■たまごとわたし 前編■



 販売する古書一覧を中在家先輩と松千代先生に確認して貰って、了承が出たら運び出しの日程を決めて、ええとそれから……。

 不破雷蔵は、急遽開催が決定した文化祭の準備についてあれこれ考えながら、長屋の廊下を歩いていた。既に陽はとっぷりと暮れている。今日は朝からずっと委員会の仕事に追われていたので、時が過ぎた実感というものがまるで湧かなかった。

「ああ、そうだ。当日の役割分担も考えないとなあ……。それに、陳列の方法も……」

 次から次へと、やらなくてはならないこと、考えなくてはならないことが出て来る。全く、忙しい。溜め息をつきながら、雷蔵は自室の障子を引いた。

「ただい……うわあっ!!」

 帰りの挨拶は、途中で悲鳴に変わった。

  足元に、人間の頭部が落ちていたのである。

  すぐにそれはお面なのだと分かったが、あまりにも精巧に作られているので、一瞬、本物の顔かと思ってしまった。更にそのお面は雷蔵の知っている顔……タソガレドキ忍隊の組頭そのものであったのだ。雑渡昆奈門の顔が床に転がって、こちらを見ている。筆舌に尽くしがたい気味の悪さであった。

 こんな悪趣味なものを作り上げる人物は、ひとりしかいない。

 雷蔵は、顔を持ち上げて室内に目を移した。床には、沢山のお面がごろごろと転がっていた。ドクササコの忍者に、暗殺者の万寿烏と土寿烏。それら全てが本物と見まごう程の完璧な造形で、言いようのない威圧感と不気味さを放っている。雷蔵の背筋に悪寒が走る。まるで、曲者に囲まれているみたいだ。

「やあ、雷蔵、お帰り」

 部屋の奥で作業をしていた三郎が、着色しかけのお面と筆を置き、片手を挙げた。その笑顔の爽やかさに、雷蔵は深く息を吐き出した。

「鉢屋三郎、お前なあ……」

「あ、踏まないように気を付けておくれね。まだ乾いていないのもあるから、出来れば手も触れないでくれ」

「頼まれたって、触らないよ」

 雷蔵は憮然として言い放ち、面と面との隙間に足を踏み出した。その際にまた、雑渡昆奈門と目があった。居心地が悪すぎる。

 三郎が座っている辺りは比較的場所が空いていたので、雷蔵は彼の側に腰を下ろした。しかし、まったく落ち着かなかった。床から、無数の視線を感じる。自室なのに、ちっとも寛げない。

「……で、三郎。これは一体何なんだ」

「文化祭の出し物だよ。我らが学級委員長委員会は、お面屋を出店するのさ」

「だからと言って、何も曲者ばかりを取り揃えなくても……」

「ああ、疲れた。今日はこれくらいにしておこうかな」

 三郎は雷蔵の言葉には応えず、大袈裟に伸びをしてから軽く腰を叩いた。

「それにしても、雷蔵。遅かったね」

「ああ、うん。こっちも結構忙しくて」

「それに……」

 三郎はそこまで言って、片腕を雷蔵の肩に回し、自分の方に引き寄せた。それから、雷蔵の首もとに顔を近付ける。

「何だか、たまごの良い匂いがする」

「あはは、分かる?」

 三郎の髷が頬をくすぐり、思わず笑い声が口からこぼれた。

「図書委員会では、中在家先輩お手製のボーロと古書を販売するのだけれど、先輩がボーロの試作品を振る舞って下さったんだよ」

 そう言うと、三郎がぴくりと身じろぎをするのが分かった。

「すっごく美味しかったんだよ。ふわふわで柔らかくて、たまごの匂いがして、甘くってさ」

 その味を思い出して、雷蔵は笑顔になった。

「本当はね、お前の分も持って帰って来ようと思ったのだけど、余った分は、突然やって来た七松先輩が食べてしまったんだ」

「……い」

「うん?」

「いらない、そんなの」

 あからさまに尖った声だった。突然不機嫌になった三郎に、雷蔵は苦笑を浮かべた。また、始まった。

 どうにも三郎と中在家長次は相性が悪い。何が気に食わないのか分からないが、三郎は図書委員長が絡むとたちまち態度を硬化させてしまうのだ。

「……そう言わずにさ、三郎。文化祭当日は食べにおいでよ。ね?」

「行かない」

「本当に、美味しいんだよ。そんな風に意地を張っていちゃ、勿体ないよ」

 雷蔵は両手を三郎の背中に回し、子どもをあやすように軽く身体をゆすった。

「良い、食べない」

 やはり三郎は、頑なに首を振るばかりであった。

「そのときは、ぼくがお茶を淹れてあげるから。丁重におもてなしするよ?」

「…………」

 三郎は黙り込んだ。どうやら気持ちが動いたらしい。お茶を淹れるなんて、些細なことなのに。こういうとき、雷蔵は三郎のことが可愛いと思う。

「三郎、来てくれるかい?」

 なるべく優しい声で囁く。が、返って来た答えは「……行かない」だった。

 はてさて、どうしたらこの駄々っ子の機嫌を直すことが出来るだろう。

 三郎は、雷蔵にすっかりもたれかかって動こうとしない。半ば途方に暮れつつ対処法を考えていたら、三郎が小さな声でこんなことを言った。

「おれだって、ボーロくらい作れるもの」

 咄嗟に、彼が何を言っているのか理解することが出来なかった。ボーロを演し物にするのは、図書委員。三郎は学級委員長委員会として、お面屋を出店するのである。彼は一体、何を言っているのだろう。

 だから雷蔵はその言葉の意味を深く考えることなく、反射でこのように返してしまったのである。

「え、お前がボーロを作れたって、どうしようもないじゃないか」

 それは、まったくの失言であった。










「三郎、三郎ったら」

「…………」

 背を向けて膝を抱える三郎に、雷蔵は縋り付くように呼び掛けた。先程から、ずっとこうだ。

 ただでさえ拗ねていたところを、雷蔵の考え無しの発言によって、更に頑なになってしまった。どれだけ雷蔵が声をかけても、ちっとも反応してくれない。

「悪かった、って言ってるじゃないか」

「…………」

 何度も謝っているのに、三郎は沈黙したままである。

「ねえ、三郎。本当に、ぼくが悪かったよ。そういう意味じゃなかったんだってば」

「……いいよ、もう」

 ぼそりと声が聞こえた。やっと口を開いてくれた、と雷蔵が喜んだのも束の間、三郎はこのように続けたのだった。

「雷蔵は、おれが作ったものなんて興味が無いんだろう」

 この、穿った思考回路をなんとかして欲しい。雷蔵は思わず肩をすくめた。しかし今回は全面的に雷蔵が悪いので、飽くまで低姿勢を保つことにする。

「そうじゃないったら。ぼく、お前の作るご飯もお菓子も大好きだよ」

「…………」

 また、三郎は黙りこくってしまった。

「三郎、無神経なことを言って悪かったよ」

「…………」

「三郎、ねえ、三郎」

「…………」

「後生だから、こちらを向いておくれよ」

「…………」

「ねえ、三郎。お前にそっぽを向かれると、ぼくは辛いよ」

 そう言うと、三郎の背中がほんの少しだけ、動いた。

「……本当に、そう思っている?」

 三郎は、肩越しに雷蔵を見た。少しだけれど、やっとこちらを向いた。雷蔵はほっとした。

「思っているとも。ぼくは、三郎のことが一等好きだもの」

 心を込め、噛み締めるようにして言った。すると、とうとう、三郎はゆっくりと身体ごと雷蔵の方に向き直ったのだった。