■ザ・フール  07■

 あちこちに指紋がついて薄汚れている鏡と向き合う。そこには、自分の顔がある。きちんと、見える。分かる。位置も形も、余すことなく感じ取ることが出来る。おれは顎を撫でた。男子生徒が背後を通り過ぎてゆくのが、鏡越しに伺えた。

 学校のトイレの、洗面所である。おれは自分の顔をまじまじと見詰めていた。どの角度からでも、見える。顔がちゃんと分かる。

 これだけはっきり見えている内は大丈夫だろうか……、なんてことを、、ぼんやりと考える。

 おれは少し前まで、自分の顔を知らなかった。雷蔵と出会って初めて、自らの容姿を正確に把握することが出来たのである。色んな意味で高校デビューを果たしたのだ。その喜び、爽快感たるや! まるで、いっぺんに世界が変わったみたいだった。

 ……それでも気持ちの調子が良くないときは、たちまち輪郭がぼやけ、目鼻の存在が曖昧になったりする。我ながら、油断のならない顔である。

 しかし今は見えている。「仲間内で、自分だけ前世の記憶が無い」「思い出す気配もない」「見込みがなさすぎて、自分は本当に『鉢屋三郎』なのか疑い始めてすらいる」 といった、なかなかヘビーな屈託を抱えながらもおれには、鏡の中で小難しい顔をしている自分が、しっかりはっきり見えているのである。

 また、誰かが後ろを通った。なじみのある人物だったので、「あ」と声が出た。急ぎ足でトイレに入ってきたのは、尾浜勘右衛門だった。勘右衛門はおれの側で立ち止まり、鏡を指さして首を傾げた。

「何、鉢屋。ナルシスタイム?」

「おう」

「こーわい」

 勘右衛門は寒そうに肩をすくめた。そのままおれから離れようとしたので、「あのさ、ちょっと良い?」と呼びかける。勘右衛門は顔だけこちらに向け、眉根を寄せた。

「え、ここで話始めちゃう? おれ、今から小便するとこなんだけど」

「まあ、聞けよ。おれって変装名人だったんだよな?」

 この場にはおれと勘右衛門以外誰もいなかったので、声をひそめることもなく普通の調子で話し出した。勘右衛門は「ああ、うん。そうだよ」と軽く頷く。

「おれはずっと変装してた、みたいなことを聞いたけど」

「そうそう、四六時中な。だから誰も、お前の素顔を知らなかったんだよ。ご存知なのは、学園長先生と……山田先生くらいじゃないか、って噂だった」

「…………」

 この話を聞くの二度目だった。最初は、雷蔵の口から。そのときは、気分が高揚した。おれってすごい! と子どもじみた自惚れに上機嫌になった。しかし改めてひとつひとつの言葉を噛み締めると、全く正反対の心持ちになった。

「……聞かなきゃ良かった」

 溜息混じりに言うと、勘右衛門は 「何だそれ」とくちびるを尖らせた。

「折角、人が尿意と戦いながら話してやったのに」

 気が付けば、彼は上靴の爪先で床を小刻みに蹴っていた。思いの外、切羽詰まっていたらしい。これ以上は引き止めない方が良さそうだ。おれは、ひらりと手を振った。

「ああ、悪かったよ。存分に排尿してこい」

「終わるまで待っててよ」

「何でだよ、気持ち悪いな」

 たまに勘右衛門は、その場のノリだけで訳の分からないことを言う。おれは呆れつつ、振り返らずにトイレから出た。

 やはりどうしても、気になることがある。

 変装名人・鉢屋三郎の素顔を誰も見たことがない。

  ここが肝だ。それじゃあ、おれがその鉢屋三郎であるという保証は何処にあるんだ。

 八左ヱ門は、「雷蔵の真似をしたがるなんて、三郎は昔と変わってないよなあ」と言っていた。忍者の鉢屋三郎は不破雷蔵の変装をしていた。だから現代で雷蔵の真似をするおれは、鉢屋三郎。

 それで良いのか? 本当に、そんなことで良いのか?

