■ザ・フール 08■
雷蔵は本が好きだ。だから本屋に来ると、彼はテンションが上がって口数が多くなる。そんな雷蔵を見ると幸せな気持ちになるので、自然とおれも本屋が好きになった。
放課後、おれと雷蔵は約束通り駅前の本屋に立ち寄っていた。おれたちにとっては、定番のデートスポットである。
「雷蔵、頼まれてる本って何?」
話題書コーナーを何となく眺めながら、雷蔵に声をかける。いま流行っているのか、ペン字の練習帳がやたらたくさん積まれていた。
「えーとね……何だったかな。オレンジページ、とかそんなだった気がする。ちょっと待って、確認する」
雷蔵はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。あちこちキズが入った旧式の携帯電話を開き、かちかちと操作する。
「あっ」
不意に、何かに気付いた雷蔵が顔を上げた。
「うん?」
おれもつられて、同じ方向を見る。そしてすぐに、雷蔵が何に反応したのかが分かってしまって、顔をしかめた。
「中在家先輩だ」
目線の先、文芸書コーナー付近におれたちと同じく学校帰りの中在家先輩の姿があった。
「…………」
思わず、中在家先輩のでかい図体から目をそらす。雷蔵との楽しいデートに水を差された気分になった。何だってこいつは、いちいちおれの視界に割り込んでくるのだろう。
「挨拶してこようっと」
そう言って雷蔵が中在家先輩に歩み寄ろうとするので、おれは反射的に彼の腕を掴んで止めていた。怪訝そうな面持ちで、雷蔵は振り返る。
「何だよ。こないだはお前に付き合ってスルーしちゃったんだから、今日は挨拶するぞ。会いたくないなら、ここで待っていても良いから」
おれの手をほどき、雷蔵はそんなことを言った。ますます、面白くない。彼はおれの気持ちが全く分かっていないのだ。
「雷蔵と中在家先輩が二人きりになるの、嫌だ」
絞り出すような声で、言った。すると雷蔵は小さく笑った。
「何だそれ。じゃあ、三郎もおいで」
まるっきり、駄々をこねる子どもを諭す口調だった。雷蔵の目に、おれはそんな風に写っているのか。それもまた不満だった。おれは別に我が儘を言っているわけじゃない。誰だって、恋人が得体の知れない人間と親しくしていたら心配するじゃないか。おれの感覚は、普通のはずだ。
雷蔵が中在家先輩に向かって歩いてゆくので、仕方無くおれも続いた。中在家先輩の大きな身体は本屋の風景から浮き上がっており、仏頂面で棚を睨む姿は周囲に威圧感を与えていた。その証拠に、新刊コーナーだというのに他の客が近寄ろうとしない。おれは意味もなく、勝った気分になった。
「中在家先輩、こんにちは」
善良な一般市民に避けられる男に対し、雷蔵はにこやかに声をかけた。こんな奴に雷蔵の尊い笑顔が消費されるなんて、残念でならない。
そんなことを考えていたら、雷蔵がおれの腰を軽く叩いた。お前も挨拶をしろ、ということらしい。何でおれがと思ったが、こちらを見る雷蔵の目が「良いから早く」と言っている。不承不承、おれは「どうも」と呟いて小さく頭を下げた。
「…………」
中在家先輩は、ぼそぼそと口を動かした。何かを喋っているらしいが、全く聞こえない。しかし雷蔵には理解出来たようで、
「あ、そうなんです。ちょっと頼まれものがあって。中在家先輩は……、ああ、なるほど! やっぱり気になりますよね」
なんて楽しそうに返事をしている。どうして聞こえるんだ。今のなんか、蚊の鳴き声どころじゃないくらいの小声だったぞ。これもまた、前世からの繋がりとかいうやつなのだろうか、くそっふざけんな。
「雷蔵、その頼まれものは、向こうの棚だよ」
おれはそう言って、雷蔵の腕に手を絡ませた。少しわざとらしく身体を寄せると、雷蔵は眉を寄せて嫌そうな顔をした。
「……まだ、先輩と話してるだろ」
何て言い方だろう。雷蔵ってば、酷い。どうしておれに優しくしてくれないんだ。
その時、近くから携帯のバイブ音が聞こえてきた。どうやらそれは、雷蔵の制服のポケットで鳴っているらしかった。彼も着信に気付き、携帯電話を取り出してディスプレイを確認する。
「あっ……と、電話だ。ごめん三郎、ここで待ってて」
雷蔵は電話を耳に当てながら一方的に言い置いて、こちらの返事も聞かずこの場から離れていった。
「えっ、ちょ、雷蔵……!」
いや、ここでって、中在家先輩と二人きりになっちゃうじゃん! おれはぞっとしたが、雷蔵は既に店の外へと出ようとするところだった。
「…………」
