■ザ・フール  05■


「じゃあ、昨日見た夢を説明するな」

「おす、お願いします竹谷先生」

 おれは八左ヱ門に向かって軽く頭を下げた。今は授業の合間の、休憩時間だ。今日は天気が良くて日差しも強く、教室の中にも光がずんずん入って来て眩しかった。

 過去の記憶を取り戻すヒントを得るために、おれは八左ヱ門に昔の話をしてもらうよう頼んだのだった。何故雷蔵に訊かないのかというと、彼に昔のことを尋ねてもあまり教えてくれないからだ。くわえて、雷蔵は今、クラスメイトから回ってきたジャンプを読むのに忙しい。そういうわけでおれは、八左ヱ門の席まで足を運んだのだった。

「えーと、焔硝蔵がここにあるとするじゃん?」

 八左ヱ門はそう言って、 人差し指で自分の机の真ん中を指さした。おれはその言葉に、早くも引っかかりを覚えた。

「焔硝蔵って何?」

「あ、そこから?」

 意外そうに首を傾げる八左ヱ門に、少しむっとした。おれは何も覚えていないと何度も言っているのだから、知らなくて当たり前じゃないか。響きだけでも何となく意味は分かるが、話に登場する語句はなるべく正確に把握しておきたかった。

「焔硝蔵ってのは、火薬とか危ないのとか入れとく蔵だよ。で、焔硝蔵のこっちに用具倉庫があるから、そこにおれが……」

 火薬は分かるが、危ないのって何だと思ったが、話が長くなりそうなのでそこは流すことにした。いや、本当はしっかり聞きたかったが、泣く泣く譲歩した。しかしどうしても、流せない部分がある。

「こっち、てどっちだよ」

「手の動き見て分かれよ。えーと、右だよ」

 八左ヱ門は早く話を進めたいようで、おざなりに答える。しかしおれは、それで納得するつもりはなかった。やや身を乗り出して、更に問い詰める。

「どっちを向いての、右だよ。東西南北で言えって」

「えー? えーと……あれ、どっちになるんだ……。ていうか、焔硝蔵と用具倉庫の位置関係ってそんな重要? こっからの流れにいまいち絡んでこないんだけど」

「ちゃんと言ってくれないと、イメージ出来ないだろ。東西南北、どっちだよ」

 おれは可能な限り細かく、かつて我々が通っていたという学校のことを知りたかった。脳内で地図を作成しながら聞いているのだから、「あっち」だとか「そっち」だとか、曖昧な表現は困る。

「ええと……用具倉庫の方を見て、もうすぐ飯だなーとか思ってたから……そっちに陽が沈んでるから……西!」

「用具倉庫は焔硝蔵の西、な。分かった。続けてくれ」

「そこにおれが来て、のこぎりを借りるつもりだったんだけど、倉庫のあれがさ……」

「あれ?」

 また指示語が出て来て、おれは眉根を寄せた。八左ヱ門は「あれだよ、あれ……」と言って喉元で両手をぐるぐる回す。

「ここまで出かかってんだけど……。あれ、なんて言うの? ドアの……ガッチャンてやる奴」

「ドアのガッチャン……。鍵?」

「鍵で良いの? スライドさせてこう……ガッチャン」

「かんぬき?」

「そうそれ! かんぬきが固くて動かなかったから、用具委員か事務の小松田さんに言わなきゃって思ったら、そっちから伊作先輩が来て、あー伊作先輩かー惜しいなーって感じで。でもそこは流石の伊作先輩クオリティで、落とし穴にドーンて」

 八左ヱ門は楽しそうに話してくれるが、ツッコミ所があまりに多くておれは頭が痛くなってきた。正直、「かんぬきが固くて動かなかった」までしか理解出来なかった。以降は、ところどころ単語を拾えたくらいで、スーッと頭を通り過ぎて行ってしまった。たとえ過去の記憶があったとしても、今の話の意味は分からないんじゃないだろうか。