 みんな、勘違いしているんじゃないのか。だって誰も、鉢屋三郎の正体を知らないんだろう? だったら、別の誰かが鉢屋三郎に成り代わっていても、気が付かないんじゃないか。

  すなわち、「おれはニセ鉢屋三郎だった説」である。

  もっと言うと、おれがたまたま、本当に偶然彼らの同級生である変装名人と似た要素があるというだけで、実際は何の関係も無い人間であるという、「赤の他人説」も、

「はい、無し! 今の無し!」

 不吉な予感を払うべく、おれは勢いよく教室の戸を開けた。目が自動的に、雷蔵を探す。いた。窓際で、八左ヱ門と立ち話をしている。雷蔵はすぐに、おれの姿に気が付いてくれた。そしてこちらに向かって、やさしい微笑みをくれるのだ。

「あ、三郎帰って来た」

「今あいつ、おもいっきり独り言しゃべってなかった?」

 八左ヱ門の言葉はスルーして、おれは大股で雷蔵の元に歩み寄った。

「雷蔵!」

「三郎、おかえ……」

「雷蔵っ!!」

 雷蔵が言い終わるのを待たず、おれは思い切り雷蔵に抱きついた。彼の背中に両手を回して、ぎゅうっと抱擁する。色々なことが限界で、雷蔵に触れなければ死んでしまうと思ったのだ。

「…………」

 八左ヱ門が物凄い顔をしてこちらを見ているのが、視界の端に映った。それと同時に、雷蔵が「……あの、三郎」と言いながらおれの腕を軽く叩く。

「教室の空気が大変なことになっちゃったよ。あと、ぼく今すごいエビ反ってる」

 指摘されて初めて、雷蔵に体重を掛けすぎて彼の姿勢が不自然に後ろへと傾いていることに気が付いた。それとクラスの連中が皆一様に、八左ヱ門と同じような顔をしてこちらを見ていることも。

「あっ、ごめん。エビ反りはいけない。背骨と腰に負担をかけてしまう」

 おれは慌てて雷蔵から離れ、彼の背を支えて直立の体勢へと戻した。雷蔵の体温を感じたお陰で、だいぶ心が落ち着いた。九死に一生を得た気分だ。八左ヱ門が小さな声で、「教室の空気は良いのかよ」と呟くのが聞こえたが、気にしないことにした。

「で、三郎。どうしたの?」

「ちょっと、見えない敵と戦ってた」

 雷蔵の問いに真顔で答えると、雷蔵はきょとんとして目を瞬かせた。可愛い。その隣で、八左ヱ門が肩をすくめる。

「中二おつ」

「そうなんだよ。中二って疲れるよな」

 やはり真面目に応じると、八左ヱ門は何故か泣きそうな顔になって雷蔵に縋り付いた。

「雷蔵、真顔で返されちゃったよお……」

 すると雷蔵は「よしよし」と八左ヱ門の頭を優しく撫でた。何だそれ、羨ましい……などと軽く妬んでいたら、雷蔵がまるい目がこちらを向いた。

「あ、三郎。放課後、本屋寄っても良い?」

「うん! 勿論!」

「頼まれてる本があるんだよね」

「うんうん、行こう行こう」  

「……この流れから普通の会話を始めるお前らって、すげえな……」

「八左ヱ門も来る?」

 雷蔵の誘いに、八左ヱ門は軽く首を横に振った。

「いや、おれは勘右衛門と映画見に行くから良いわ」

「へえ、何の映画見に行くの?」

 雑談に戻る雷蔵と八左ヱ門から少し視線をずらし、おれは窓ガラスを見やった。そこにはやはり、おれがいた。雷蔵に会えて、普段通りの会話が出来て安堵している鉢屋三郎の姿が、きちんと見えていたのだった。