、なんて優しいのだろう。おれは、彼の思いやりの深さに感じ入った。

 雷蔵はおれを刺激しないようにと言葉を選んでくれているみたいだが、実は、おれの心はとっくに冷静さを取り戻していた。頭に血が上ったのは、あの一瞬だけだ。その点に関しては、みっともない真似をしてしまったと心から反省している。場所も良くなかった。雷蔵に迷惑をかけたし、軽率だった。そのことを、おれはしっかりと自覚していた。

「……雷蔵、ごめんね」

 おれは小さく頭を下げた。

「い、いや……ぼくは別に……。それよりも……」

「中在家先輩にも、明日、謝りに行く」

「えっ? あ、そ、そう?」

 雷蔵は意外そうに目を瞬かせた。彼の言おうとしていたことをおれが先に、しかも自分から切り出したものだから、びっくりしているみたいだった。もしかしたら、おれが「絶対に謝らない」「おれは悪くない」と強固に主張すると思っていたのかもしれない。

 おれが突然素直になったのには、理由がある。何も本気で中在家先輩に謝罪がしたいわけではない。彼につっかかった行為についてのみ、おれは反省も後悔もしていなかった。あれは、はっきりと喋らなかったあの男が悪い。

 ……ただ、中在家先輩の言葉には検証の余地がある。昔の記憶を持っていると思われる(この点も、本人に確認しなくてはならない)彼が、「鉢屋は少し変わった」と言ったのだ。これは新しい情報である。立花先輩や八左ヱ門たち、それに雷蔵にもそんな風に言われたことはなかったのだ。ならば、そこにヒントがあるかもしれない。

  怒りを引きずっている場合ではない。前進するチャンスなのだ。切り替えろ。そして、考えるのだ。

 中在家先輩を追及することによって、恐ろしい結論に達してしまう可能性も少なからず存在する。見たくない現実を突きつけられるやも。恐怖を感じないといえば嘘になる。しかしおれは、停滞したこの現状が本当に、本当に辛かった。 雷蔵は勿論のこと八左ヱ門たちも良い奴なので、きっと、「おれが傷つかないように」ということを一番に考えてくれているのだろう。有難いが、その愛情と友情が逆におれの進路を妨げているような気がしてならないのだ。

  その点、中在家先輩ならば。悪気は無かったかもしれないが、いきなり「昔と変わった」なんて無神経な言葉を投げてくるあの男なら、雷蔵たちからは得られない何かをおれにもたらせてくれるのではないか。もう、手段を選んではいられない。このままでは気が狂ってしまいそうだ。生き地獄から這い上がる為には、藁にも中在家先輩にも、縋るしかないのだ。嫌だけれど。物凄く、嫌だけれど!!










 翌日の、昼休み。おれは三年の教室へと足を向けていた。上級生たちの行き交う廊下を見渡し、息を一つ吐いた。

 で、中在家先輩はどの教室にいるのだろう。

 折角決意したのに、おれは全力で出鼻を挫かれていた。中在家先輩のクラスが分からないのだ。雷蔵に訊いたら「そういえば、何組なんだろう」と、まさかの答えが返ってきた。嘘だろ、と思った。何で知らないんだ。しかし同時に、中在家との関係はその程度なのだとほっとした。雷蔵は続けて「メールで訊こうか?」なんて言ってくれたけれど、遠慮しておいた。謝りに行きたいからクラスを教えて下さいなんて、格好悪いどころの騒ぎではない。それだったら、全てのクラスに突撃する方がマシだ。

 とは言っても、なるべく時間をかけずに中在家先輩を見つけたかった。上級生ばかりの空間だからといって物怖じするような軟弱者ではないが、立花先輩に出くわす前に片を付けてしまいたい。あの人に絡まれると色々と面倒が起きそうだ。

 おれは手始めに、三年一組の教室を覗こうとした。

「うわっ、鉢屋だ!」

 少し離れたところからそんな声がして、おれの心臓は軽く跳ね上がった。しかし、立花先輩の声ではなかった。中在家先輩でもない。では、誰だ。おれは声の主を探した。

 左の方から、見知らぬ男子生徒がこちらに向かって歩いて来る。おれよりも背が高く、肩幅も広い。何かスポーツをやっているのだろうか。引き締まった体つきをしていた。おれは何となく、この人は警戒しなくても大丈夫かもしれない、と思った。親しげに手を振る姿からは善意しか感じられず、つり目がちの三白眼にも険は無かった。

「うっわー、ほんとに鉢屋だ。うちの学校にいるって話は聞いてたけど、実際会うと変な感じするな。あ、おれ、分かる? 食満留三郎」

 食満と名乗ったその上級生は、にこにこ笑って自分の顔を指さした。けま、とめさぶろう。何処かで聞いたことのある名前だった。おれは記憶を探る。すぐに、思い出した。

「あ、伊作先輩と存在がニアピンな食満先輩」

「あ?」

 一瞬、食満先輩の顔から人の好さそうな笑みが引っ込んだ。おれはすぐに 「……って、竹谷が言ってました」と付け足す。

「分かった。あいつ後でしめとくわ」

 食満先輩はそう言って、手の平を拳で叩いた。ばちん、と重そうな音がする。爽やかな物腰とは裏腹に、意外と気性が荒いのかもしれない。すまん八左ヱ門。お前の犠牲は無駄にはしない。

「それで、三年の教室まで何の用なんだ?」

「ああ……あの、中在家先輩って何組ですか?」

「長次? あいつなら二組だ。おれは三組」

「じゃあついでに、立花先輩は」

「仙蔵は一組だな」

 先輩の言葉に肝が冷える。正に今、その一組に入るところだった。危ない。危機一髪だ。

「長次に用なら、呼んできてやるよ。三年の教室、入りにくいだろ」

 食満先輩はおれの返事も聞かずに、二組の教室へと歩き出した。三年生の教室だからといって遠慮するような奥ゆかしさは持ち合わせていないが、手間が省けるので彼に任せることにした。どうやら食満先輩は、面倒見の良い人らしい。 恐らく、お人好しが過ぎていらぬ厄介ごとを抱え込むタイプだろう。根拠は無いが、そういう匂いがする。

 おれは食満先輩の後に続いた。先輩は三年二組の教室の戸を開け、「長次ー!」と大声で呼びかけた。

 おれは深呼吸をする。

 さあ、いよいよだ。