「……いさくせんぱい、って人だと何が惜しいんだ?」

 何から質問すべきなのかが分からなくなって、おれはそう尋ねた。言いながら、多分これはそんなに重要な点ではないんだろうな……と考えていた。

「伊作先輩は食満先輩と同室だから。ニアピンじゃん」

 八左ヱ門は、更におれを混乱させるようなことを言った。だから、けませんぱい、というのは一体何者なんだ。

「……あのさあ……お前の話、物凄く分かりにくいんだけど」

 とうとう、おれはそう言った。こちらから頼んだことなので、一応、多少は控え目な口調で。すると八左ヱ門は眉を下げ、机にだらしなく肘をついた。

「おれ、こういうのめちゃくちゃ苦手なんだよ……。見たものを口で説明するとか、ほんと駄目で……」

「本を読まないからだろ。雷蔵ん家行って、読んで来いよ」

  おれが言い終わると同時に、当の雷蔵がおれたちの前にひょいっと顔を出してきた。

「ねえねえ、何話してんの?」

 雷蔵の登場で、おれのテンションは目に見えて上昇した。要領を得ない話を散々聞かされてささくれだった心が、彼の声でじんわりと癒されてゆく。好きだ雷蔵。

「あ、雷蔵。ジャンプ読み終わった?」

 八左ヱ門の問いに、雷蔵は「うん。もう回してきた。やっぱ最近のNARUTOは熱いよね」と笑って答えた。よっぽど面白かったらしい。おれも後で回してもらおう、と思った。

「それで、ふたりで何盛り上がってたの?」

 決して盛り上がってはいなかったのだが、雷蔵の目にはそう映っていたらしい。

「雷蔵聞いて、八左ヱ門が質問にきちんと答えてくれないんだ」

 おれは口元に手を当て、悲しげに訴えた。そうしたら、八左ヱ門も全く同じ調子で言葉をかぶせてきた。

「雷蔵聞いて、三郎がすげえめんどくさいこと一杯聞いてくるんだ」

「何、なに? どういうこと?」

「三郎が、おれの夢の話を詳しく聞きたい、って言うから話してやってんのに、文句ばっかりつけてくんの」

「だって、八左ヱ門の話って本当に分かりにくいんだよ。あっちとか、こっちとか、ドーンとか、指示語と擬音ばっかりだ。あと、いさくせんぱい、って何回も言うし。誰なんだよ、いさくせんぱい」

「伊作先輩の話をしてたんだ?」

「伊作先輩と食満先輩は存在がニアピンとか言ってた」

「えっ、何それ、ちょっと面白い」

 雷蔵は噴き出した。おれが「雷蔵、分かるの?」と尋ねると、彼は頷いた。

「何となく、ニュアンスは伝わるかなあ」

「ほらー、おれだけ分かんないし。こうやって、おれはハブにされてゆくんだ」

 おれは八左ヱ門の机に突っ伏した。誰かが無遠慮に、手の平でおれの頭を叩く。雷蔵がそんなことをするはずがないから、きっと八左ヱ門だ。

「誰もハブにしてねえじゃん。そもそも、聞いてきたのはお前だろ」

 八左ヱ門の正論は聞き流し、おれは雷蔵の方に顔を向けた。

「雷蔵、おれ、このままずっと思い出せなかったらどうしよう」

「……何にも変わらないから大丈夫だよ」

 雷蔵は、やさしく微笑んでくれた。可愛い。胸がきゅんとなる。 だけどその笑顔をもってしても、おれの心が100パーセント癒されることはなかった。

 雷蔵は最初から一貫して、無理に思い出す必要はない、という姿勢を取っている。おれは少しだけ、それが不満だった。もっと積極的に、協力してくれば良いのに。

  確かに、思い出さなくても何も変わらないかもしれない。だけど、思い出せばきっと何かが変わるに違いないのだ。

  ……本当はひとつだけ、とある可能性に気付いている。まだそれを考える時期ではない為、胸の中の奥深くにしまい込んである。口にするのも恐ろしい仮定だ。しかし今後、あまりにも何も思い出せないようなら、その可能性も考慮しなくてはない。

 すなわち。

 もしおれが、彼らの言う「鉢屋三郎」ではないとしたら。