■ザ・フール  03■


 明日になれば思い出すだろうと思ったが、思い出さなかった。
 
 その翌日になれば思い出すだろうと思ったが、思い出さなかった。

 更にその翌日には思い出すだろうと思ったが以下同文。

 ならば始業式までには思い出すに違いないと信じていたが、結局何も変わらないままその日を迎えた。

  何も。何もである。おれは昔のことなんて何ひとつ思い出せない。友人たちから色んな話を聞いたのに、おれの心身に変化は一切訪れなかった。

  そんなことってあるのだろうか。普通、もうちょっと何か……何かあるんじゃないか。それっぽい夢を見るとか、何らかの進展があってしかるべきじゃないのか。現状維持ってどういうことだ。一ミリも記憶が蘇らないって何なんだ。おかしいだろう。

「これ読みたいなあ……。でも父さんが持ってた気が……本棚で見た……いや本棚では見てないかな……? だったら図書館で借りてただけかなあ……でも、この背表紙の感じに覚えが……」

 おれの隣で、雷蔵が唸っている。始業式が終わり、おれたちは帰路の途中にある本屋に立ち寄っていた。文庫本コーナーにて雷蔵は池井戸潤「下町ロケット」 を手にして、五分ほど悩みっぱなしだった。

 雷蔵も彼のご両親も読書家なので、不破家には本が沢山ある。小説だけでなく、ビジネス書や新書や実用書や漫画など、ジャンルを問わずとにかく大量に。「本部屋」と呼ばれる納戸が存在するくらいだ。だから雷蔵は常に、持っている本をダブって買ってしまう恐怖と戦っている。

「……雷蔵、その本、多分きみん家の本棚にあるよ」

 おれは雷蔵の肩をつついた。彼の顔が持ち上がって、まるい目がこちらを見た。

「え、本当? 父さんの本棚?」

「ううん、お母さんの本棚で見た」

「そっちかー!」

 雷蔵は、やられた、という感じで天井は仰ぎ見た。その様が微笑ましてく可愛くて、ついつい笑ってしまう。雷蔵は、おれの心の清涼剤だ。

「じゃあ、家に帰って探してみよう」

 雷蔵は「下町ロケット」を棚に戻しながら、続ける。

「三郎はぼくよりも、ぼくん家の本棚に詳しくなっちゃったなあ」

「おれ、今度、不破家の蔵書目録を作ろうかな」

「あ、それ、母さんが前にやろとしてた。でもどんどん増えるから、面倒になってやめちゃうんだよね」

「ああー、成程」

 雷蔵と他愛もない雑談をする。幸福に満ちたひとときである。しかしどうしても、100%その幸せに浸ることが出来ない。腑に落ちない。悔しい。モヤモヤする。すっきりしなくて、気持ちが悪い。そんな雑念が邪魔をするのだ。

「……三郎」

 暗い気持ちになりかけたところで、雷蔵に声をかけられた。絶妙なタイミングだった。流石雷蔵。好きだ。おれは笑顔で「なあに、雷蔵」と返事をした。

「あの、もしかして……こないだの話、気にしてる?」

 雷蔵は声を小さくして、言った。何を、とは聞かなかった。ひとつしかないからだ。おれは顎を引いて、雷蔵の顔をまっすぐに見た。そして答える。堂々と。

「うん、すっごく」

 一瞬だけ、格好つけて気にしていないふりをしようかな……と思ったけれど、やめておいた。そんな風に虚勢を張っても雷蔵には通用しない。だからおれは正直に言った。おれはすっごく、それはもう全力で、この間の話を気にしているのだ。

「やっぱり」

 雷蔵はため息をついた。その表情からほんの少し、後悔の色が伺えた。あんな話をしなければ良かった、と思っているのだろうか。それは違う、と言いたい。

「あの、ぼくはお前に隠しとくのが嫌だから言っただけでさ、思い出せないならそれで良いんじゃないかなって……思うんだよね……」

「だって、おれだけ覚えてないんだよ?」

 考える前に、それが口から飛び出していた。そう、おれが一番引っ掛かっているポイントはそこだ。自分だけ、という疎外感。友人たちが皆知っている物事を、おれだけが知らない。もっと言うと、本来ならば雷蔵と様々な思い出を共有出来るはずなのに、おれが何も覚えていないばっかりにそれが出来ない。嫌だ。我慢出来ない。意地でも思い出してやる、という気持ちになる。

「でも……覚えてないものは仕方ないじゃん」

  困ったように、雷蔵は言った。おれは間髪を入れずに、言い返す。

「雷蔵だって、おれが思い出した方が良いだろう?」

「え、ええー……どうだろう」

 雷蔵は視線をさまよわせた。迷っているのだ。 こういうとき、彼の迷い方にはパターンがふたつある。

 ひとつ、自分の中で答えが定まらなくて迷っている。

 ひとつ、答えは決まっているが口に出すかどうかを迷っている。

 場面によって他にも様々な懊悩バリエーションが存在するが、イエスかノーで答えられる局面では、大体この二つだ。

 どちらにしても、雷蔵は少なからずおれに昔のことを思い出して欲しい、という気持ちがあるのだということが分かった。そうでなければ、迷わず「思い出さなくて良い」と言うはずである。

 雷蔵も望んでいるならば、尚更思い出さなくてはならない。

「よし、頑張ろう」

 おれは拳を握って、気合いを入れた。同時に、レジの方から「時刻表って何処ー?」という、間延びしたじいさんの声が聞こえてきた。

「頑張ることかなあ……」

 雷蔵はもう一度、息を吐き出した。直後、今度はひとつ向こうの棚から「あの、NHKテキストを探してるんですけど」と若い女性の声がした。次いで、電話の音が響く。先程まで店内は静まりかえっていたのに、急に忙しくなってきたようだ。

 おれたちは、どちらからともなく文庫コーナーから離れ、出入り口に向かって歩き出した。

「雷蔵が思い出したときのシチュエーションは?」

 出入り口に面した雑誌コーナーにさしかかったところで、おれは雷蔵に尋ねてみた。

「うん?」

「そういえば、詳細を聞いてないなって思って。どういう状況で思い出したのか、詳しく教えてよ」

 何か参考になるかもしれない。もっと言うと、その状況をなぞれば糸口が見つかる可能性があるのではないか。そう考えての質問だったのだが、何故か雷蔵は顔を赤くして黙り込んでしまった。

「雷蔵?」

「……恥ずかしいから、此処では言えない」

 雷蔵は耳まで赤くして、恥ずかしそうに言った。

 何だそれ。物凄く、ぐっと来るじゃないか。