そうして、おれは中在家先輩と二人で取り残される羽目となった。
どうしよう。絶望的なまでに苦痛だ。別のコーナーに移動してやろうかと思ったが、雷蔵は「ここで待ってて」と言った。なるべく彼の言いつけを破りたくない。それに、何だかこいつから逃げたみたいになるのは悔しい。
ちらりと中在家先輩の方を伺うと、彼はこちらの存在など気にもしていない様子で棚を眺めていた。だったらおれだって、お前がいようがいまいが一切関係ねえよ、と謎の闘争心に火がつき、この場に留まることにした。我ながら子供じみているという自覚はある。しかしどうしても、この男の前ではいつものペースを保つことが出来ないのだった。
隣の大男のことは忘れて何か立ち読みでもしよう。そう思って棚に手を伸ばすと、ぼそりと声らしき音が聞こえた。
「……鉢屋」
どうやら、中在家先輩が口を開いたようだ。奇跡的に、おれにも聞こえた。
「……今、おれのこと呼びました?」
出来れば気のせいだと良いな、と思いつつ確認すると、中在家先輩はゆっくりと頷いた。舌打ちでもしてやりたくなった。どうやらおれは、このコミュ障と会話をしなくてはいけないらしい。面倒臭い。雷蔵、早く帰って来て。
「仙蔵から、鉢屋は昔とまったく変わっていない、と聞いたが……」
ともすれば本のページをめくる音にかき消されそうな声だったが、何故か、その言葉ははっきりと聞き取ることが出来た。思いもよらない話題が出て来て、おれは中在家先輩の横顔を見た。彼は手元の本に視線を落としたままで、続ける。
「おれには、少し変わったように見える」
ぐらり、と足下が大きく揺れたような気がした。首筋がぞわぞわして寒い。息も苦しくなってきた。この男は、一体何を言い出すのだ。
「……はい?」
半笑いの表情で、おれは首をかしげた。昔と違う。おれが。おれが? それはどういう意味だ。おれが、鉢屋三郎ではないと言いたいのか。冗談はやめろ。手が震えてきたじゃないか。しかもこの口ぶりだと、こいつは昔のことを覚えている。おれの知らない、おれが一番欲しいものを持っている。そいつが、おれが昔と違うと言う。
「……おれが、昔と違うって? 何処がですか? 何処を見て、そんな風に?」
平静を保とうとしたが、無理だった。声は上擦り、どうやっても荒れ狂う心を鎮めることが出来なかった。
「…………」
中在家先輩は、じっと黙っていた。いや、もしかしたら何か言っていたかもしれない。しかし聞こえない。胃の辺りがぐるぐるして気持ちが悪い。
「変わった? ねえ、何処が? 何処がですか?」
気が付けばおれは、中在家先輩の肩を掴んでいた。それでも相手は微動だにしない。それどころか、こちらを見ようともしない。
「……先輩、人と話しているときは相手の顔を見ましょうか。おれに言われるようじゃ、正直終わってますよ」
いい加減腹が立って、おれは早口で言った。そうしたらようやく、中在家先輩はこちらに顔を向けた。遅い。良いから早く、質問に答えろ。おれはどう変わったと言うんだ。
「…………」
中在家の口元が動く。おれには、何も聞こえない。おれは奥歯を噛んだ。我慢の限界を感じた。
「聞こえねえんだよ、はっきり喋れ!」
怒りに任せ、中在家の胸倉を荒々しく掴んだ。少し離れたところで、誰かが息を呑む気配がする。中在家はされるがままで、その表情は全く動かなかった。その態度がまた、おれの怒りを煽る。一発ぶん殴ってやろうか、と考えたそのときだった。
「三郎!」
背後から悲鳴じみた声が聞こえた。はっとなって、後ろを振り返る。青ざめた顔の雷蔵が走って来た。
「な、な、何やってるんだよ! すいません中在家先輩!」
雷蔵はおれの腕を引いて中在家から引き離し、無言のままで突っ立っている鉄面皮に頭を下げた。きみが謝ることはない、と言おうとしたところで、メガネをかけた細身の中年男性がおずおずと近付いて来た。ワイシャツの胸に名札が付いているので、どうやら店員らしい。
「あの……お客様……」
露骨に迷惑そうな顔をした店員が何かを言う前に、雷蔵は「すっ、すいません! すぐに出ます!」と叫んだ。そして中在家の方に向き直り、
「先輩、本当にすみませんでした!」
ともう一度頭を下げた。
「三郎、こっち来い!」
「でも、雷蔵……」
「良いから!」
おれはまだ言いたいことがあったが、雷蔵がおれを引っ張って逃げるように店から出てしまったので、何も言えなかった。
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